「聖木曜日・主の過越しの晩餐の夕べのミサ」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日3月28日(木)は、「主の過越しの聖なる3日間」の初日「聖木曜日」です。私が所属するカトリック成城・聖タデオ教会では、19時から「主の過越しの晩餐(ばんさん)の夕べのミサ」が行われます。

キリスト教カトリック教会では、イエス・キリストの生涯における主なできごとを思い起こす(記念する)ことによって、イエス・キリストの " 救いの恵み " が私達に与えられるよう、全員が一致してお祈りします。イエス・キリストの「救いのみわざ」は、十字架への受難と死をとおして、復活された栄光の「主の過越し(死から生へ過越す)」にあります。このことから、これを「復活祭」として年に一度盛大に祝うようになりました。「降誕祭(クリスマス)」と共にキリスト教の最大にして最高の祭典となります。聖なる3日間は、今日3月28日の第1日目を「聖木曜日・主の過越しの晩餐の夕べのミサ」、明日3月29日の第2日目を「聖金曜日・主の受難」、明後日3月30日の第3日目を「聖土曜日:復活の主日・聖なる復活の徹夜祭」としています。そして3月31日の日曜日が「復活の主日・日中のミサ」となります。

<主の過越し>の由来
古代エジプトでアビブ(ニサン)の月に起こったとされる出来事が起源です。エジプトの地で奴隷になっていたイスラエルの民が、モーゼの先導でパレスチナの地に脱出した故事を記念するものです。ユダヤ人(イスラエルの民)にとっては重要な祭日となります。
イスラエル人は、エジプトに避難したヨセフの時代以降の長い期間の間に、奴隷として虐げられるようになっていました。神は、当時80歳になっていたモーセを民の指導者に任命して約束の地へと向かわせようとしますが、エジプトの王であるファラオがこれを妨害しようとします。そこで神は、エジプトに対して十の災いを臨ませ、その十番目の災いは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子(長子)を撃つ」というものでした。神は、戸口に印(家の玄関の鴨居と柱に子羊の血を塗る)のない家にその災いを臨ませることをモーセに伝える。つまり、この名称は、戸口に印のあった家にはその災厄が臨まなかった(過ぎ越された)ことに由来しています。旧約聖書の「出エジプト記」に記載されているとおりです。

◯旧約聖書:出エジプト記・第12章・第1~第8節、第11~第14節
「主はエジプトの地で、モーセとアロンに言われた。「この月はあなたがたの第一の月であり、一年の最初の月である。イスラエルの全会衆に告げなさい。『この月の十日に、祖父の家ごとに、すなわち家族ごとにそれぞれ自分たちのために小羊を一匹用意しなさい。もし、家族が小さくて小羊一匹に見合わないなら、隣の家族と共に、人数に合わせて、それぞれ食べる量に見合う小羊を選びなさい。あなたがたの小羊は欠陥のない一歳の雄の子羊でなければならず、羊か山羊の中から一匹を選ばなければならない。あなたはそれを、この月の十四日まで取り分けておき、夕暮れにイスラエルの会衆は皆集まってそれを屠る。そして、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。その夜のうちに肉を火で焼き、種なしパンに苦菜を添えて食べる。
それを食べるときは、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持って、急いで食べなさい。これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの地を行き巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたがたがいる家の血は、あなたがたのしるしとなる。私はその血を見て、あなたがたのいる所を過ぎ越す。こうして、エジプトの地を打つとき、滅ぼす者の災いはあなたがたには及ばない。この日は、あなたがたの記念となる。あなたがたはこれを主の祭りとして祝い、とこしえの掟として代々にわたって祝いなさい。』」
『聖書協会共同訳聖書』から
◯次の絵は、有名なレオナルド・ダビンチの『最後の晩餐』です。イエス・キリストが、「この中に私を裏切ろうとしている者がいる。」と話された直後、12人の使徒(弟子)達が驚いている場面を画いています。絵が小さいので、クリックして大きくして見てください。
左側から顔(頭)順に、バルトロマイ、小ヤコブ、アンデレ、ユダ、ペトロ、ヨハネ、イエス・キリスト、トマス、大ヤコブ、フィリポ、マタイ、タデオ(タダイ)、シモン、です。このユダ(イスカリオテのユダ)がイエス・キリストを裏切ったのです。
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◇聖木曜日「主の過ぎ超し晩餐の夕べのミサ」
最後の晩餐を記念するものとして、教会の全員が一つのミサに預かり、一致の秘跡であるミサの制定(最後の晩餐で、イエス・キリストが使徒達に聖餐(ミサ〉の仕方を教えられました。)が記念されます。
また、晩餐の前にイエス・キリストが使徒達の足を洗ったことから、「洗足式(せんぞくしき)」も行われます。通常はミサの中で、実際に司祭(神父様)が、何人かの信徒の足を洗います。2020年からの3年間はコロナ渦でしたので、洗足式を中止した教会は多かったのではないでしょうか。今年は、どの教会も行いますね。
イエス・キリストは、十字架に架かる前夜に行われた「最後の晩餐」にのぞむ前に、12人の使徒(弟子)一人ひとりの足を洗いました。それは、死を覚悟したイエス・キリスト自らが、弟子達の足を洗うという奉仕を行うことで、弟子達にこれからも人に使える僕(しもべ)のようになるように、お互いの足を洗い合うようにお互いに愛し合うように(平和に暮らすように)、ということを含めて清めを行ったのですね。

<新約聖書の福音書にある「最後の晩餐」の記載>
◯新約聖書:マタイによる福音書・第26章・第20~第29節
「さて、夕方になると、イエスは十二人の弟子とともに食卓に着かれた。一同が食事をしていると、イエスは仰せになった。「あなた方によく言っておく。あなた方の一人が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは深く心を痛め、「主よ、まさかわたしではないでしょう」と口々に言い始めた。イエスは答えて仰せになった。「わたしと一緒に鉢に手を浸した者がわたしを裏切る。まことに、人の子は、自分について書き記されているとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、不幸である。その人はむしろ生まれなかったほうがよかったであろう」。すると、裏切り者のユダが口を挟んで、「先生、まさかわたしではないでしょう」と言うと、イエスは仰せになった。「いや、そうだ」。さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美をささげて、それを裂き、弟子たちに与えて仰せになった。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また杯を取り、感謝をささげ、彼らに与えて仰せになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、罪の赦しのために、多くの人のために流される、わたしの血である。あなた方に言っておく。わたしの父の国で、あなた方とともに新たに飲むその日まで、今から後、ぶどうの実から造ったものを、決して飲まないであろう。」 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけていった。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯新約聖書:マルコによる福音書・第14章・第17~第25節
「さて、夕方になると、イエスは十二人とともに来られた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは仰せになった、「あなた方によく言っておく。あなたがたのうちの一人で、わたしとともに食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは深く心を痛め、「まさかわたしではないでしょう」と口々に言い出した。そこで、イエスは仰せになった。「十二人の一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者が、それである。人の子は、まことに書き記されているとおりに、人の子は去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は不幸である。むしろその人は、生まれなかったほうがよかったであろう。」
さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美をささげ、これを裂き、弟子たちに与えて仰せになった、「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝をささげて、彼らにお与えになった。彼らはみな、その杯から飲んだ。すると、イエスは仰せになった、「これはわたしの血、多くの人のために流される契約の血である。あなた方によく言っておく。神の国で新しいぶどう酒を飲むその日まで、私は二度とぶどうの実からできたものを飲むことはない。」そして、一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯新約聖書:ルカによる福音書・第22章・第14~第23節
「さて、時刻になると、イエスは席に着かれ、使徒たちとともに席に着いた。イエスは仰せになった。「わたしは苦しみを受ける前に、あなた方とともに、この過越の食事をすることを切に望んでいた。あなたがたに言っておくが、神の国で過越が成就するまでは、もう二度と過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り、感謝をささげて仰せになった。「これを取って、あなた方の間で回して飲みなさい。あなた方に言っておく。今から後、神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、決して飲まない。」
それから、イエスはパンを取り、感謝をささげて、それを裂き、使徒たちに与えて仰せになった。「これは、あなた方のために与えられる、わたしの体である。わたしの記念として行いなさい。」食事を終えると、杯も同じようにして仰せになった。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約である」。「しかし、見なさい。わたしを裏切る者が、わたしとともに食卓に手を置いている。人の子は定められたとおり去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は不幸である。」すると、彼らは、いったい自分たちの中の誰が、そんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めた。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

<新約聖書の福音書にある「洗足」の記載>
◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第13章・第4~第15節
「イエスは食事の席を立って、上衣を脱ぎ、手ぬぐいを取って身に着けられた。それから、たらいに水をくんで、弟子たちの足を洗っては、身に着けていた布で拭き始められた。(中略)さて、イエスは弟子たちの足を洗い終わり、上衣を着て再び食事の席に着くと、仰せになった。「わたしがあなた方に対して行ったことが分かるか。あなた方は、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。そのとおりだからである。それで、主であり、先生であるこのわたしが、あなた方の足を洗ったからあには、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなた方に対して行ったとおりに、あなた方も行うようにと、模範を示したのである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

<マメ知識>
洗足学園音楽大学(前身は「平塚裁縫女学校」)の創立者である前田若尾女史は、この新約聖書のヨハネによる福音書の聖句から、学校名を「洗足」と名付けられたそうです。同校の校歌に「たがいに足を洗えとのりし、み教え守るここの学びや」とあります。洗足学園音楽大学は、キリスト教系の学校(ミッション・スクール)ではありませんが、創立者の前田若尾女史がキリスト教プロテスタント教会の敬虔なクリスチャンであったことから聖書の聖句を採用されたのですね。ちなみに、ドラマ・映画『のだめカンタービレ』の撮影場所になった大学です!
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教会日記2024.3.27(カトリック成城・聖タデオ教会「受難の水曜日のミサ」水曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「受難の水曜日のミサ」に与りました。一昨日23日の夜の「受難の主日(枝の主日)」から聖週間に入っています。
定年退職(3月31日)まで、あと4日です!
ここ3日ほど雨天でしたが、今日はやっと晴れました!最高気温も上がり、花粉も飛びそうですね(⌒-⌒; )

ミサでは、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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復活祭で歌う聖歌のお話し [聖歌日記]

カトリック成城・聖タデオ教会の聖タデオ聖歌隊(1グループは8人に制限)の「聖なる3日間」と「復活の主日」の聖歌奉仕は次の通りです。
3月28日(木)は、聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」19時から
3月29日(金)は、聖金曜日「主の受難の祭儀」19時から
3月30日(土)は、聖土曜日、夜は「復活の主日・復活の聖なる徹夜祭」18時(洗礼式)から
3月31日(日)は、「復活の主日・日中のミサ」8時、10時と14時(洗礼式)から

この期間にたくさんの典礼聖歌を歌いますが、私が聖歌奉仕を担当するのは3月30日(土)の「復活の主日・復活の聖なる徹夜祭」です。なお、28日(木)の聖木曜日と29日(金)の聖金曜日は祭壇奉仕(侍者)を務めます。
◯3月30日(土)は、「復活の主日・復活の聖なる徹夜祭」で歌う聖歌は次のとおりです。
1.入祭の歌<光の祭儀>
典礼聖歌集第341番「キリストの光」
典礼聖歌集第342番「復活賛歌」
2.いつくしみと栄光の賛歌
典礼聖歌集第46番「神のそそがれる目は」②④
典礼聖歌集第79番「神よあなたはわたしの力」①②③
典礼聖歌集第7番「あなたのいぶうきをうけて」①③
栄光の賛歌612番
3.アレルヤ唱
典礼聖歌集第12番「アレルヤ」①②③
4.洗礼式
典礼聖歌集第343番「諸聖人の連願(新口語版)」
.洗礼の約束の更新後
典礼聖歌集第96番「この水を受けた」
5.奉納の歌
典礼聖歌集第143番「たて琴をかなで」
6.感謝の賛歌613番
7.平和の賛歌614番
8.拝領の歌
典礼聖歌集第165番「喜びに心をはずませ」
9.拝領後の歌
典礼聖歌集第410番「よろびうたえアレルヤ」
◯私が所属するカトリック成城・聖タデオ教会の聖タデオ聖歌隊は、聖堂後方2階に設置しているパイプオルガン(ドイツ製)の伴奏で歌います。奏者の左側にあるモニターは、祭壇にいる司祭(神父様)の司式手順を見ながら演奏するためのものです。パイプオルガンの横に聖歌隊席があります。
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ところで、31日(日)の復活の主日・日中のミサでは、司祭の入祭の時に歌う第345番「わたしは復活し」があります。この聖歌について、成城教会の山本主任司祭(神父様)が、以前に東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会の主任司祭をお勤めの時に、関口教会のホームページに書かれた記事がありますので掲載いたします。

「復活節に歌われる典礼聖歌の一つに「わたしは復活し」がある。その歌詞は、復活の主日のミサの入祭唱からとられている(詩編139からのかなりの意訳である)。「わたしは復活し、あなたとともにいる。あなたはわたしの上に手をのべられた。あなたの知恵ははかりがたい。アレルヤ」(典礼聖歌345)
それでは、この歌詞の「わたし」とはだれのことだろうか。「あなた」とはだれのことだろうか。実は、「わたし」とは「復活のキリスト」、「あなた」とは「父なる神」であり、復活のキリストが父なる神をたたえている言葉なのである。今日のミサでも復活のキリストがわたしたちの真ん中におられ、父なる神をたたえて「わたしは復活し、あなたとともにいる。…」と歌っておられる。わたしたちもキリストのからだとしてキリストと一つになって、「あなたの知恵ははかりがたい。アレルヤ」と唱和するのである。
2015年04月18日 山本量太郎神父」

◯典礼聖歌集:第345番「わたしは復活し」
「わたしは復活し
あなたと共にいる
あなたはわたしの上に手をのべられた
あなたの知恵は測りがたい
アレルヤ
アレルヤ
アレルヤ」

復活祭でのもう1曲の重要な典礼聖歌を掲載いたします。それは、典礼聖歌集:第351番「復活の続唱(Victimae paschali laudes)」です。毎年のことですが、この続唱を静かなお御堂で気持ちを込めて歌っていると、「マリアよ、わたしたちに告げよ、あなたが道で見た事を、開かれたキリストの墓、よみがえられた主の栄光」のところから涙がにじんできて、最後の方は涙があふれ出て歌えなくなります………きちんと終わりまで歌ったことがありません。一昨年の復活の主日・日中のミサで、この続唱の先唱を担当し、「キリストを信じるすべてのものよ」と独唱したところで、もう涙がにじんできました。純朴な感激屋の私としては、涙腺がゆるゆるになってしまいます(T_T)今年は担当から外れていますから大丈夫ですね。とても素晴らしい感動の聖歌です。それでは、まず、典礼聖歌集にある日本語の歌詞を掲載し、続いて原曲のラテン語歌詞を掲載いたします。

◯典礼聖歌集:第351番「復活の続唱」
(先唱)
キリストを信じるすべてのものよ
(会衆)
主の過越をたたえよう
こひつじはひつじをあがない
罪のないキリストは
罪の世にゆるしをもたらされた
死といのちとのたたかいで
死を身に受けたいのちの主は
いまや生きて治められる
マリアよ
わたしたちに告げよ
あなたが道で見た事を
開かれたキリストの墓
よみがえられた主の栄光
あかしする神の使いと残された主の衣服を
私の希望
キリストは復活し
ガリレアに行き待っておられる
ともにたたえ告げ知らせよう
主キリストは復活された
勝利の王キリストよ
いつくしみをわたしたちに
アーメン
アレルヤ」

この長い続唱は、原曲であるラテン語の正式名称は「ヴィクティマエ・パスカリ・ラウデス(Victimae Paschali Laudes)『復活のいけにえに』」というカトリック教会の聖歌の一つです。中世に多く書かれた続唱(セクエンツィア)の一つで、復活祭のミサのためのものです。ブルゴーニュ出身で神聖ローマ皇帝コンラート2世のシャプラン(宮廷付き聖歌隊長)であったヴィポ Wipo(活動 1020頃-1040頃)の作とされています。イタリアの作曲家オットリーノ・レスピーギによるグレゴリオ風協奏曲(1921年)2楽章冒頭のヴァイオリンソロ等に引用されています。
[A]
Victimae paschali laudes 過ぎ越しのいけにえに
Immolent Christiani. 賛美をささげよ、キリスト者たちよ。
[B]
Agnus redemit oves 子羊が羊を贖い。
Christus innocens Patri 罪のないキリストが父に
Reconciliavit 罪びとたちを
Peccatores. とりなされた。
Mors et vita duello 死と命とは戦い
Conflixere mirando, 驚くべき仕方でぶつかりあう。
Dux vitae mortuus 命の王は、死ぬことで
Regnat vivus. 生きて治められる。
[C]
Dic nobis Maria マリアよ、私たちに告げよ。
Quid vidisti in via? あなたが道で見たものを。
Sepulcrum Christi viventis 生きているキリストの墓を
Et gloriam vidi resurgentis. そして蘇られた方の栄光を、わたくしは見た。
Angelicos testes 証しする天の使と
Sudarium et vestes. 布と服を。
Surrexit Christus spes mea 私の希望、キリストは復活し
Praecedet suos in Galilaeam. ガリラヤに行き、待っておられる。
[D]
Credendum est magis soli 真を語るマリアを
Mariae veraci 信ぜよ
Quam Iudaeorum 嘘を語る
Turbae fallaci. ユダヤの群集ではなく。
Scimus Christum surrexisse 私たちは知っている。キリストが
A mortuis vere. 真に死から立ち上がられたことを。
Tu nobis victor Rex 勝利の王であるあなた、どうか私たちを
miserere. あわれみたまえ。
[E]
Amen, Alleluia. アーメン(かくあれ)
アレルヤ(神を讃えよ)
▲1570年以降、カトリック教会では[D]の前半の歌詞は歌いません。
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教会日記2024.3.26(カトリック成城・聖タデオ教会「受難の火曜日のミサ」火曜日) [教会日記]

現在21時56分、今気がつきましたが、朝のミサが終わってからこの記事を掲載するのを忘れていました( ̄▽ ̄;)
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「受難の火曜日のミサ」に与りました。一昨日23日の夜の「受難の主日(枝の主日)」から聖週間に入っています。
定年退職(3月31日)まであと5日です。一昨日から雨天ですが、花粉症の私には恵みの雨ですね(^◇^)

ミサでは、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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典礼聖歌集・第404番「羊かいがいて(羊飼いがいて)」 [聖歌日記]

この典礼聖歌は、聖書にあるイエス・キリストの教えである聖句を用いた歌詞になっています。神の救い、神の慈しみを見事に表した、救いの究極的な聖歌だと思います。とても優しいメロディで、私の大好きな聖歌の一つです。
◯典礼聖歌集・第404番「羊かいがいて」
「羊飼いがいて たくさんの羊を飼っていた。
ある日その中の一匹が迷子になってしまった。
羊飼いは他の羊をおき、その一匹を探しに出る。
もし見つけたらどんなに喜ぶことだろう。
羊飼いはキリスト、その一匹はわたし
羊飼いはキリスト、その一匹はあなた
どんなに小さな一人をも
神は見すてることがない。」

この聖歌は、新約聖書のルカによる福音の第15章から採られています。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第15章・第1〜第7節
「さて、徴税人や罪人たちがみな話しを聞こうとして、イエスのもとに近寄ってきた。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを受け入れて、食事をともにしている」とつぶやいた。
そこで、イエスは彼らに次の喩えを語られた。
あなた方のうちに、百匹の羊を持っている者がいるとする。そのうちの一匹を見失ったら、九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで、跡をたどって行くのではないだろうか。そして見つけ出すと、喜んで自分の肩に乗せて、家に帰り、友人や近所の人々を呼び集めて言うだろう、『一緒に喜んでください。見失ったわたしの羊を見つけましたから』。あなた方に言っておく、このように、悔い改める一人の罪人のためには、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人のためよりも、もっと大きな喜びが天にある。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
◯このイエス様のご絵は、とても神様への愛に深い敬虔な方からいただきました。罪びとの私にぴったりなご絵ですね(⌒-⌒; )………ということは、イエス様の肩に乗っている羊は私ということになりますね( ̄◇ ̄;)
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この聖句(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)ですが、まず「百匹の羊を持っている者=羊飼い」とは、イエス・キリストのことで、「見失った一匹の羊」とは罪びとのことです。そして、「九十九匹」とは、正しい人という意味です。この聖句は、「悔い改める一人の罪びとのためには、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人のためよりも、もっと大きな喜びが天にある。」とい意味になります。
九十九匹を荒れ野に残すという大きな危険を冒してまでも、羊飼いは見失った一匹の羊のために探し出そうとするのですね。つまり、イエス・キリストは、たった一人の罪びとであっても大切な存在なのだと説いているのです。そして、神の恩寵(おんちょう)の外に出て行った罪を犯した罪びとでも、悔い改めて恩寵の中に戻ってこれるように、イエス・キリストは救い出すのです。これが神の救いであり、慈しみなのですね。
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教会日記2024.3.25(カトリック成城・聖タデオ教会「受難の月曜日のミサ」月曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「受難の月曜日のミサ」に与りました。一昨日23日の夜の「受難の主日(枝の主日)」から聖週間に入りました。28日(木)からは「聖なる3日間」となり30日(土)夜は「復活の聖なる徹夜祭」、31日(日)は「復活の主日」を迎えます。主(イエス・キリスト)の復活までいよいよですね。また、今週の31日(日)(実質29日)をもって勤続42年の学校法人国士舘(国士舘大学)を定年退職します。今週が最終週となります。今日も清々しい朝を迎えています!

ミサでは、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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新約聖書:ルカによる福音書・第10章・第25〜第37節 [聖書]

このブログに過去に何度も掲載してきましたが、イエス・キリストの<たとえ話し>の中でも特に有名であり、わかりやすい話しの内容となっています。聖書の該当する部分を掲載いたしました。
「すると、一人の律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして尋ねた、
『先生、どうすれば、永遠の命を得ることができますか。』
そこでイエスが仰せになった。
『律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるのか』。
すると、彼は答えた。
『《心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ。また、隣人をあなた自身のように愛せよ》とあります。』
イエスは仰せになった。
『あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、生きるであろう。』
すると、彼は自分を正当化しようとして、
イエスに『わたしの隣人とはだれですか』と言った。
イエスはこれに答えて仰せになった。
『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、強盗に襲われた。彼らはその人の衣服をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにして去っていった。たまたま、一人の祭司がその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。また、同じように、一人のレビ人がそこを通りがかったが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていた、一人のサマリア人がその人のそばに来て、その人を見ると憐れに思い、近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をした。それから、自分のろばに乗せて宿に連れていき、介抱した。翌日、サマリア人はデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿の主人に渡して言った。《この人を介抱してください。費用がかさんだら、帰ってきた時に払います。》さて、あなたは、この三人のうち、強盗に襲われた人に対して、隣人となったのは、誰だと思うか。』
律法の専門家が、『憐れみを施した人です。』と言うと、
イエスは仰せになった。
『では、行って、あなたも同じようにしなさい。』」
『原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(オランダ:1853年〜1890年)作の『善きサマリア人』です。
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聖書のこの部分は、「善きサマリア人のたとえ」と言われている有名なところです。イエス・キリストが話された喩え話し(たとえばなし)の状況設定(背景)は、エルサレムからエリコに下っていく途中の出来事で、当時のユダヤ人とサマリア人の関係は、ユダヤ人がサマリア人を見下して一切交際せず、とにかく仲が悪い断絶された関係でした。そのサマリア人がユダヤ人を助けるという、異例中の異例ともいえる話しの内容になっており、質問した法律の専門家には、到底考えも及ばない状況設定となっているのです。

また、「律法の専門家」とは、当時の律法学者(ユダヤ人)のことで、律法・教義を厳格に守っている民の指導者と自負してはいますが、実際、その中身は形骸化しており、聖書にある神の教えをないがしろにし、自分たち人間が勝手に作った決まり事を掟にして、貧困者などの弱者を自らは一切救済しようとしない当時の特権階級的な人たちのことです。イエス・キリストは、この人たちのことを見抜いており、たとえ話しをもって、まず「隣人を自分のように愛すること」の一つとして、誰彼なく慈愛をもって困っている人を助けることの大切さを教えています。この行為が愛ですね。この教えが律法学者にはまったくないのです。

そして、イエス・キリストは、問題を提出したことを弁明したり、自分は正しいことをしていると面目を保つための言い訳をする律法学者に対して、その間違った教えや不遜な考えを改めさせ、『行ってあなたも同じようにしなさい。』と諭しています。私たちも、この「善いサマリア人」にならなければなりません。人を助けるのに、国の違いや人種の違いだけでなく、その時の状況・状態にこだわることは何もないですよね。困っている人=慈しみと憐みを必要とする人には、誰彼問わず助けるという愛の手を差し伸べるべきですね。これぞまさしくイエス・キリストの教えである善い行いです。私たちの信仰も、ただ信じるだけでなく、福音の実践である善い行いが伴う信仰でありたいものです。

【なぜ、ユダヤ人はサマリア人が嫌いか?】
サマリア人がユダヤ人から嫌わる理由には歴史があるのです。ダビデ王とソロモン王親子の治世は、王国は隆盛を誇り平和が続きましたが、ソロモン王の死後、イスラエルはエルサレムを首都とする「南ユダ国」とサマリアを首都とする「北イスラエル王国」に分裂しました。その後、紀元前722年に北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、僅かに残ったサマリア人はアッシリア人の血が混じった汚らわしいユダヤ人として南ユダ国のユダヤ人から嫌われることになったのです。
その後、南ユダ国も紀元前586年はバビロニア帝国に滅ぼされ、バビロニア帝国はユダヤ人を捕囚として50年間、チグリス、ユーフラテス流域の首都バビロンで過ごす(第二回バビロン捕囚)ことになりました。その後、ユダヤ人は帰還が許さ、エルサレムに戻り破壊された神殿の再建に力を注ぎます。そうしてユダヤ人とサマリア人の関係は親戚の関係ではあっても、アッシリア人の血が混じった汚らわしいユダヤ人として忌み嫌う関係がイエス・キリストの時代まで続いていたのです。
ちなみに、たとえ話に登場する祭司は、神殿の職務を司る者で教え導く任務にあった人であり、レビ人(びと)はイスラエル十二部族の一つで祭司に相応しい部族として任務を担ってきた人です。ただし、イエス・キリストの生きていた時代は、祭司職の役割が細分化するにつれてレビ人は祭司の下働きをする階級となっていました。

【善きサマリア人の法】
善きサマリア人の法(よきサマリアびとのほう、英:Good Samaritan laws)は、災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨の法律です。誤った対応をして訴えられたり処罰を受ける恐れをなくして、その場に居合わせた人による傷病者の救護者の合理的な救護行為を法的に保護し、またそのような救護を促進しようとの意図があります。アメリカやカナダ、オーストラリアなどで施行されており、近年、日本でも立法化すべきか否かという議論がなされているそうです。
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今日の日記2024.3.24(定年退職を祝う会!) [日記]

先週の22日(金)に、財務部主催の定年退職を祝う会がありました。勤続42年、最後の大宴会となりました(^◇^)その時にいただいたお祝い品です。これは凄いです!私の顔がタンブラーに刻まれています( ̄◇ ̄;) しかも桐の箱いりです。もうこれは一生物ですね。どうやって作ったのでしょうか?今の頭髪は真ん中から分けていますが、42年間のほとんどは、タンブラーに描かれているように7:3に分けていました。それにしてもよく似てますね〜!
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聖歌隊日記2024.3.24(復活の主日・聖なる復活徹夜祭の聖歌奉仕練習) [聖歌日記]

今日は、枝の主日のミサが終わってから、3月30日(土)の「復活の主日・復活の聖なる徹夜祭」の聖歌奉仕で歌う聖歌の練習をしました。私は、今月末の定年退職を機に、復活徹夜祭の聖歌奉仕をもって成城教会聖タデオ聖歌隊を退隊いたします。大変お世話になりありがとうございました。感謝感謝です!
◯歌う聖歌は次のとおりです。
1.入祭の歌<光の祭儀>
典礼聖歌集第341番「キリストの光」
典礼聖歌集第342番「復活賛歌」
2.いつくしみと栄光の賛歌
典礼聖歌集第46番「神のそそがれる目は」②④
典礼聖歌集第79番「神よあなたはわたしの力」①②③
典礼聖歌集第7番「あなたのいぶうきをうけて」①③
栄光の賛歌612番
3.アレルヤ唱
典礼聖歌集第12番「アレルヤ」①②③
4.洗礼式
典礼聖歌集第343番「諸聖人の連願(新口語版)」
.洗礼の約束の更新後
典礼聖歌集第96番「この水を受けた」
5.奉納の歌
典礼聖歌集第143番「たて琴をかなで」
6.感謝の賛歌613番
7.平和の賛歌614番
8.拝領の歌
典礼聖歌集第165番「喜びに心をはずませ」
9.拝領後の歌
典礼聖歌集第410番「よろびうたえアレルヤ」
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新約聖書:ヨハネの第一の手紙・第1章・第9節 [聖書]

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するなら、真実で正しい方である神は、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

罪を犯した人間にとって大切なことは、即座に自分の①犯した罪を認めて②回心し、③犯した罪を告白して④神に赦しを乞うことです。①~④の順にしたがって赦しを乞います。キリスト教の中でも、カトリック教会の信徒(カトリック教会の洗礼を受けた人)であれば、司祭(神父)に「赦しの秘跡(ゆるしのひせき)」を授けてもらうことができます。つまり、司祭(神父)に罪を告白して神様に罪を赦してもらうことです。
カトリック教会には、7つの秘跡がありますが、それは、洗礼の秘跡、堅信の秘跡、聖体の秘跡、赦しの秘跡、病者の塗油の秘跡、叙階の秘跡、婚姻の秘跡です。ここでは、各々の秘跡の詳細説明はしませんが、今日は上記の聖書に関係する「赦しの秘跡」を説明しましょう。

「赦しの秘跡(ゆるしのひせき)」は、キリスト教カトリック教会における「7つの秘跡」の1つです。7つの秘跡とは、①洗礼、②堅信(洗礼後、神の前で行う信仰告白)、③聖体、④婚姻(結婚)、⑤病者の塗油、⑥赦し(告解)、⑦叙階(司祭を任命する儀式)のことです。ちなみに、プロテスタント教会には秘跡はありません。
赦しの秘跡は、聴罪司祭(ちょうざいしさい:司祭=神父)のもとで、自分の犯した罪を告解(こっかい:告白)し、罪の赦しを願うことにより、神からの罪の赦しが与えられるという“しるし”です。この秘跡は、回心、悔い改め、和解、いやしの秘跡とも呼ばれています。赦しの秘跡に必要な行為は、①痛悔(犯した罪を悔やむこと)、②司祭への罪の告白、③償いを果たす決意及びその実行です。

カトリック教会での赦しの秘跡の位置付けはとても重要で、大罪を犯した場合はもちろん、年に一度は必ず行うべきものとされています。特に待降節や四旬節の期間などに聴罪司祭に告解を行うことが多いですね。告解は、カトリック教会の洗礼を受けた人だけしかできません。聴罪司祭が赦しを信徒に授けます。司祭(神父)は、叙階の秘跡(後日説明いたします)において神(イエス・キリスト)から権能を授けられており、その権能をもって神様の赦しを与えます。

人間は、生きていくうちにいろんな罪を犯します。人を恨んでしまったり、言葉で心に傷つけてしまったりなど小さな罪も犯します。盗んでしまったり、取り返しのつかない大きな罪も犯します。その罪の告白をとおして、その罪における神様からの赦しと和解を得ることが告解です。昨夜から復活祭に向けての「聖週間」に入りました。まだ、赦しの秘跡を受けて罪の告白をし、神の赦しを得ていない方は、早く赦しの秘跡を受けましょう!「聖なる三日間」までに!

◯写真は、カトリック教会の聖堂にある一般的な ” 告解室(告解部屋) ” です。左側の部屋に聴罪司祭が入り、ドアの空いている部屋(右側)に告解する信徒が入ります。跪(ひざま)ずいて格子戸(隣の部屋にいる司祭)に向かって罪の告白をします。
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古い教会の聖堂には、このような昔ながらの豪華な造りの告解室があります。この形式の告解室では、罪の告白する場所が外側にありますから、信徒の顔や話す内容が他の人に知られてしまいそうですね~(⌒-⌒; )
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よく「懺悔(ざんげ)」と間違う人がいますが、懺悔という言葉はカトリック教会では使われず、カトリック教会の宗教的意味は全くありません。そして、お祈りの中で罪を認めるときは「罪の告白」といいます。ですからカトリック教会では告解はとても大切な秘跡ですので、◯告解 = ✕懺悔ではないと考えられます。わかりやすく言えば “ 懺悔はごめんなさい ” と謝ることですね。告解は今までの行いや言動を振り返り、誤り・罪を認め神様に赦していただくことです。告解の最後に「あなたの罪は赦されました。」と聴罪司祭が言います。これは「罪の赦し」を意味しています。

【告解】
カトリック教会では、赦し秘跡のことをいいます。聴罪司祭に自らの罪を明かす行為のことです。
【聴罪司祭】
告解(告白)を聴き、「父と子と聖霊の御名(みな)によって」罪を赦す権能を行使する司祭(神父様)のこと。また、聴罪司祭には守秘義務があり、告白によって知った罪についての完全な秘密を守るように義務づけられていて、これに背けば厳罰を科せられることになっています。
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