「恩寵(おんちょう)」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

恩寵については、このブログに何度か書きましたが、再び掲載いたします。
一般的にいうところの【恩寵(おんちょう)】とは、辞書には「神や君主の愛やめぐみ」とあります。キリスト教における恩寵(ラテン語: Gratia)とは、「神の人間に対する働きかけ」であり「神の人類に対する慈愛」を意味しています。恩恵、聖寵、神の恵み、恵みともいいます。

カトリック教会の教父(きょうふ)・教会博士の称号を持つ聖アウグスティヌスは、恩寵(神の恵み、恩恵)を強調したことから<恩恵の博士>と呼ばれています。「私たちは、どのようにして神を把握することが出来るだろうか。」という問題に、聖アウグスティヌスは、「神はその超越的な本性上、我々の地上的で不完全な思惟によっては把握され得ない。私たちは神の啓示によって、愛と信仰を通じて把握することができるのみであって、神についての知識は私たちには用意されていない。」と述べています。

では、その神が全てを創造されたとするならば、人間の罪深さや悪が存在するのはなぜなのか?聖アウグスティヌスは、自身を含めて人間の罪深さをよく感じており、自由に考え、選択する能力を原初の人間・アダムにのみ認めました。アダムは神より「罪を犯さないことができる」という自由を与えられていましたが、神の信頼に背いて原罪を犯し(神様から食べてはいけないと言われた木の実を食べたこと)、これによって人間は自由を失い、「罪を犯さざるをえない」という悪状態に陥ったと解釈しています。

このような私たち罪深い人間は、ただ神の恩寵によってのみ救われることができる存在であるということです。その恩寵は神が与える無償の愛ですが、誰が神の恩寵を受けて救われるかは神のご意志によってあらかじめ定められているという「予定説」を表明しています。また、神の恩寵は教会を通じてのみ預かることができるとし、このことによって教会に対する信仰の基盤が確立されたということです。しかし、現在のカトリック教会は、この聖アウグスティヌスの見解を「予定説」としては捉えていないそうです。

私は、神の恩寵というものは、まず「信仰をとおして神から得られるもの」であって、それは「信仰するすべての人間に与えられているもの」であると考えます。それを、人間が自ら<恩寵の外へ逸脱>すること、つまり神の慈しみや恵みというものから、自らが遠ざかることがあるということです。その多くは<誘惑>によって心にサタンが入り込み、恩寵の圏外に出てしまう = 悪を行って罪を犯してしまうのですね。神の恩寵は、恩寵の圏内にいる者 = 信仰と善き行いに励む者に恵まれるものと解釈しています。

さて、『アヴェ・マリアの祈り』では、その祈祷文(ラテン語)の冒頭部分に"Ave Maria,gratia plena" と「恩寵」を意味する"gratia" が入っており、以前にカトリック教会で唱えられていた文語訳の「天使祝詞」では、「聖寵(せいちょう)」と訳されていました。現在の口語訳では「恵み」と訳されています。
◯『アヴェ・マリアの祈り』
「アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン」

【教父】
教父とは、カトリック教会におけるキリスト教用語で、古代から中世初期、2世紀から8世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、特に正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人のことです。
【教会博士】
教会博士とは、カトリック教会におけるキリスト教用語で、聖人の中でも特に学識にすぐれ、信仰理解において偉大な業績を残した人に送られる称号のことです。
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