教会日記2023.3.13(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第三月曜日のミサ」月曜日) [教会日記]
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「四旬節第三月曜日のミサ」に与りました。風がありますが、久しぶりに暖かい朝です。日中は一時的に雨が降るようですね。花粉症の私としては、雨天の方が花粉が飛ばなくて助かります。今日も清々しい朝を迎えています。
ミサでは、まず主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、
そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
ミサでは、まず主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、
そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
デカルトのことば [キリスト者(クリスチャン)]
「言葉は文字より、はるかに説得力がある。」
ルネ・デカルト(フランス:1596年~1650年)は、カトリック教会のクリスチャンで、“近世哲学の父”と称せられるフランスの大哲学者・数学者です。カント、ショペンハウアーと並んで最も有名な哲学者ですね。有名な「我思う、ゆえに我あり(われおもう、ゆえにわれあり)は、デカルトが、その著書である『方法序説』(Discours de la methode)の中で提唱した命題です。『方法序説』の他、『省察』、『哲学原理』及び『真理の探究』などの著作があります。
この言葉は“現代メール社会”に適応する言葉ですね。何でもメールでしか伝えることができない若者が多くなってきました。これは大きな社会問題だと思います。「とりあえずメールしておけば。」……人に伝わると思っているようですね。これは大きな勘違いであり間違いです。最近の大学生を観ていると、友達付き合いの下手な学生が目立ってきたように感じます。
インターネット時代ですから、情報収集もパソコンがあれば足りますし、携帯電話があれば、どこでも・いつでも・なんでもできますから。とても便利な機器ですが、そこには“生の感情”が伝わらないという欠陥がある機器だということも忘れてはなりません。
友達の存在価値が低下し、友達との間合い(距離)を肌で感じないものですから、人間関係で訓練されていない分、友達関係でもギクシャクして苦労が耐えないというのが実情のようです。ですから、社会人となって就職しても人間関係で躓いて耐えられなくなり、すぐ辞めるという若者が多いのです。こんなことでは、友達はできても本物の親友はできないでしょうね。
時代がどのように変わろうとも、やはり「膝を突き合わして」、「顔を合わせて」、「人と向き合って」といった人との係わり合い方を大切にして、自分の言葉で直接伝えることがコミュニケーションの基本中の基本だと思います。「意思の疎通」なんて言葉は、そのうちに死語になるかもしれません。怖い時代です( ̄▽ ̄;)
ルネ・デカルト(フランス:1596年~1650年)は、カトリック教会のクリスチャンで、“近世哲学の父”と称せられるフランスの大哲学者・数学者です。カント、ショペンハウアーと並んで最も有名な哲学者ですね。有名な「我思う、ゆえに我あり(われおもう、ゆえにわれあり)は、デカルトが、その著書である『方法序説』(Discours de la methode)の中で提唱した命題です。『方法序説』の他、『省察』、『哲学原理』及び『真理の探究』などの著作があります。
この言葉は“現代メール社会”に適応する言葉ですね。何でもメールでしか伝えることができない若者が多くなってきました。これは大きな社会問題だと思います。「とりあえずメールしておけば。」……人に伝わると思っているようですね。これは大きな勘違いであり間違いです。最近の大学生を観ていると、友達付き合いの下手な学生が目立ってきたように感じます。
インターネット時代ですから、情報収集もパソコンがあれば足りますし、携帯電話があれば、どこでも・いつでも・なんでもできますから。とても便利な機器ですが、そこには“生の感情”が伝わらないという欠陥がある機器だということも忘れてはなりません。
友達の存在価値が低下し、友達との間合い(距離)を肌で感じないものですから、人間関係で訓練されていない分、友達関係でもギクシャクして苦労が耐えないというのが実情のようです。ですから、社会人となって就職しても人間関係で躓いて耐えられなくなり、すぐ辞めるという若者が多いのです。こんなことでは、友達はできても本物の親友はできないでしょうね。
時代がどのように変わろうとも、やはり「膝を突き合わして」、「顔を合わせて」、「人と向き合って」といった人との係わり合い方を大切にして、自分の言葉で直接伝えることがコミュニケーションの基本中の基本だと思います。「意思の疎通」なんて言葉は、そのうちに死語になるかもしれません。怖い時代です( ̄▽ ̄;)