今日の日記2023.10.8(「相原ふれあいフェスティバル2023」) [日記]

今日は。妻と2人で「相原ふれあいフェスティバル2023」に行ってきました。今年は開催20周年記念で、主催は町田市相原地区連合町内会、町田市が助成し、一般財団法人相原保善会が協賛、NPO法人レスポアール相原が協力して開催されました。開催場所は、広大な敷地面積をもつ相原中央公園で行われました。自宅から車で8分〜10分くらいのところにあります。
◯たくさんの人ですごいことになっていました!(⌒-⌒; )
・開会式です。
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・模擬店や展示などです。全部で60店くらいはありましたかね。
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・グランドでは、機関車?が走っていました!すごい!
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ステージでの演奏や踊り、展示や模擬店の他、所轄の警察署や消防署、自衛隊まで展示に来ていました。模擬店は、定番の焼きそば、焼き鳥、タコ焼き、モツ煮込みから、地ビール、地酒、地元の和菓子やパン屋、地元で採れた野菜や果物、手作りアクセサリーや古着、その他いろいろなお店がたくさん出店していました。朝からビールを飲んだら、ただの酔っぱらになりました!( ̄◇ ̄;)
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ミサの祭器・祭具:その5「パテナ」お話し [キリスト教関係事項・用語等]

ミサで司祭が祭壇上で使用するパテナは、ご聖体であるホスチアを入れる聖体皿のことで、カリスと共にミサにおいて特に大事なものとされています。それは、ぶどう酒とパンが奉納され、聖別され、拝領されるからですね。パテナは、ご聖体(ホスチア:種なしパン:イースト菌の入っていないパン)をのせて供え、それをキリストの御からだに聖別し、その後、分割するために用います。聖なる用途にふさわしいものであるため、金属製の容器は、さびが生じるものであれば、内側全面を金メッキしなければならないことになっています。
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ところで茶道では、まず亭主が食籠(じきろう:菓子器)を持ち出し、食籠を主客に預け、客は食籠に盛った菓子を取り回していく作法がありますが、これはミサと同様で、もパテナ(聖体皿)に置いたご聖体(ホスチア)を取り回しして頂く所作があります。茶道とミサはよく似ているのです。『ローマ・ミサ典礼書(暫定版)』の242には、次のとおり書いてあります。
『ローマ・ミサ典礼書(暫定版)』の242
「拝領前の祈りが終ると、主司式司祭はひざまずいて、少し後ろに下がる。共同司式司祭は一人ずつ順番に祭壇の中央に来て、ひざまずいて、キリストの御からだを祭壇からうやうやしく取り、右手で奉持し、左手をその下に添えて、自分の場所に戻る。ただし、共同司式司祭は自分の場所にとどまり、パテナからキリストの御からだを取ることが出来る。この場合、パテナを、主司式司祭、もしくは一人かまたはそれ以上の共同司式司祭が、共同司式司祭に順次に持っていくか、あるいは次の者に渡して、最後の者まで回すようにする。」

実は、日本固有の伝統文化である「茶道」は、確実に聖書やカトリック教会のミサの影響を受けているのです。長くなりますが次をお読みください。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第7章・第13~第14節
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い、そして、そこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。」
『聖書協会共同訳聖書』から

この言葉は、イエス・キリストの聖句(聖句=イエス・キリストの言葉)です。イエス・キリストは、ここで「狭い門から入りなさい」と説いておられます。広い門と狭い門のどちらかを選択しなければならない時、その場合は必ず狭い方を選びなさいということですね。この門をくぐるのは「人生の選択」ということです。生きていく上で誰でもが通りたがる、入りたがる「広い門=楽な門」を選ぶのではなく、選ぶ人が少ない「狭い門=厳しい門」に入りなさいという意味であると解釈します。では、それはなぜでしょうか?

私たちは、楽な方向へ楽な方向へと進む道を選びがちですね。嫌なこと、辛いこと、難しいことをできるだけ回避・逃避しながら要領よく生きていきたい。これが一般的な人間の感覚だと思います。イエス・キリストの教え(キリスト教の教義)では、人への中傷誹謗、悪意、妬み、恨み、憤り、淫らな行為など、これらはすべて罪になるのですが、楽な道に進むとこれらのことを平気で行って罪を犯してしまいます。このように罪を犯した人たちが悔い改めることもなく死んでしまうと、死後は復活せずに滅んでしまうのです。

ですから、聖書のイエス・キリストの教えである「人を赦すこと。」、「自分を愛する(大切にする)ように隣人を愛すること。」、「自分が人にしてもらいたいと思うことは、何でも人にすること。」などを実践するため、自らを律して厳しい道を進むことを説いておられるのです。そこには身分の違いや貧富の違いなどはないのです。どんなに偉いといわれる人であっても、みんなと同じように身をかがめて狭い門=厳しい門(道)から入ること。そのような人たちは、死後に復活して天の国で永遠の命を与えられるのです。

この教えを非常によく現したものの一つに、日本の茶道の茶室の “ 造り ” があります。茶道を創始した千利休(せんのりきゅう)は、キリスト教の影響を強く受けています。また、利休の高弟と言われる7のうち、5人はキリスト教の洗礼を受けていますし、利休が最も頼りにした高山右近は、敬虔なクリスチャンでキリシタン大名の第一に挙げられる人物として有名です。最後まで信仰を守り抜いた戦国武将でした。

利休が生きた安土・桃山時代の豊臣秀吉もその後の徳川家康も、キリスト教を厳しく弾圧しましたので、現代の茶道にキリスト教の思想を見出すことは難しいのですが、それでも茶道には聖書の教えが明瞭に込められていると言えます。裏千家15代家元・千 玄室氏は明確にこれを認めておられます。茶道のお手前はカトリック教会のミサからとられているほどです。茶道でのお茶とお菓子は、明らかにミサである “ パンと葡萄酒 ” です。茶道では、濃茶の作法で男子同士の場合、お茶を頂いた後、茶碗と出し袱紗を右手に乗せたまま左手で懐紙を取り、飲み口を拭いて次客に手渡しますが、これは最後の晩餐において、使徒たちがブドウ酒が入った杯を順次手渡していく所作が聖書に書かれています。この濃茶の飲み回しのことを茶道では「吸い茶」と言いますが、この「吸い茶」は利休が始めたとされています。他にも茶道の「茶巾」とミサで使用する「プリフィカトリウム(聖布)」の使い方もそっくりです(後日「ミサの祭器・祭具」の記事を書いて掲載します)。

ところで、その茶室の造りですが、通常、茶室には庭園が設けられます。この庭園を考案したのは、キリシタン大名の古田織部という人ですが、心身の塵を払うために蹲(「つくばい」:手を洗うもの)が置かれ、最後の晩餐の時にイエス・キリストが弟子たちの足を洗った「洗足」や「洗礼」を象徴すると言われています。その傍らに灯篭(とうろう)が置かれ、火が灯されます。これは教会のミサでのローソクそのものです。
そして、独りしか歩くことができない「飛び石」が打たれます。それは、「狭き門」に至る狭い道と言われています。そして、茶室の入口(「にじり口」と言います)ですが、これは千利休が考案したものです。本当に小さくて、身体一つしか通れないように狭く、身を低くして入るようになっています。これは「世にあって身につけたものをすべて捨てて、謙虚になって茶室に入ること。そこには身分の違いも何もない。」ということを具現化したものです。聖書にある「狭き門」を現しているのですね。

◯次の記事もお読みください。
・ミサの祭器・祭具:その1「アルバ」のお話し
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2023-06-24-3
・ミサの祭器・祭具:その2「アミクトゥス」と「チングルム」のお話し
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2023-08-26-2
・ミサの祭器・祭具:その3「カンパヌラ」のお話し
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2023-09-09-1
・ミサの祭器・祭具:その4「カリス」お話し
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2023-10-06
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