『死者のための祈り』 [祈り]

先ほどの「教会日記2024.3.2」に書きましたが、今夜の主日のミサの帰りがけに、朝ミサでいつも敬虔にお祈りされている方のご親族がお亡くなりになられたと知りました。お亡くなりになられた方とご親族の皆さんのためにお祈りいたします。

「イエス・キリスト、栄光の王である主、
聖母マリアとすべての聖人の取り次ぎによって、
神を信じて亡くなった◯◯◯◯さんを復活の栄光にあずからせてください。
大天使ミカエルの取り次ぎによって、
アブラハムとその子孫に約束された聖なる光に導いてください。
主よ、◯◯◯◯さんのためにささげる賛美の祈りを受け納め、
永遠の喜びに迎え入れてください。
永遠の安息を与え、不滅の光で照らしてください。
◯◯◯◯さんが安らかに憩いますように。
アーメン」

「神よ、御子イエス・キリストは、わたしたちに約束されました。
『わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる人は、死んでも生きている。
わたしを信じて生きている者は、
すべて永遠に死ぬことはない』と。
いつくしみ深い神よ、
この世からあなたのもとにお呼びになった◯◯◯◯さんを
お約束のとおり、あなたの国に受け入れてください。
すべての罪の絆から解放されて、
永遠の光の内に迎えられ、救われた人々と共に、
復活の栄光のうちに立ち上がることができますように。
私たちの主イエス・キリストによって、
アーメン」
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教会日記2024.3.2(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第三主日のミサ」土曜日) [教会日記]

今日は、仕事はお休みをいただき、カトリック成城・聖タデオ教会で18時からの「四旬節第三主日のミサ」に与りました。
カウントダウン:定年退職(3月31日)まで、あと28日です!
朝から退職前の挨拶回りで忙しい一日でした。挨拶回りは、6月末くらいまで続きそうです。定年退職した4月以降は、私の故郷の三重県四日市市にある両親のお墓参りをはじめ、福島県郡山市・会津市、長野県長野市・佐久市、静岡県沼津市・焼津市、愛知県名古屋市、三重県鈴鹿市・津市、奈良県奈良市、京都府京都市、大阪府大阪市、兵庫県神戸市・西宮市などを挨拶回りします。その後、イタリア・ローマ市にあるバチカン市国にも行きます!これは巡礼ですね。
ところで、ミサの帰りがけに知ったのですが、朝ミサでいつも敬虔にお祈りされている方のお身内の方(ご主人?)がお亡くなりになったとのことでした。主の永遠の安息をお祈りいたしますと共に、ご家族の皆様に主の平安がありますようお祈りいたします。

ミサでは、祭壇奉仕(侍者)を務めました。
そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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新約聖書:マタイによる福音書・第7章・第7〜第11節 [聖書]

「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見出す。たたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれる。あなた方のうちに、子供がパンを求めているのに、石を与える者がいるだろうか。あるいは、魚を求めているのに、蛇を与える者がいるだろうか。あなたがたは悪い者であっても、自分の子供たちに、善い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなた方の天の父が、ご自分に求める者に、善い物を与えてくださらないことがあるだろうか。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

先月2月19日に掲載したばかりですが、リクエストにお応えして再掲載いたします。
今日の聖句(イエス・キリストの言葉)は、「山上の説教」という副題のついているところの一部です。一般的には「山上の垂訓(さんじょうのすいくん)」として有名な箇所です。これは、新約聖書の「マタイによる福音書・第5章から第7章」と「ルカによる福音書・第6章」に記載のある、イエス・キリストが、山の上で使徒(弟子)たちと群集に語った教えのことですね。是非とも第7章全体をお読みください。

この「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見出す。たたきなさい。そうすれば開かれる。」は聖書の中でも有名な箇所です。しかし、イエス・キリストの教えの主要部分は、最後にある「まして、天におられるあなた方の天の父が、ご自分に求める者に、善い物を与えてくださらないことがあるだろうか。」に集約されています。天の父とは、イエス・キリストの父である神様のことです。

イエス・キリストは、実は「求めつづけなさい、探しつづけなさい、たたき続けなさ」と “ 続けなさい ” と説かれているのです。私たちが祈り求めるものは、「ください。」とお祈りして、「はい、あげますよ。」という簡単なものではないですね。そのようなものなら、最初から祈り求めなくてもいいわけです。私たち人間が簡単に与えてもらえないものだからこそ、諦めずに求め続けなさいと説いているのですね。

では、イエス・キリストは、私たちに対して何を求め、何を探し、何をたたきなさいと説いているのでしょうか。それは、「神のみ旨・み心」です。神のみ旨・み心を求め、神のみ旨・み心を探し、神のみ旨・み心をたたきなさいと説いておられるのです。目の前にあるような物質的な物欲的なご利益的なものではなく、キリスト者として大切な神のみ旨・み心に叶うことを求め、探し、たたきなさいということです。そうすれば。「天におられるあなた方の天の父が、ご自分に求める者に、善い物を与えてくださらないことがあるだろうか。」ということになるのです。

そして、聖書に書かれている「種を蒔く人のたとえ」の教えを引用し、それを応用して書きますが、神のみ旨・み心を知り聞くだけの人の蒔く種は、道端に蒔かれた種と同じで、芽を出す前に人に踏みつけられ、鳥に食べられてしまいます。み旨・み心を求め探す人が蒔く種は、良い土地に落ちて芽を出し百倍の実を結びます。キリスト者の信仰は、神のみ旨・み心を知って聞いて信じることだけでなく、神のみ旨・み心を行うこと、実践すること。その“善き行い”が伴なって初めて信仰と言えるのです。これがキリスト者として非常に重要なことであると確信しています。

最後に、私には、この聖句はイエス・キリストが「祈り求める大切さ」も説いておられるのだと解釈しています。祈りは、粘り強くあきらめずに継続しなけなければなりませんが、そうしたからといって必ずしも私たちの願いがすべて成就するわけではありません。しかし、真剣に祈り続けるなら、祈る人自身の心が次第に良い方向に向かって変えられて行くのです。この聖句は、ある意味で祈りの勧めである以上に、イエス・キリストの父である神様の寛大な愛を示しているように感じます。

使徒である聖パウロは、ローマにいる信徒への手紙の中で「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(新約聖書:ローマへの信徒への手紙・第5章・第3~第5節)」と記しています。忍耐こそが希望への光となるのです。祈りも同じだと思います。忍耐を持って祈り続けるのです。そうすれば、希望の光であるイエス・キイストの父である神様が、必ずや聴き留めて報いてくださるのです。これを信じて祈りを実践することが信仰なのですね。
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