教会日記2023.3.19(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第四主日のミサ」日曜日) [教会日記]
今日は、カトリック成城・聖タデオ教会での10時からの「四旬節第四主日のミサ(喜びの主日のミサ)」に与りました。四旬節の第四主日は、「喜びの主日」と言われており、司式する司祭(神父様)の祭服は、喜びの色であるバラ色でした。
今日のミサは、聖タデオ聖歌隊の聖歌奉仕の担当グループに当たっており、答唱詩編の典礼聖歌集・第123番「主はわれらの牧者」が独唱担当だったものですから、早朝8時に信徒館2階の会議室のピアノで音程を取りながらの個人練習、9時から担当日グループの練習を行って10時からミサに与りながら聖歌奉仕本番でした。まだ、会衆全体はもちろんのこと聖歌隊全員でも歌えず、聖歌隊員6人一組の担当日グループに分かれての聖歌奉仕となっております。ちなみに、本番は上手くは歌えたのですが、早朝からの練習に熱が入りすぎて、少々疲れた声になってしまいました(⌒-⌒; )
◯歌った聖歌は、次のとおりです。
入祭の歌:典礼聖歌集・第311番「神を求めよ」
答唱詩編:典礼聖歌集・第123番「主はわれらの牧者」(独唱担当)
四旬節詠唱:典礼聖歌集・第260番第四主日A
奉納の歌:典礼聖歌集・第393番「主が手をとって起こせば」
拝領の歌:典礼聖歌集・第128番「主を仰ぎ見て」
◯聖堂2階の聖歌隊席から撮影しました。
ミサでは、まず主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、
そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
今日のミサは、聖タデオ聖歌隊の聖歌奉仕の担当グループに当たっており、答唱詩編の典礼聖歌集・第123番「主はわれらの牧者」が独唱担当だったものですから、早朝8時に信徒館2階の会議室のピアノで音程を取りながらの個人練習、9時から担当日グループの練習を行って10時からミサに与りながら聖歌奉仕本番でした。まだ、会衆全体はもちろんのこと聖歌隊全員でも歌えず、聖歌隊員6人一組の担当日グループに分かれての聖歌奉仕となっております。ちなみに、本番は上手くは歌えたのですが、早朝からの練習に熱が入りすぎて、少々疲れた声になってしまいました(⌒-⌒; )
◯歌った聖歌は、次のとおりです。
入祭の歌:典礼聖歌集・第311番「神を求めよ」
答唱詩編:典礼聖歌集・第123番「主はわれらの牧者」(独唱担当)
四旬節詠唱:典礼聖歌集・第260番第四主日A
奉納の歌:典礼聖歌集・第393番「主が手をとって起こせば」
拝領の歌:典礼聖歌集・第128番「主を仰ぎ見て」
◯聖堂2階の聖歌隊席から撮影しました。
ミサでは、まず主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、
そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
新約聖書:ルカによる福音書・第21章・第36節 [聖書]
「いつも目を覚ましていなさい。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
この聖句(イエス・キリストの言葉)の前に、第34節で「あなた方の心が放縦や泥酔、また世の煩いにふさぎ込むことがないよう(中略)注意しなさい。」と説いておられます。イエス・キリストは、私たちの信仰生活に「目を覚まして祈る」ことの大切さえお説いておられるのです。イエス・キリストの説く<目を覚ましている状態>とは、「気をそらせることなく、注意している」ということです。すなわち、「心が鈍くならないように、霊的生活が生ぬるいものにならないように」ということです。つまり「真摯(しんし)に祈る」ということです。
単に言葉を唱えるだけの祈りではなく、「いつも目を覚ましている状態で祈る」ということです。信仰生活において心に火を灯し続けるのは祈りです。情熱が冷めそうな時、祈りは心に再び火をつけ、物事の中心である神のもとへとわたしたちを立ち返らせます。祈りは魂を眠気から覚まし、本当に大切なこと、人生の目的に焦点を当てさせてくれます。どんなに忙しくても祈りを疎かにはできません。それがたとえ「主イエス・キリスト、私たちを哀れんでください」という短い祈りであっても、いつも心が目覚めているように祈ることです。
次は、前述の聖句「いつも目を覚ましていなさい。」と解釈が類似している聖句とその解釈を掲載しておきます。これは、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい」とイエス・キリストは説いておられます。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第26章・第41節
「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈りなさい。心ははやっていても、肉体は弱いものだ。」
◯新約聖書:マルコによる福音書・第14章・第38節
「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい。心ははやっていても、肉体は弱いものだ。」
◯新約聖書:ルカによる福音書・第22章・第40節・第46節
「誘惑に陥らないように祈りなさい。」、「誘惑に陥らないように、起きて祈りなさい。」
以上の聖句は、『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
この聖句は、イエス・キリストが磔刑(十字架の刑)に処せられる前夜、ゲッセマネの園で律法学者やファリサイ派の人々に捕らえられる直前に、弟子達に「誘惑に陥らないように祈りなさい」と説かれた場面でのことです。
誘惑はサタン(悪魔)の行いと捉えます。私達が誘惑に対して戦う時、武器となるのが“祈り”なのです。それがどのような誘惑であろうと、祈りは欠かすことのできない武器となるのです。サタンが誘惑する目的は、私たちを罠にはめて神様の恩寵(おんちょう)から遠ざけることなのです。「神様から遠ざける。」とは、言い方を変えると、誘惑に陥って「悪い行いをさせる。(してしまう。)」ということですね。
祈りは神様との交わりであり、誘惑の目的と正反対のものです。祈りは、私達から神様への交わりをつなげてくれます。その祈りの中で神様に近づく時、神様から与えられる慈しみ、慰めと愛、そして敵に立ち向かう勇気を与えてくれるのですね。
ここでは、誘惑は弟子達が陥る可能性のあるものであり、それに対する正しい対応は祈りであることが語られています。ですから、祈りと誘惑は正反対のものなのです。もし彼らが祈らなければ、誘惑に陥る結果になることは明らかだったのです。
祈りの中で神様との交わりを持ち、神様とつながり、自分の必要な励ましや助けを祈りの中でいただくことは、誘惑への防御となります。決して誘惑が来ないという意味ではありません。しかし、ここで確かなのは、もし誘惑が来たら、もしくは誘惑が来る時、祈りは私達の信仰を堅固にさせると共に、誘惑の罠にはまることから逃れさせてくれるのです。私の最も自戒とすることです。
【真摯】
真面目でひたむきなこと。
【誘惑】
心をまどわせ、悪い道へさそいこむこと。また、そのさそい。「悪い仲間に-される」、「-にうちかつ」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
この聖句(イエス・キリストの言葉)の前に、第34節で「あなた方の心が放縦や泥酔、また世の煩いにふさぎ込むことがないよう(中略)注意しなさい。」と説いておられます。イエス・キリストは、私たちの信仰生活に「目を覚まして祈る」ことの大切さえお説いておられるのです。イエス・キリストの説く<目を覚ましている状態>とは、「気をそらせることなく、注意している」ということです。すなわち、「心が鈍くならないように、霊的生活が生ぬるいものにならないように」ということです。つまり「真摯(しんし)に祈る」ということです。
単に言葉を唱えるだけの祈りではなく、「いつも目を覚ましている状態で祈る」ということです。信仰生活において心に火を灯し続けるのは祈りです。情熱が冷めそうな時、祈りは心に再び火をつけ、物事の中心である神のもとへとわたしたちを立ち返らせます。祈りは魂を眠気から覚まし、本当に大切なこと、人生の目的に焦点を当てさせてくれます。どんなに忙しくても祈りを疎かにはできません。それがたとえ「主イエス・キリスト、私たちを哀れんでください」という短い祈りであっても、いつも心が目覚めているように祈ることです。
次は、前述の聖句「いつも目を覚ましていなさい。」と解釈が類似している聖句とその解釈を掲載しておきます。これは、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい」とイエス・キリストは説いておられます。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第26章・第41節
「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈りなさい。心ははやっていても、肉体は弱いものだ。」
◯新約聖書:マルコによる福音書・第14章・第38節
「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい。心ははやっていても、肉体は弱いものだ。」
◯新約聖書:ルカによる福音書・第22章・第40節・第46節
「誘惑に陥らないように祈りなさい。」、「誘惑に陥らないように、起きて祈りなさい。」
以上の聖句は、『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
この聖句は、イエス・キリストが磔刑(十字架の刑)に処せられる前夜、ゲッセマネの園で律法学者やファリサイ派の人々に捕らえられる直前に、弟子達に「誘惑に陥らないように祈りなさい」と説かれた場面でのことです。
誘惑はサタン(悪魔)の行いと捉えます。私達が誘惑に対して戦う時、武器となるのが“祈り”なのです。それがどのような誘惑であろうと、祈りは欠かすことのできない武器となるのです。サタンが誘惑する目的は、私たちを罠にはめて神様の恩寵(おんちょう)から遠ざけることなのです。「神様から遠ざける。」とは、言い方を変えると、誘惑に陥って「悪い行いをさせる。(してしまう。)」ということですね。
祈りは神様との交わりであり、誘惑の目的と正反対のものです。祈りは、私達から神様への交わりをつなげてくれます。その祈りの中で神様に近づく時、神様から与えられる慈しみ、慰めと愛、そして敵に立ち向かう勇気を与えてくれるのですね。
ここでは、誘惑は弟子達が陥る可能性のあるものであり、それに対する正しい対応は祈りであることが語られています。ですから、祈りと誘惑は正反対のものなのです。もし彼らが祈らなければ、誘惑に陥る結果になることは明らかだったのです。
祈りの中で神様との交わりを持ち、神様とつながり、自分の必要な励ましや助けを祈りの中でいただくことは、誘惑への防御となります。決して誘惑が来ないという意味ではありません。しかし、ここで確かなのは、もし誘惑が来たら、もしくは誘惑が来る時、祈りは私達の信仰を堅固にさせると共に、誘惑の罠にはまることから逃れさせてくれるのです。私の最も自戒とすることです。
【真摯】
真面目でひたむきなこと。
【誘惑】
心をまどわせ、悪い道へさそいこむこと。また、そのさそい。「悪い仲間に-される」、「-にうちかつ」