「聖パトリック司教」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日3月17日は、「聖パトリック司教」の任意の記念日です。掲載するのが遅くなりました(⌒-⌒; )
聖パトリック(又はパトリキウス)(ラテン語でPatricius・英語でPatrick:イギリス:387年?~461年3月17日)は、アイルランドにキリスト教を広めた司教です。カトリック教会、聖公会、ルーテル教会及び正教会で聖人とされています。「アイルランドの使徒」と呼ばれ、アイルランドの守護聖人となっています。

イギリス西部にあるウェールズでケルト人(ローマ人とも)の家庭に生まれました。両親ともクリスチャンであり、母は聖書(旧約聖書の「詩編」)を教え、16歳でアイルランドの海賊に拉致されてアイルランドに奴隷として売られてしまいます。6年間、羊飼いとして働き(おそらくは北アイルランドのアントリム州)、その後神の声を聞くことになります。お告げに従って牧場を脱走し、およそ300キロを歩いて故郷のウェールズへ戻った後、神学を学ぶためヨーロッパ大陸へ渡りました。7年間神学を学んだ後に帰国します。

彼は自分を奴隷として虐待したアイルランド人らに対する愛と伝道の使命を与えられたと家族に話し(家族は伝道に反対)、432年、ローマ司教・カエレスティヌスから布教の命を受けて432年に再びアイルランドを訪れます。伝道のためにアイルランドへ行った最初の人間でも、唯一の人物でもありませんでしたが、大規模な改宗の象徴となっています。また、讃美歌の作者としても知られ、彼は365の教会を立て、12万人が回心したと伝えられています。三つ葉のクローバーに似たシャムロックを手に『三位一体』を説いたため、シャムロックは彼のシンボルとなりました。

◯アイルランドの首都ダブリンでのセント・パトリック・デーのパレードの様子です。
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原宿・表参道でのパレードの様子です。
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アイルランドやアイルランド移民の多いアメリカ、オーストラリアでは、“聖パトリックの祝日(St. Patrick's Day)”として盛大に祝われています。特ににアメリカでは世俗化し、カトリック信徒でない者でも緑の服を着るなどしてこの行事に参加する人も多いそうです。
日本でも「アイルランドを一般の方にもっと知ってもらおう!」を主旨に、アイリッシュ・ネットワーク・ジャパンにより、1992年からセント・パトリックス・デイ・パレードが開催されています。東京では原宿の表参道をアイルランドのシンボルカラーのグリーンやシンボルの三つ葉のクローバーデザインの衣装、小物を身につけた約1000名がパレードをします。その他、横浜や京都、日本各所でパレードやオープンイベントなどが催されています。
このブログの2019年9月16日に掲載した「四つ葉のクローバー」のお話しもご覧ください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2019-09-16
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「日本の信徒発見の聖母」と「プティジャン神父」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日3月17日は、「日本の信徒発見の聖母」の祝日です。
写真は、信徒発見に貢献したパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父様です。
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ベルナール・プティジャン(フランス:1829年~1884年)は、カトリック教会の宣教師です。パリ外国宣教会会員として幕末の日本を訪れ、後半生を日本の布教にささげました。1865年、大浦天主堂での「隠れキリシタンの発見(信徒発見)」の歴史的瞬間に立ち会ったことで有名です。フランス生まれのプティジャン神父は、1854年に司祭に叙階され、1859年にパリ外国宣教会に入会して日本への布教を志しました。当時の日本はキリスト教を禁じている江戸時代であり、外国人の入国が困難であったため、とりあえず琉球に渡って那覇で日本語と日本文化を学びました。1862年(文久2年)、ついに横浜に上陸し、翌年長崎に移りました。

任務は長崎の大浦の居留地に住むフランス人の司牧ということでした。後にプティジャン神父は日仏通商条約にもとづき、長崎の西坂(日本二十六聖人の殉教地)を見ることができる丘の上に居留地に住むフランス人のために教会を建築する許可を得ました。こうして建てられたのが大浦天主堂です。プティジャン神父は1868年には日本代牧区司教に任命され、1873年(明治6年)にキリシタン禁制が解かれる(政府が黙認する)と、長崎を拠点にキリスト教布教や日本人信徒組織の整備と日本人司祭の養成、教理書や各種出版物の日本語訳に力を注ぎ、1884年(明治17年)に帰天(死去)し、大浦天主堂内に埋葬されました。

大浦天主堂は当時は珍しい洋風建築でしたので評判となり、近隣住民は「フランス寺」とか「南蛮寺」と呼び見物に訪れました。プティジャン神父は訪れる日本人に教会を開放し、自由に見学することを許しました。本来居留フランス人のために建てられた天主堂を、興味本位で訪れる日本人に対して解放し見学を許していたのには理由がありました。それは、長崎がキリスト教殉教者の土地であることから、密かに未だ信徒が潜んでいるのではないか、もしかすると訪れて来る日本人の中に信徒がいるのではないかというわずかながらの期待があったからなのです。プティジャン神父は、付近の村々を歩いて詮索していたそうです。

はたして1865年(元治2年)3月17日(旧暦2月20日)の午後、プティジャン神父が庭の手入れをしていると、やってきた15人ほどの男女が教会の扉の開け方がわからず難儀していました。彼が扉を開いて中に招き入れると一行は内部を見て回り、プティジャン神父が祭壇の前で祈っていると、一行の一人で杉本ゆりと名乗る中年の女性が彼のもとに近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」と。プティジャン神父は「本当ですか。どこから来たのですか。」と。女性は「私たちは皆浦上の者です。そこの殆どの者が同じ気持ちです。」と。答えた女性は直ぐに問いかけました。「サンタ・マリアの像はどこですか。」それを聴いたプティジャン神父 はその時もはや何の疑いもなく、キリシタンの子孫に向き合っているのだと確信したのでした。

◯大浦天主堂にある当時そのままの「信徒発見の聖母マリア像」です。私は、高校2年生の修学旅行で大浦天主堂を訪れた時に拝見いたしました!
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彼は全員を聖マリア像の前に案内はしました。あらためて皆が膝まずき一心に祈りました。彼らは心に満ちた喜びをもう抑えることができずこう言ったそうでう。「そうです、まさにこれが聖母マリアさまです。見てご覧、彼女の腕の中の神の子イエスさまを。」これがまた大きな確信となりました。浦上から来た彼らこそ280年近くの間、死の危険を犯してまでキリスト教の信仰を守っていた“潜伏キリシタン”といわれる人々でした。プティジャン神父は大いに驚き、大いに喜んだそうです。数年前に日本公開となった、遠藤周作原作・マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙-サイレンス-』で画かれている迫害された人々の子孫です。あの人々の信念が結実した瞬間でした。なお、映画『沈黙-サイレンス-』のこは、このブログの2017年1月19日に掲載した「映画『沈黙-サイレンス-』のお話し」をお読みください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2017-01-29

プティジャン神父はこの仔細をヨーロッパへ書き送ったところ、ローマのバチカンをはじめ、ヨーロッパ中で大きなニュースとなりました。以後、続々と長崎各地で自分たちもキリシタンであるという人々が名乗り出てきました。プティジャン神父は、見学を装って訪れる日本人信者に対して秘密裏にミサや指導を行いました。しかし、堂々とキリスト教の信者であることを表明する者が現れたため、江戸幕府のキリスト教禁教政策を引き継いだ明治政府(日本政府)は、この状況を見過ごすことができず、江戸時代と同じように信徒を弾圧をし迫害することになりました。(これを「浦上四番崩れ」といいます。)

ところが、当時の日本の政府は、諸外国との不平等条約の解消に力を注いでいる最中でしたが、政府による一連の弾圧行為の情報が欧米諸国に伝わり、「キリスト教徒を弾圧するなど、そのような野蛮な日本とは対等な条約など結ぶことはできない!」ということで、これがキリスト教弾圧政策に圧力をかける結果に繋がりました。この諸外国の圧力に慌てた日本政府は、江戸時代より続いたキリスト教禁教政策を取りやめ、明治6年に全国にあったキリスト教禁教の「高札(こうさつ:市民に広報するため市中に立てられた掲示板)」を取り除き、やっとキリスト教の信仰が黙認される状況を作りました。その後、極めて限定的ですが、公式に信教の自由(キリスト教の信仰)が認められたのは、『大日本帝国憲法』が発布された明治22年(1889年)になってからのことです。しかし、真の意味において平等に信教の自由が認められたのは、『日本国憲法』が施行された昭和22年(1947年)からのことでした。
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