教会日記2023.3.27(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第五月曜日のミサ」月曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「四旬節第五月曜日のミサ」に与りました。先週末の雨も昨日であがり、今日は久しぶりに晴れてますね。桜の花びらが散り風に舞っています。若葉も出てきましたね。今日も清々しい朝を迎えています。

ミサでは、まず主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」

次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、

そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
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新約聖書:ヨハネによる福音書・第2章・第1第〜第11節 [聖書]

「さて、三日目にガリラヤのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちもその婚礼に招かれていた。ぶどう酒がなくなりかけていたので、母はイエスに、「ぶどう酒がありません」と言った。すると、イエスは母にお答えになった。「婦人よ、それがわたしとあなたとにどんな関わりがあるのでしょうか。わたしの時はまだ来ていません。」。母は給仕たちに、「何でもこの人の言うとおりにしてください」と言った。
ところで、そこにはユダヤ人が清めに用いる石の水瓶が、六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスは給仕たちに、『水瓶に、水をいっぱい入れなさい』と仰せになった。彼らは水瓶の縁まで水でいっぱいにした。イエスが、「さあ、それをくんで、宴会の世話役の所に持って行きなさい」と仰せになると、彼らはそれを持って行った。
世話役は、ぶどう酒になった水を味わってみた。水をくんだ給仕たちはそのぶどう酒がどこから来たのか知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「誰でも初めに善いぶどう酒を出して、酔いの回ったころに、質の劣ったものを出すものですが、あなたは善いぶどう酒を今まで取っておいたのですね」。イエスは最初の徴としてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。そして、弟子たちはイエスを信じた。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(イエス・キリストお言葉又は聖書の言葉)は、イエス・キリストが初めて奇跡を行ったことを描写している聖句です。水がワインになるという奇跡ですが、イエス・キリストは、人々を信仰に招くために多くの奇蹟(=しるし)を行っていました。重い皮膚病(規定の病)の人の肌を綺麗にして治したり、耳の聴こえない人を聴こえるように、盲人の目を見えるように、歩けない人を歩けるように、喋れない人を喋れるように、死人を生き返らせたりしています。決して魔法などではありません。これは奇跡なのです。

この場面では、水をワインに変えて使徒(弟子)達の信じる心を開かせるために行った最初のしるし(=奇蹟)ですね。水がワインになるという描写は、ファンタジー映画などによく使われています。元々は聖書の中にあるイエス・キリストが行った奇跡のことなのです。キリスト教世界では、一般的に「カナの婚礼」と言われる聖書の有名な箇所です。神学者や聖職者によっていろいろな解釈がなされていますが、私はこの物語でポイントとなるところは、次のマリア様とイエス・キリストの会話の部分にあると思うのです………。

「母はイエスに、『ぶどう酒がありません』と言った。イエスは母にお答えになった、『婦人よ、それがわたしとあなたとにどんな関わりがあるのでしょうか。わたしの時はまだ来ていません。』と」
(婦人と母とは、聖母マリア様のこと)
この聖句の部分ですが、イエスがキリストの答えは、一見とんちんかんなことを言っているように感じられますね。それに、自分の母親に対して「婦人よ」という言い方は、あまりに冷たい他人に対する言い方のような気がします。これは、イエス・キリストは母であるマリア様に要求されたから答えたのではなく、神の子イエス・キリストとして主体的に恵みを与えるということを発言されたのではないかと推察します。神の子であるイエス・キリストとして、「ぶどう酒」は、ミサにおいていただくイエス・キリストの血を象徴しています。

今日の聖句の解釈は、信徒ではない方には難しいですね。
イエス・キリストの復活とミサにおけるご聖体と御血(おんち)の拝領を念頭に置いてこの箇所を読むと、マリア様とイエス・キリストの会話は、まるで違った解釈ができるのではないかと思います。それは「私(イエス・キリスト)が死に、あなた方がその記念として聖体拝領を行い、私の血の杯を飲む時はまだ到来していない。」とおっしゃられているのではないかと解釈できるからです。イエス・キリストが「神の国の到来を告げ知らせて悔い改めを述べ伝える」宣教活動の最初のところで、十字架の死に臨む最後のところも暗示されているというわけですね。
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