教会日記20201.25(カトリック成城教会「主日のミサ」土曜日) [教会日記]

今日は仕事はお休みをいただいて病院(歯科、整形外科)や整体院巡りをし、帰りに小田急線成城学園前駅で途中下車してカトリック成城教会の18時からの主日のミサに与りました。私が所属するカトリック町田教会のミサには間に合いませんでした〜( ̄▽ ̄;)
成城教会のステンドグラスです。3天使ですが、これは三位一体を表しています。
成城教会ステンドグラス.jpeg
17時50分から聖歌372番「救い主を育てた母」を歌ってから「お告げの祈り」をお祈りし、18時からのミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚ご本人の大怪我とお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
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「使徒聖パウロの回心」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日は、「使徒聖パウロの回心」の祝日です。このブログの2019年1月25日に掲載したものを再掲載いたします。まずは、新約聖書の「使徒言行録」を語源としている「目からウロコが落ちる(めからうろこがおちる)」の説明からまいりましょう。
”ことわざ”としての意味は、「あることをきっかけとして、急に物事の真相や本質が分かるようになる」ということですね。これは新約聖書の使徒言行録の第9章・第3~第18節に記載されている“目からウロコ”の語源となったところです。少々長くなりますが掲載しますね。

◯新約聖書:使徒言行録・第9章・第3〜第18節
「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。
ニコラス・バーナード(フランス:1733~1784)「聖パウロの回心」
使徒聖パウロの回心.jpg
サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った。すると、主は言われた。『立って、<直線通り>と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。』しかし、アナニアは答えた。『主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。』

すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。』そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。」

これは、イエス様の使徒(弟子)である聖パウロ(当時はサウロと名乗っていた)に起こった出来事に由来しており。本来は「誤りを悟り、迷いから覚める意味」で使われていました。イエス様の死後、聖パウロは当初、ユダヤ教徒としてキリスト教徒を捕まえて牢獄に送る役をしていた“キリスト教徒を迫害する側の人間”でしたが、このようにして、キリスト教徒を迫害する側から、洗礼を受けてキリスト教を信仰し、福音を述べ伝える側へと正反対に“激変”したのです。そして、この聖パウロがユダヤ人以外のギリシャ人やローマ人などの異邦人と言われる人々に福音宣教したことが、キリスト教が全世界に広まった理由なのです。キリスト教の興隆は、聖パウロの功績が大きいのです。
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三浦綾子のことば(第10日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「人間誰しも、性欲、食欲、事業欲、名誉欲などなど、数々の欲望をもっているが、その欲望にふりまわされて破局に至る人間と、その欲望をコントロールして、無事に人生を生きていく人間がある。」
エッセイ集『明日のあなたへ』から

三浦綾子さんのことは、「三浦綾子のことば(第1日目)2020.1.8」をご覧下さい。
私は、「欲」は人間が成長する上で必要な正統な向上心の一つだと捉えています。また、一般的に性欲がないと子宝に恵まれず、食欲がないと身体に必要な栄養を摂取することが難しくなるわけです。しかし、欲が過ぎる(度を超す)と害になりやすくなります。
このブログの「三浦綾子のことば(第8日目)2020.1.20」にも書きましたが、キリスト教カトリックにおける“七つの大罪”に、色欲・肉欲、貪欲・強欲がありましたね。性欲も度を超すと色欲・肉欲となり、食欲も度を超すと貪食・大食となって大罪となるわけです。問題は、いかに欲望をコントロールするか?ですね。欲望という誘惑を自制していくことが大切になります。何年もダイエットに挑戦して、一向に成果の上がらない私の自戒とするところです(⌒-⌒; )
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