「エルサレムの聖チリロ司教教会博士」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日3月18日は、エルサレムの聖チリロ司教教会博士(アレキサンドリア:313年頃~386年)の任意の記念日です。4世紀の傑出した神学者の一人でエルサレム司教です。若いころ、聖書や教父の著書を読むなど研鑽に努め、19歳のときにエルサレムの司教マカリオに選ばれて助祭となり、説教をして本を書いて人々を信仰に導きました。その後司祭となり、マカリオの後継者に選ばれ司教となっています。
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当時は異端のアリウス派が広まり、グノーシス主義やユダヤ教などに対抗して正当信仰を擁護するチリロは、アリウス派の人々によって司教座から何回も追放され、16年間も流刑の身を強いられました。チリロは奇跡を起こして人々に信仰を固めさせ、異教の人たちまでも驚かせたといわれています。ギリシア語でキュリロスとも呼ばれ、エルサレムの聖キュリロスとも呼ばれています。
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教会日記2024.3.14(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第五月曜日のミサ」月曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会で7時からの「四旬節第五月曜日のミサ」に与りました。
カウントダウン:定年退職(3月31日)まで、あと12日です!
昨日は暑かったですね~( ̄▽ ̄;) もう夏が来たかのような暑さでした。しかし、朝はまだ寒く感じますので服装が難しいですね。いずれにしても風邪ひきに注意です!………と言いたいとこころですが、風邪をひいてしまいました(;一_一) 熱はありませんが、のどが痛く咳が出ます。病院に行きます。

ミサでは、朗読奉仕を務めました。今日の朗読は『』ダニエルの預言』で、有名なスザンナのお話しでした。長かったな~(^◇^)
そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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新約聖書:ルカによる福音書・第15章・第1〜第7節 [聖書]

「さて、徴税人や罪人たちがみな話しを聞こうとして、イエスのもとに近寄ってきた。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを受け入れて、食事をともにしている」とつぶやいた。
そこで、イエスは彼らに次の喩えを語られた。
あなた方のうちに、百匹の羊を持っている者がいるとする。そのうちの一匹を見失ったら、九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで、跡をたどって行くのではないだろうか。そして見つけ出すと、喜んで自分の肩に乗せて、家に帰り、友人や近所の人々を呼び集めて言うだろう、『一緒に喜んでください。見失ったわたしの羊を見つけましたから』。あなた方に言っておく、このように、悔い改める一人の罪人のためには、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人のためよりも、もっと大きな喜びが天にある。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)ですが、まず「百匹の羊を持っている者」とは、神様=イエス・キリストのことで、「見失った一匹の羊」とは罪びとのことです。そして、「九十九匹」とは正しい人という意味です。この聖句は、「悔い改める一人の罪びとのためには、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人のためよりも、もっと大きな喜びが天にある。」という意味になります。
九十九匹を荒れ野に残すという大きな危険を冒してまでも、羊飼いは見失った一匹の羊のために探し出そうとするのですね。つまり、神様=イエス・キリストは、たった一人の罪びとであっても大切な存在なのだと説いているのです。そして、神の恩寵(おんちょう)の外に出て行った罪を犯した罪びとでも、悔い改めて恩寵の中に戻ってこれるように、神様=イエス・キリストは、救い出すのですね。

◯このイエス様のご絵は、とても神様への愛に深い敬虔な方からいただきました。罪びとの私にぴったりなご絵です………ということは、イエス様の肩に乗っているのは私ということですね(⌒-⌒; )
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このたとえ話しは、イエス・キリストが、徴税人や罪びとを招いて食事をしていることをファリサイ派の人たちが咎めたことに対する、イエス・キリストの反論から始まっています。この「ルカによる福音書」と同じ趣旨の内容が載っている「マタイによる福音書 (第18章・第10〜第14節)」では、イエス・キリストは弟子たちに向かって、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、天におられるあなた方の父(神様)のみ旨ではない。」と説いておられます。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第5章・第30~第32節
「ファリサイ派の人々やその他の律法学者たち、イエスの弟子たちに向かってつぶやいて言った。「どうして、あなた方は徴税人や罪人とともに食べたり飲んだりするのか」。そこで、イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
◯新約聖書:マタイによる福音書・第9章・第10〜第13節
「イエスが家で食卓に着いておられた時のことである。徴税人や罪人たちが大勢やって来て、イエスや弟子たちとらともに食卓に着いていた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに言った。「どうして、あなた方の先生は、徴税人や罪人と食事をともにすれるのか」。これを聞いて、イエスは仰せになった、「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。『わたしが望むのは犠牲(いけにえ)ではなく、憐れみである』ということが何を意味するか、学んできなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

解釈は、次のとおりです。
この部分で、「ファリサイ派の人々(やその他の律法学者)」という人たちが出てきますが、このファリサイ派・律法学者たちとは、自分達イスラエル人は、神に選ばれた唯一の民族で、神様との特別な契約を結んだ“神の民”であり、救いは“神の民”だけのものだと信じていました。ですから、イスラエル人でない異邦人は、神様の救いから除外されており、神様の教えをないがしろにして、自分たち人間の勝手な解釈によって形骸化している律法信奉している人たちです。自分たちの律法を守らない者は、血筋ではイスラエル人であっても、異邦人と同じように救いから除外される「罪びと」と考えられていました。

その後に「徴税人(ちょうぜいにん)」という人たちが出てきますが、この徴税人とは、当時のユダヤ地方(イスラエル辺り)を属州として支配していたローマ帝国(ローマ人)のために、税金の取り立てを請け負ったユダヤ人のことです。ローマ人(異邦人)支配者のために、同胞から税を取り立て、定められた額より多く取り立てるということで、同じユダヤ人から憎まれて「罪びと」として嫌われていました。

イエス・キリストは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである。」と説いておられます。「医者」とはイエス・キリストのことで、「健康な人」とは正しい人、そして、「病人」とは罪びとという喩(たとえ)えになっていますが、「罪びとを招いて悔い改めさせるためである。」ということです。つまり、健康な人なら医者はいらないのであって、医者が本当に必要なのは病人です。それと同じく正しい人であれば悔い改めはいらないのであって、罪びとは悔い改めが必要であり、イエス・キリストの救いを必要としているのです。
イエス・キリストは、罪人が悔い改めて救われることを望み、そのために宣教活動をされました。徴税人も他の人と同じ人間であり、徴税人としてのこれまでの行いは、これからの生き方によっては、それまでの悪い行いは赦され、新しい生き方が開けることをイエス・キリストは説いておられるのです。
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