2024年2月の訪問教会・支援活動記録 [訪問教会・支援活動記録]

昨日、掲載するのを忘れていました!
今月は29日間ある中の25日間(86.2%)を3つの教会・修道院に28回訪問し、28回ミサに与って28回ご聖体を拝領させていただきました。なお、ホームレス支援活動(山谷夜回りの会)は、2回参加しました。
カトリック成城・聖タデオ教会での平日のミサ(朝ミサ)は、町田教会に所属して入門講座を受講していた受洗前の2011年7月から通勤途中に途中下車して与ってきました。もう約12年半になります。そして、コロナ渦にあった2020年6月に町田教会から成城教会に移籍しました。
しかし、来月3月31日には定年退職となり、翌月4月1日からは成城教会のある世田谷区方面には来なくなります。ですから、今後は自宅から近いカトリック相模原教会又はカトリック八王子教会に移籍して………と以前から考えていたのですが、やはり典礼である “ ミサに与る本質を追究 ” するため、引き続き成城教会に留まらせていただくことにしました。現在務めさせていただいている祭壇奉仕(侍者)、朗読奉仕、先唱奉仕などのミサ奉仕を4月以降も継続することで、より深くミサに与っていくことにし、聖歌奉仕は、教会の聖歌隊で3年間ほど経験させていただきましたので、ミサに直接関わる祭壇に係る奉仕に専念するため、3月30日の「復活の主日・聖なる復活徹夜祭」の聖歌奉仕をもって隊退することにしました。
このようにお導きいただいた神様に感謝です。

◯2月の教会奉仕・社会奉仕活動
1.主日のミサ
  祭壇奉仕 1回(侍者)
  聖歌奉仕 1回(聖歌隊:原則土曜日担当)
2.平日のミサ
  先唱奉仕  3回(毎月初金を除く金曜日担当)  
  朗読奉仕  2回(毎月第三月曜日担当・代行)
3.社会奉仕  2回(ホームレス支援活動:第一木曜・第三木曜)

1日(木)成城教会:年間第四木曜日のミサ・7時から
  〃  支援活動:山谷夜回りの会・19時30分から(社会奉仕)
2日(金)麹町・聖イグナチオ教会:主の奉献の祝日のミサ・初金のミサ・18時から
3日(土)成城教会②:年間第五主日のミサ・18時から(祭壇奉仕・聖歌隊練習)
4日(日)………
5日(月)成城教会③:日本二十六聖人の祝日のミサ・7時から
6日(火)………(降雪・積雪のためミサは中止)
7日(水)成城教会④:年間第五水曜日のミサ・7時から
8日(木)成城教会⑤:年間第五木曜日のミサ・7時から
9日(金)成城教会⑥:年間第五金曜日のミサ・7時から(先唱奉仕)
  〃  麹町・聖イグナチオ教会②:年間第五金曜日のミサ・18時から
10日(土)成城教会⑦:年間第六主日のミサ・18時から(聖歌奉仕)
11日(日)………
12日(月)成城教会⑧:年間第六月曜日のミサ・7時から
13日(火)成城教会⑨:年間第六火曜日のミサ・7時から
14日(水)成城教会⑩:灰の水曜日のミサ(灰の式)・7時から
15日(木)成城教会⑪:灰の水曜日後の木曜日のミサ・7時から
  〃  支援活動②:山谷夜回りの会・19時30分から(社会奉仕) 
16日(金)成城教会⑫:灰の水曜日後の金曜日のミサ・7時から(先唱奉仕)
  〃  相模原教会:灰の水曜日後の金曜日のミサ・9時から(朗読奉仕代行)
17日(土)成城教会⑬:四旬節第一主日のミサ・18時から
18日(日)………
19日(月)成城教会⑭:四旬節第一月曜日のミサ・7時から(朗読奉仕)
  〃  麹町・聖イグナチオ教会③:赦しの秘跡(告解)・四旬節第一月曜日のミサ・18時から
20日(火)成城教会⑮:四旬節第一火曜日のミサ・7時から
21日(水)成城教会⑯:四旬節第一水曜日のミサ・7時から
22日(木)成城教会⑰:聖ペトロの使徒座の祝日のミサ・7時から
23日(金)成城教会⑱:四旬節第一金曜日のミサ・7時から(先唱奉仕)
  〃  麹町・聖イグナチオ教会④:四旬節第一金曜日のミサ・12時から  
24日(土)成城教会⑲:四旬節第二主日のミサ・18時から
25日(日)………
26日(月)成城教会⑳:四旬節第二月曜日のミサ・7時から
27日(火)成城教会㉑:四旬節第二火曜日のミサ・7時から
28日(水)成城教会㉒:四旬節第二水曜日のミサ・7時から
29日(木)成城教会㉓:四旬節第二木曜日のミサ・7時から
以上です。
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教会日記2024.3.1(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第二金曜日のミサ・初金のミサ」金曜日) [教会日記]

今日は、仕事はお休みをいただき、カトリック成城・聖タデオ教会で7時からの「四旬節第二金曜日のミサ・初金のミサ」に与りました。
カウントダウン:定年退職(3月31日)まで、あと29日です!
ミサが終わって、今から持病の変形性膝関節症の治療のため、先月替わったばかりの新しい病院に行きます。2年前に、退職前のこの2月に手術を行うことになっていたのですが、病院(主治医)が替わって「手術をしないで治しましょう!」となりましたので、退職間際に長期に仕事を休まずにすみ、職場にただでさえ多大な迷惑をかけているところに、余計な迷惑をかけなくてよかったです。

ミサでは、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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新訳聖書:ルカによる福音書・第16章・第19~第31節 [聖書]

「さて、ある金持ちがいた。彼は真紅の着物や柔らかい亜麻布の服を来て、毎日、贅沢に楽しく暮らしていた。ところが、この金持ちの門前には、ラザロという、体中にできもののある、貧しい男が座っていた。彼は、金持ちの食卓からこぼれ落ちる物で、腹を満たしたいと願っていたが、犬までも寄ってきて、その男のできものをなめていた。やがて、この貧しい男は死に、み使いたちによって、アブラハムのそのふところにいるラザロが見えた。連れていかれた。また、金持ちも死んで、葬られた。
そして、金持ちは陰府で苦しみながら目を上げると、はるか彼方に、アブラハムとそのすぐそばにいるラザロと見えた。そこで、金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロを遣わして、その指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中で悶え苦しんでいます』。
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。お前は生きている間に善いものを授かったが、ラザロは悪いものを授かった。しかし、今、彼はここで慰められ、お前は悶え苦しんでいる。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵がある。こちらからお前たちの方へ渡ろうとしてもできず、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない』。すると、金持ちは言った、『父よ、お願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには五人の兄弟がいます。彼らもこんな苦しい場所に来ることのないよう、厳しく言い聞かせてください』。 しかし、アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者たちがいる。彼らの言うことを聞けばよい』。そこで、金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし死者の中から誰かが兄弟たちのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう』。しかし、アブラハムは言った、『もし、モーセや預言者たちに耳を傾けないなら、たとえ、誰かが死者の中から生き返っても、彼らはその言うことを聞かないであろう』。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(イエス・キリストの言葉)は、<金持ちとラザロ>という題がついています。このたとえ話しを読むと、単純に「貧しい人には、死後に神の救いがあり、富んでいる人には、死後に神の救いはない。」ということになりますが、それでは、この聖句の教えの意味をなしませんね。
イエス・キリストは、このたとえ話しを語る前に<不正な管理人(ル:16・1~13)>のたとえ話しを語って、「あなた方は神と富に兼ね仕えることはできない」と教えています。その話の一部始終を聞いていた金銭を愛するにファリサイ派の人たちが、「これらのすべてを聞いて、イエスをあざ笑った(ルカ:16:14)」とあります。そこで、イエス・キリストは、彼らに対しての批判を込めてこの「金持ちとラザロ」のたとえ話し語り、彼らをラザロに対し何の憐れみも持たなかった「金持ち」にたとえているのですね。
そして重要なことは、彼らファリサイ派の人たちに対して、金銭を愛して名誉と富に執着し、憐れみの心、即ち貧しい人々や弱い人々を愛する心を失うことの間違いを教えると同時に、彼らを悔い改めへと招く言葉でもあったのです。

神様の救いは、善い行いをしたから救いがあるとか、しなかったから救いがないということではあません。神様はすべての人間に対して救いの手を差し伸べているのです。貧しいしい人々や弱い人々を愛する心、すなわち憐みの心を持たず、「自分(自分たち)だけが幸せであればよい。」という考えで日々生活をしている人たちには、神様の救いがあるようには思われませんが、それでも、神様はそのような人たちをも悔い改めへと導き、すべての人を救おうとしているのです。
イエス・キリストは、貧困を愛された方です。『マタイによる福音書』第25章・第40節に、「あなた方によく言っておく。これらのわたしの兄弟、しかも最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしたのである。」とお話しされています。ファリサイ派の人たちのように、富を愛して名誉と富に執着していないにしても、私たちも知らず知らずのうちに「憐れみの心、即ち貧しい人々や弱い人々を愛する心」を失っているかもしれません。私たちは、いま四旬節を迎えています。この40日間は復活祭への準備、すなわち悔い改めの期間です。日々の行いを回心して神様に悔い改めの祈りを捧げましょう。
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