映画「沈黙 ーサイレンスー 」のお話し [日記]

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映画「沈黙」のパンフレットです。

昨夜(もう日曜日になってます)は、仕事で職場を出るのが遅くなったため、カトリック成城教会で18時からの主日のミサに与り、終わってから今月の21日(土)に公開された遠藤周作原作の映画「沈黙-サイレンス-」を妻と二人で観てきました。レイトショーでした。
キリスト教カトリックの信仰を持つ人間として、これほど神との対話の真剣さ厳しさを教えられた、心の奥底に響いた映画はあまりなかったような感じがします。映画の画像の生々しさや物語の悲しさもあって、信仰に生きる人々の敬虔なそして悲惨な姿に涙しない人はいないでしょう。私は人目もはばからず、あふれ出る涙を抑えかねました。

「主よ、あなたは何故、黙ったままなのですか。」………心に響きました。

皆様も是非というか、洗礼を受けた方は絶対に観ていただきたい映画です!ただ、度々出てくる史実としての拷問の描写や首をはねる場面に、人間の残虐性が浮き彫りにされているところがあり、小学生以下の子ども達に観せるにはどうかなと思いました。

【映画の公式ホームページから】http://chinmoku.jp
アカデミー賞[レジスタードトレードマーク]最有力の歴史的大作がついに日本上陸
原作 遠藤周作 × 監督 マーティン・スコセッシ
戦後日本文学の金字塔が、アカデミー賞[レジスタードトレードマーク]監督の手で完全映画化
刊行から50年、遠藤周作没後20年の2016年。世界の映画人たちに最も尊敬され、アカデミー賞[レジスタードトレードマーク]にも輝く巨匠マーティン・スコセッシ監督が、戦後日本文学の金字塔にして、世界20カ国以上で翻訳され、今も読み継がれている遠藤周作「沈黙」をついに映画化した。
1988年、スコセッシが原作と出会ってから28年、いくつもの困難を乗り越えて実現した一大プロジェクトだ。キャストは主演のアンドリュー・ガーフィールドを筆頭に、アダム・ドライバー、リーアム・ニーソン、日本からは窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮、笈田ヨシら、各世代の実力派が名を連ねる。
さらに、全員でアカデミー賞[レジスタードトレードマーク]受賞6回、アカデミー賞[レジスタードトレードマーク]ノミネート23回のスコセッシゆかりの最高のスタッフと、時代考証や美術で日本人チームが参加し、舞台となる江戸初期の長崎を再現した。
人間の強さ、弱さとは?信じることとは?そして、生きることの意味とは?貧困や格差、異文化の衝突など、この混迷を極める現代において、人類の永遠のテーマをあまりに深く、あまりに尊く描いた、マーティン・スコセッシの最高傑作にして本年度 アカデミー[レジスタードトレードマーク]賞最有力作品がいよいよ上陸する。
(1月28日現在、アメリカ・アカデミー賞情報では、作品賞・監督賞ではノミネートされず、撮影賞でノミネートされています。)

【原作「沈黙」の紹介】
「沈黙(ちんもく)」は、遠藤周作が17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説です。1966年に書き下ろされ、新潮社から出版されました。江戸時代初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガル人の司祭を通じて、神と信仰の意義を命題に描いています。第2回谷崎潤一郎賞受賞作。この小説で遠藤が到達した「弱者の神」、「同伴者イエス」という考えは、その後の「死海のほとり」や「侍」などの小説で繰り返し描かれる主題となりました。世界13か国語に翻訳され、グレアム・グリーンは「遠藤は20世紀のキリスト教文学で最も重要な作家である。」と言わしめたのを始め、戦後日本文学の代表作として高く評価されています。ノーベル文学賞との声も挙がったほどでしたが、発表当時はカトリック聖職者からは神学的なことで非難され、隠れキリスタンの地元である長崎では、内容が正しく理解されずに”禁書”扱いになったこともありました。

【小説のあらすじ】
島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペは日本に潜入すべくマカオに立寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴは隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となる。幕府に処刑され、殉教する信者たちを前に、ガルペは思わず彼らの元に駆け寄って命を落とす。ロドリゴはひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」を通すのみであった。逃亡するロドリゴはやがてキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジローの姿がそこにあった。
長崎奉行所でロドリゴは棄教した師のフェレイラと出会い、さらにかつては自身も信者であった長崎奉行の井上筑後守との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は意味を持つのかという命題を突きつけられる。奉行所の門前では、キチジローが何度も何度もロドリゴに会わせて欲しいと泣き叫んでは、追い返されている。ロドリゴはその彼に軽蔑しか感じない。
神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。
夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき踏絵のなかのイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。
こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」
踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。

「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりに碧いのです。」
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