教会日記2024.3.26(カトリック成城・聖タデオ教会「受難の火曜日のミサ」火曜日) [教会日記]

現在21時56分、今気がつきましたが、朝のミサが終わってからこの記事を掲載するのを忘れていました( ̄▽ ̄;)
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「受難の火曜日のミサ」に与りました。一昨日23日の夜の「受難の主日(枝の主日)」から聖週間に入っています。
定年退職(3月31日)まであと5日です。一昨日から雨天ですが、花粉症の私には恵みの雨ですね(^◇^)

ミサでは、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
nice!(0)  コメント(0) 

典礼聖歌集・第404番「羊かいがいて(羊飼いがいて)」 [聖歌日記]

この典礼聖歌は、聖書にあるイエス・キリストの教えである聖句を用いた歌詞になっています。神の救い、神の慈しみを見事に表した、救いの究極的な聖歌だと思います。とても優しいメロディで、私の大好きな聖歌の一つです。
◯典礼聖歌集・第404番「羊かいがいて」
「羊飼いがいて たくさんの羊を飼っていた。
ある日その中の一匹が迷子になってしまった。
羊飼いは他の羊をおき、その一匹を探しに出る。
もし見つけたらどんなに喜ぶことだろう。
羊飼いはキリスト、その一匹はわたし
羊飼いはキリスト、その一匹はあなた
どんなに小さな一人をも
神は見すてることがない。」

この聖歌は、新約聖書のルカによる福音の第15章から採られています。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第15章・第1〜第7節
「さて、徴税人や罪人たちがみな話しを聞こうとして、イエスのもとに近寄ってきた。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを受け入れて、食事をともにしている」とつぶやいた。
そこで、イエスは彼らに次の喩えを語られた。
あなた方のうちに、百匹の羊を持っている者がいるとする。そのうちの一匹を見失ったら、九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで、跡をたどって行くのではないだろうか。そして見つけ出すと、喜んで自分の肩に乗せて、家に帰り、友人や近所の人々を呼び集めて言うだろう、『一緒に喜んでください。見失ったわたしの羊を見つけましたから』。あなた方に言っておく、このように、悔い改める一人の罪人のためには、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人のためよりも、もっと大きな喜びが天にある。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
◯このイエス様のご絵は、とても神様への愛に深い敬虔な方からいただきました。罪びとの私にぴったりなご絵ですね(⌒-⌒; )………ということは、イエス様の肩に乗っている羊は私ということになりますね( ̄◇ ̄;)
4819D4CB-896E-42C4-B8A2-E442A290FB1F.jpeg
この聖句(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)ですが、まず「百匹の羊を持っている者=羊飼い」とは、イエス・キリストのことで、「見失った一匹の羊」とは罪びとのことです。そして、「九十九匹」とは、正しい人という意味です。この聖句は、「悔い改める一人の罪びとのためには、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人のためよりも、もっと大きな喜びが天にある。」とい意味になります。
九十九匹を荒れ野に残すという大きな危険を冒してまでも、羊飼いは見失った一匹の羊のために探し出そうとするのですね。つまり、イエス・キリストは、たった一人の罪びとであっても大切な存在なのだと説いているのです。そして、神の恩寵(おんちょう)の外に出て行った罪を犯した罪びとでも、悔い改めて恩寵の中に戻ってこれるように、イエス・キリストは救い出すのです。これが神の救いであり、慈しみなのですね。
nice!(1)  コメント(0)