教会日記2024.3.23(カトリック成城・聖タデオ教会「聖週間:受難の主日(枝の主日)のミサ」土曜日)  [教会日記]

今日は、カトリック成城・聖タデオ教会で18時からの「受難の主日(枝の主日)のミサ」に与りました。日没後の今夜から「復活祭(イースター)」前の「聖週間」が始まりました。今夜から明日は「受難の主日(枝の主日)」です。今夜のミサは、通常のミサではなく、典礼の最大の特徴である、司祭(神父様)と複数の朗読者、さらには会衆(=信徒)全員の参加による「イエスの受難の朗読」が行われることです。聖週間及び受難の主日(枝の主日)の詳細については、今朝このブログに掲載した「聖週間のお話し」を是非ともお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2024-03-23
◯聖母マリア様のご像と成城教会の守護聖人の聖タデオ(聖タダイ)様のご像にシュロの葉が飾られています。あぁ!祭壇にあったシュロの葉が飾られた十字架を撮るの忘れたー!(⌒-⌒; )
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ミサ前に、行列(盛儀の入堂)の前に典礼聖歌集第315番「ダビドの子」を歌いました。そして、枝(シュロの葉)を持った会衆を祝福する祈りがあり、会衆が枝を掲げて司祭(神父様)が聖水を降り注ぎました。次に新約聖書『マルコによる福音書』の第11章・第1〜第10節を司祭が朗読し入堂となりました。
ミサでは、初めに旧約聖書『イザヤの預言』第50章・第4〜第7節などが朗読され、今日のミサの中心となる「マルコによる主イエス・キリストの受難」が、司祭と会衆2人によって朗読されました。劇的な感動的な時間でした。

そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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「聖週間」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日3月23日(土)の夕刻から「聖週間」が始まります。今夜から明日は「受難の主日(枝の主日)」です。キリスト教会において「降誕祭(クリスマス)」と並んで最も重要な「復活祭(イースター)」前の「聖週間」が始まり、3月31日(日)の「復活祭(復活の主日)」の前日までの一週間を「聖週間(せいしゅうかん)」といいます。また「受難週(じゅなんしゅう)」ともいいますが、この受難とは、イエス・キリストが十字架で磔刑(たっけい:十字架のはりつけの刑)されたことをいいます。
今夜3月23日(土)から明日の3月24日(日)は「受難の主日=枝の主日(えだのしゅじつ)」で、月曜日からは次のようになります。
3月25日(月)は「受難の月曜日」
3月26日(火)は「受難の火曜日」
3月27日(水)は「受難の水曜日」
3月28日(木)は「聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ」
3月29日(金)は「聖金曜日・主の受難の祭儀」・「過ぎ越しの聖なる断食(大斎・小斎)」
3月30日(土)は「聖土曜日」・夜から「復活の主日(復活祭)・復活の聖なる徹夜祭」です。通常はこの復活の聖なる徹夜祭で「入信式(洗礼式)」が行われます。28日(木)からは最も重要な「聖なる三日間」となります。
3月31日(日)は「復活の主日(復活祭)・日中のミサ」です。

◇受難の主日=枝の主日(えだのしゅじつ:「棕梠(シュロ)の主日」ともいいます)
聖週間の初日となる「受難の主日=枝の主日」は、キリスト教カトリック教会では祝日で、復活祭の一週間前の日曜日に当たります。この祝日は、イエス・キリストが子ろばに乗り、エルサレムに入城した時を記念するものです。新約聖書の「ヨハネによる福音書」では、エルサレムに来たイエス・キリストを、イエス・キリストの通る道で棕梠(シュロ)の木の枝を振ったり道に敷きつめたりして、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」と叫び喜び迎えました。

このイエス・キリストがエルサレムに入城した時の、その群衆の様子をミサの中で思い起こすため、皆さんは聖歌を歌いながら、棕梠(シュロ)の枝をもって神父様から祝別(祝福)のため、聖水をかけてもらいます。その日が今夜と今日のミサとなります。祝福(祝福)を受けた枝はもらって帰り、来年の「灰の水曜日」の前に、灰を作るために教会で集めるまで家の中に飾っておきます。
また、この日の典礼の最大の特徴は、司祭(神父様)と複数の朗読者、さらには会衆(=信徒)全員の参加による「イエスの受難の朗読」が行われることです。朗読は今年は典礼の聖書朗読配分がA年ですので、『マタイによる福音書』の第27章・第11〜第54節からとられています。多くの教会では、イエス・キリスト役は司祭(神父様)、ローマ帝国のシリア州総督であったポンティオ・ピラト役は信徒から1人、群集役は会衆全員で語り手は信徒から1人です。悲しくも感激のある朗読となります。

◯ピーテル・パウル・ルーベンス作の「キリストのエルサレム入城」で 1632年の作品です。シュロの葉を手にしてイエス様に振ってますね。フランス最古の美術館の一つである「ディジョン美術館」蔵です。
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〈入城の福音〉
今年のミサにおける聖書朗読配分が「B年」となっていますから、次の『マタイによる福音書』が朗読されます。ミサでは、司祭と十字架を先頭にして、会衆(信徒)が行列して聖堂に入ります。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第21章・第1~第11節
「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山に面したベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、私のところに引いて来なさい。もし、誰かが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、あなたの王があなたのところに来る。
へりくだって、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に上着を掛けると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
主の名によって来られる方に
祝福があるように
いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。」
『聖書協会共同訳聖書』から

◇聖木曜日「主の晩餐」(この日のミサは「主の晩餐の夕べのミサ」と言います。)
聖木曜日(せいもくようび)は、復活祭前の週の木曜日のこと。「洗足木曜日(せんぞくもくようび)」とも呼ばれます。聖木曜日からの三日間は特に尊重され、「聖なる三日間」と呼びます。イエス・キリストと使徒たちの「最後の晩餐(さいごのばんさん)」を記念する日であり、その席でイエスが(へりくだりの行いとして)弟子たちの足を洗ったという記述が福音書に見られるため、「洗足木曜日」という呼称が生まれました。また、カトリック教会ではこの日を「司祭職の制定の日」としており、司教が司祭たちに聖香油を渡す慣習があります。
◯新約聖書:コリントの信徒への手紙一・第11章・第23〜第26節
「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』
食事の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
『聖書協会共同訳聖書』から

◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第13章・第1〜第15節 ※「洗足」
「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。イエスは、父がすべてをご自分の手に委ねられたこと、また、ご自分が神のもとに帰ろうとしていることを悟り、夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手拭いを取って腰に巻かれた。それから、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭いで拭き始められた。(中略)こうしてイエスは弟子たちの足を洗うと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。」
『聖書協会共同訳聖書』から

◇聖金曜日「主の受難」
聖金曜日(せいきんようび)は、復活祭前の週の金曜日のこと。「主の受難日」とも呼ばれます。『ヨハネによる福音書:第18章・第1〜第19節・42節』にある記述をもとにイエスの受難を思い起こす特別な典礼や祈りが行われます。カトリック教会では聖金曜日には断食を行う習慣があます。断食といっても完全な絶食ではありませんが、「大斎(たいさい)」と「小斎(しょうさい)」を行います。「大斎・小斎」の説明は、このブログの「灰の水曜日のお話し・教会日記2024.2.14(カトリック成城・聖タデオ教会 灰の水曜日のミサ・灰の式 水曜日)」をお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2024-02-14-3
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教会日記2024.3.22(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第五金曜日のミサ」金曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会で7時からの「四旬節第五金曜日のミサ」に与りました。
カウントダウン:定年退職(3月31日)まで、あと8日です!
町田市相原町の午前5時の気温は、なんと!−2度でした( ̄▽ ̄;) 3月下旬でこの気温とは(⌒-⌒; ) 寒いわけです!

ミサでは、先唱奉仕を務めました。
そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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「恩寵(おんちょう)」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

恩寵については、このブログに何度か書きましたが、再び掲載いたします。
一般的にいうところの【恩寵(おんちょう)】とは、辞書には「神や君主の愛やめぐみ」とあります。キリスト教における恩寵(ラテン語: Gratia)とは、「神の人間に対する働きかけ」であり「神の人類に対する慈愛」を意味しています。恩恵、聖寵、神の恵み、恵みともいいます。

カトリック教会の教父(きょうふ)・教会博士の称号を持つ聖アウグスティヌスは、恩寵(神の恵み、恩恵)を強調したことから<恩恵の博士>と呼ばれています。「私たちは、どのようにして神を把握することが出来るだろうか。」という問題に、聖アウグスティヌスは、「神はその超越的な本性上、我々の地上的で不完全な思惟によっては把握され得ない。私たちは神の啓示によって、愛と信仰を通じて把握することができるのみであって、神についての知識は私たちには用意されていない。」と述べています。

では、その神が全てを創造されたとするならば、人間の罪深さや悪が存在するのはなぜなのか?聖アウグスティヌスは、自身を含めて人間の罪深さをよく感じており、自由に考え、選択する能力を原初の人間・アダムにのみ認めました。アダムは神より「罪を犯さないことができる」という自由を与えられていましたが、神の信頼に背いて原罪を犯し(神様から食べてはいけないと言われた木の実を食べたこと)、これによって人間は自由を失い、「罪を犯さざるをえない」という悪状態に陥ったと解釈しています。

このような私たち罪深い人間は、ただ神の恩寵によってのみ救われることができる存在であるということです。その恩寵は神が与える無償の愛ですが、誰が神の恩寵を受けて救われるかは神のご意志によってあらかじめ定められているという「予定説」を表明しています。また、神の恩寵は教会を通じてのみ預かることができるとし、このことによって教会に対する信仰の基盤が確立されたということです。しかし、現在のカトリック教会は、この聖アウグスティヌスの見解を「予定説」としては捉えていないそうです。

私は、神の恩寵というものは、まず「信仰をとおして神から得られるもの」であって、それは「信仰するすべての人間に与えられているもの」であると考えます。それを、人間が自ら<恩寵の外へ逸脱>すること、つまり神の慈しみや恵みというものから、自らが遠ざかることがあるということです。その多くは<誘惑>によって心にサタンが入り込み、恩寵の圏外に出てしまう = 悪を行って罪を犯してしまうのですね。神の恩寵は、恩寵の圏内にいる者 = 信仰と善き行いに励む者に恵まれるものと解釈しています。

さて、『アヴェ・マリアの祈り』では、その祈祷文(ラテン語)の冒頭部分に"Ave Maria,gratia plena" と「恩寵」を意味する"gratia" が入っており、以前にカトリック教会で唱えられていた文語訳の「天使祝詞」では、「聖寵(せいちょう)」と訳されていました。現在の口語訳では「恵み」と訳されています。
◯『アヴェ・マリアの祈り』
「アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン」

【教父】
教父とは、カトリック教会におけるキリスト教用語で、古代から中世初期、2世紀から8世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、特に正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人のことです。
【教会博士】
教会博士とは、カトリック教会におけるキリスト教用語で、聖人の中でも特に学識にすぐれ、信仰理解において偉大な業績を残した人に送られる称号のことです。
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今日の日記2014.3.21(定年退職者感謝状等贈呈式・慰労宴) [日記]

今日は、今月末で定年退職する教職員への「感謝状等贈呈式・慰労宴」が行われました。昭和57年4月1日に学校法人国士舘に専任職員として奉職してから勤続42年、学生時代4年間を含めると46年も国士舘にお世話になりました。感謝状をいただきましたが、こちらこそ感謝感謝です。
◯感謝状と花束です。
42年間、いろいろな部署を異動させていただきました。最初は鶴川校舎分校事務室(現在の町田校舎事務課)の庶務・印刷係として配属され、毎日のように輪転機を回し、仕事が終わってインク油まみれになった手を洗い、爪に入った黒インクを取るのが日課だったことが懐かしいですね。最後は法人事務局の財務部長として終えることになりました。
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感謝状等贈呈式は、国の登録有形文化財として文化庁から指定されている「国士舘大講堂」で行われました。在職最後の式典を歴史・伝統ある建物で行われ感無量でした。学生時代は吹奏楽部に所属し、夏休みになると毎日のようにこの大講堂の畳の上で練習したものです。現在は、課外活動の使用は禁止です。
◯大講堂です。
大正8年建築の銅板葺屋根の重厚な造りをしています。昭和20年終戦前の空襲で校舎のほとんどを焼失しましたが、この大講堂だけは損傷なく残りました。2017年に国士舘創立100周年を迎えた際に、文化庁から登録有形文化財に指定されました。講堂の分類における登録文化財としては都内最古のものです。
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国士舘大講堂の詳細については、国士舘大学のホームページにある次のページをご覧ください。
「国士舘大講堂(国登録有形文化財)」
https://www.kokushikan.ac.jp/houjin/about/auditorium/
「大講堂のおはなし」
https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/history/pdf/dictionary_01.pdf
◯記念品です。
国士舘大学創立以来の信条である「誠意・勤労・見識・気魄(右から)」です。国士舘創立者の柴田徳次郎先生(勲二等正四位・経済学博士)の筆です。山口県萩市にある「萩ガラス工房」の特注品です。重い( ̄▽ ̄;)
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ちなみに、今日は午前9時過ぎに久しぶりに大きな揺れを感じる地震があり、忘れられない日となりました( ̄▽ ̄;)
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教会日記2024.3.21(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第五木曜日のミサ」木曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会で7時からの「四旬節第五木曜日のミサ」に与りました。
カウントダウン:定年退職(3月31日)まで、あと9日です!ついに定年退職のカウントダウンも一桁台に入りました!感慨深いものがありますね~(^◇^)
今日は、一段と寒くなりました( ̄◇ ̄;) 花粉症の私には寒い方がいいのですが、晴れても風がなければいいですね。ティッシュ箱が一日でなくなりますから!

ミサでは、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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「『ロザリオの祈り』ってご利益はあるの?」のお話し [ロザリオ日記]

このブログに過去に掲載した記事を再掲載いたします。
お昼休みに『ロザリオの祈り』をしていたら、同僚から「何やってるの?」と聞かれ、『ロザリオの祈り』についていろいろと説明したら、その後で「ロザリオの祈りってさ、ご利益はあるの?」という質問がありました。回答をする前に『ロザリオの祈り』を極めて簡単にご説明しますと、「ロザリオの祈りとは、カトリック教会・信徒が崇敬する聖母マリア様に、イエス・キリストへの取次ぎをお願いするお祈り」ということになります。

◯『ロザリオの祈り』の詳しいことは、このブログに掲載した次の記事をお読みください。
「ロザリオの祈りを祈りましょう!」2021年10月3日掲載
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2021-10-02-1
「ロザリオの祈りの祈り方のお話し」2020年10月9日掲載
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2020-10-09

ということで回答ですが、まず、キリスト教カトリック教会の信仰は、神道や仏教のようにご利益宗教ではありませんので、「ご利益はあるの?」という質問には回答しかねます。しかし、『ロザリオの祈り』には「事が成就する効果があります!」と言えます。お祈りの願いは叶えられるということです。でも、金持ちになりたいとか、出世したいとか、欲しいものをどうしても手に入れたいなど、ご利益系のお願いは叶えてもらえません。

私が『ロザリオの祈り』で叶えられたのは、親友が病気で苦しんでいた時、人間関係がうまくいかず悩んでいたと時、信頼していた人に裏切られ悪意で苦しめられた時などなど、『ロザリオの祈り』でたくさんの苦境を救っていただきました。でも、すべてが完全に叶えられたわけではありませんし、自分でできる限りの努力も何もせずに願いは叶えられませんね。でも、不思議に事が成就するというお祈りの効果は何回も経験しています。

カトリック教会というと、キリスト教の教派によっては、「聖母マリア様を崇拝して神様が禁ずる偶像崇拝をしている!」などの批判をする方もいます。事実、私も言われたことがあります。カトリック教会では、聖母マリア様はイエス・キリストの母であり、私たちの母でもあることを認め、教義によって崇拝ではなく「崇敬」しているのです。ですから、カトリック教会の信徒は神であるイエス・キリストへの取次ぎのお祈りするのです。

ロザリオ自体は信心の聖具です。これを教会のお金集めのためのアイテムだと言う人もいるようですが、どこかの新興宗教団体とは全く違います!ロザリオは仏教の数珠ではありませんから、持っていなくても問題はありません。カトリック教会の聖品専門店で売られていますが、安いもので一つ500円~800円くらいです。
私は、カトリック教会の信徒となって12年ですが、その経験から言えることは「カトリック教会は、収入が乏しく日々の生活を営むのは精一杯で、献金したくてもできないそのような人の分は、収入に余裕のある人がカバーする。」という暗黙の考えた方になっていると思います。あくまでも私見ですが。献金とは言いますが、お金に執着しないところがカトリック教会の良いところの一つかもしれませんね。なんといってもイエス・キリストは貧困を愛されましたから。

カトリック教会の信徒は、敬虔な人ほど毎日『ロザリオの祈り』を唱えています。お祈りにかかる時間は人によって違いますが、一般的には20分~25分くらいですね。場所と時を選びませんから祈りやすいお祈りです。最終的には黙想しながらのお祈りとなります。でも、初めてお祈りする人は、祈祷文を覚えるのが大変に感じるものですが、初めは紙に書いてある祈祷文を読みながらになり、それを毎日お祈りすれば覚えますからご安心を!
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今日の日記2024.3.20(自宅療養所!) [日記]

今日は、一昨日からの風邪による咳が酷く、また、昨日から花粉症で鼻水が酷いため、四旬節第五水曜日のミサをお休みして自宅療養となりました。薬を飲んで一日中寝て過ごしました(⌒-⌒; )
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新約聖書:ルカによる福音書・第6章・第27〜第36節 [聖書]

「しかし、わたしは耳を傾けているあなた方に言う。敵を愛し、あなた方を憎む者に善を行いなさい。呪う言う者を祝福し、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者に、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪う者には、下着をも拒んではならない。求める者には、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪おうとする者から、取り戻そうとしてはならない。あなた方は、人からしてほしいとことを、人にもしなさい。あなた方を愛する人を愛したからといって、何の恵みがあろうか。罪人でさえ、自分を愛する人を愛している。あなた方によくしてくれる人に、善いことをしたからといって、何の恵みがあるだろうか。罪人でさえ、そうしている。返してくれるあてのある人に貸したからといって、何の恵みがあるだろうか。返してもらえるのなら、罪人でさえ罪人に貸している。しかし、あなた方はあなた方の敵を愛しなさい。人に善を行いなさい。また、何もあてにしないで貸しなさい。そうすれば、あなたがたの報いは大きく、あなた方は、いと高き方の子らとなる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い方だからである。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖書の部分は、イエス・キリストの聖句(言葉)です。この部分には、「憐れみ」という題がついています。ここを信徒ではない一般の方が読むと、いゃ、信徒が読んでも「聖書は難しいな~。」と感じますよね(; ̄O ̄)と同時に「なんと、理不尽な!」と思われるでしょうね。そこで、書いている内容を一つひとつ見てみましょう。
まず、最初に次の9つの聖句(言葉)です。
①敵を愛しなさい。
②あなた方を憎む者に善を行いなさい。
③呪う言う者を祝福しなさい。
④あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。
⑤あなたの頬を打つ者に、もう一方の頬を向けなさい。
⑥上着を奪う者には、下着をも拒んではならない。
⑦求める者には、誰にでも与えなさい。
⑧あなたの持ち物を奪おうとする者から、取り戻そうとしてはならない。
⑨あなた方は、人からしてほしいとことを、人にもしなさい。
以上の9項目です。一般の方からすれば非常に “ 理不尽 ” な内容かと思います。それでも⑦と⑨の2項目は理解できると思います。しかし、普通ならば⑤、⑥及び⑧は絶対に拒絶しますよね。信徒ではない方からすると①~④も疑問を呈したくなるのではないかと思います。ただ、イエス・キリストの聖句のこの部分は、12使徒(12人の弟子)を対象に=信徒である私たちに説いているので、一般の人達に説く場合と違って厳しい内容になっています。

では、なぜイエス・キリストはこのようなことをおっしゃられているのでしょうか?それは、まず「敵を愛しなさい。」の「愛」とはなにか?を説明します。キリスト教(=イエス・キリスト)の愛は、アガペー(=真実の愛)であって、情熱的な恋愛の愛(エロース)や家族的な暖かい愛(フィーリア)ではないのです。アガペーとは、「他人の真の幸福(福利)に対する親切でゆるがない積極的な愛」なのです。アガペーは憎しみ、妬み、呪いや侮辱などに妨げられず、報いや結果などに制限されず、ただただ神様の本質を表しているものです。ですから、敵を愛せよという姿勢は、敵を感情的に好きになれということではなく、自分のためだけでなく、他人のために生きるという愛の姿勢なのですね。これを社会で行為として実践しなさいと説いているのです。

前述した理不尽なことの①と②は、お互いにやり返したり、仕返しを行なったり、自分を苦しめた相手のやり方を自分自身で行なってはならないという戒めの原理=信条を示しています。この原理=信条の後、③以下に具体的な例が教えとして列挙されています。この教えは、同様なやり方で報復や反撃をすることではなく、イエス・キリストの教えの原理ある「愛と赦し」、寛大さにしたがって行動しなさいということなのです。それが神の国の原理だからです。その神とは、仕返しをする方ではなく、恩知らずで利己的な人に対してでさえ、愛のある親切な方なのです。

最後に⑨の「あなた方は、人からしてほしいとことを、人にもしなさい。」を説明します。このブログに以前掲載しましたが、この言葉は、聖書の中でも “ 黄金律 ” と言われるほど重要な聖句(イエス・キリストの言葉)です。黄金律(Golden Rule)とは、「宗教、道徳や哲学で見出される「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という内容の倫理学的言明」のことです。
旧約聖書の『トビト記』の第4章・第15節に、「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない。」とあり、孔子(弟子及び孫弟子が書いた)は『論語』の中で、「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ。」と説いておられますし、ユダヤ教では「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」とあり、ヒンドゥー教では「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない。」とあり、イスラーム(イスラム教)では「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」と、すべて逆説的に書かれています。

私たちは、よく人にしてもらいたいと思うことはたくさんあるようですが、人にしてあげるとなると、あまり気が付くことも少ないものです。その人がしてもらいたいことをしてあげれるように、普段から心がけることが大切ですね。また、その逆説的には、「自分が嫌だと思うことは、人にはするな。」となります。私の自戒すべき言葉です。
クリスチャン作家の三浦綾子さんのエッセイ『あさっての風』に、「「理解してほしい、慰めてほしい」という、人から受ける姿勢から、「理解してあげたい、慰めてあげたい」という、与える姿勢に変わる時、悩みのほとんどは解決していることを、わたしはその時から今まで、何十回となく経験させられてきたのである」と書かれています。
三浦さんは、まさに「人にしてもらいたい。」が、「人にしてあげたい。」という “ 与える姿勢 ” に変わった時、今まで悩んでいたことが解決されたと、そのことを経験をとおして自覚されたということです。素晴らしいことですね。
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教会日記2024.3.19(カトリック成城・聖タデオ教会「聖ヨセフの祭日のミサ」火曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会で7時からの「聖ヨセフの祭日のミサ」に与りました。
カウントダウン:定年退職(3月31日)まで、あと11日です!
今は、寒くなったり暑くなったりして体調管理が難しい季節ですね。一昨日から咳が出るようになり、昨日は病院に行き、咳止めの薬を処方してもらいました。少しはよくなったかな~?( ̄▽ ̄;)

ミサでは、「聖ヨセフの祭日」をお祝いしてお祈りしました。
そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私たちの父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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