「聖木曜日・主の過越しの晩餐の夕べのミサ」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日3月28日(木)は、「主の過越しの聖なる3日間」の初日「聖木曜日」です。私が所属するカトリック成城・聖タデオ教会では、19時から「主の過越しの晩餐(ばんさん)の夕べのミサ」が行われます。

キリスト教カトリック教会では、イエス・キリストの生涯における主なできごとを思い起こす(記念する)ことによって、イエス・キリストの " 救いの恵み " が私達に与えられるよう、全員が一致してお祈りします。イエス・キリストの「救いのみわざ」は、十字架への受難と死をとおして、復活された栄光の「主の過越し(死から生へ過越す)」にあります。このことから、これを「復活祭」として年に一度盛大に祝うようになりました。「降誕祭(クリスマス)」と共にキリスト教の最大にして最高の祭典となります。聖なる3日間は、今日3月28日の第1日目を「聖木曜日・主の過越しの晩餐の夕べのミサ」、明日3月29日の第2日目を「聖金曜日・主の受難」、明後日3月30日の第3日目を「聖土曜日:復活の主日・聖なる復活の徹夜祭」としています。そして3月31日の日曜日が「復活の主日・日中のミサ」となります。

<主の過越し>の由来
古代エジプトでアビブ(ニサン)の月に起こったとされる出来事が起源です。エジプトの地で奴隷になっていたイスラエルの民が、モーゼの先導でパレスチナの地に脱出した故事を記念するものです。ユダヤ人(イスラエルの民)にとっては重要な祭日となります。
イスラエル人は、エジプトに避難したヨセフの時代以降の長い期間の間に、奴隷として虐げられるようになっていました。神は、当時80歳になっていたモーセを民の指導者に任命して約束の地へと向かわせようとしますが、エジプトの王であるファラオがこれを妨害しようとします。そこで神は、エジプトに対して十の災いを臨ませ、その十番目の災いは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子(長子)を撃つ」というものでした。神は、戸口に印(家の玄関の鴨居と柱に子羊の血を塗る)のない家にその災いを臨ませることをモーセに伝える。つまり、この名称は、戸口に印のあった家にはその災厄が臨まなかった(過ぎ越された)ことに由来しています。旧約聖書の「出エジプト記」に記載されているとおりです。

◯旧約聖書:出エジプト記・第12章・第1~第8節、第11~第14節
「主はエジプトの地で、モーセとアロンに言われた。「この月はあなたがたの第一の月であり、一年の最初の月である。イスラエルの全会衆に告げなさい。『この月の十日に、祖父の家ごとに、すなわち家族ごとにそれぞれ自分たちのために小羊を一匹用意しなさい。もし、家族が小さくて小羊一匹に見合わないなら、隣の家族と共に、人数に合わせて、それぞれ食べる量に見合う小羊を選びなさい。あなたがたの小羊は欠陥のない一歳の雄の子羊でなければならず、羊か山羊の中から一匹を選ばなければならない。あなたはそれを、この月の十四日まで取り分けておき、夕暮れにイスラエルの会衆は皆集まってそれを屠る。そして、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。その夜のうちに肉を火で焼き、種なしパンに苦菜を添えて食べる。
それを食べるときは、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持って、急いで食べなさい。これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの地を行き巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたがたがいる家の血は、あなたがたのしるしとなる。私はその血を見て、あなたがたのいる所を過ぎ越す。こうして、エジプトの地を打つとき、滅ぼす者の災いはあなたがたには及ばない。この日は、あなたがたの記念となる。あなたがたはこれを主の祭りとして祝い、とこしえの掟として代々にわたって祝いなさい。』」
『聖書協会共同訳聖書』から
◯次の絵は、有名なレオナルド・ダビンチの『最後の晩餐』です。イエス・キリストが、「この中に私を裏切ろうとしている者がいる。」と話された直後、12人の使徒(弟子)達が驚いている場面を画いています。絵が小さいので、クリックして大きくして見てください。
左側から顔(頭)順に、バルトロマイ、小ヤコブ、アンデレ、ユダ、ペトロ、ヨハネ、イエス・キリスト、トマス、大ヤコブ、フィリポ、マタイ、タデオ(タダイ)、シモン、です。このユダ(イスカリオテのユダ)がイエス・キリストを裏切ったのです。
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◇聖木曜日「主の過ぎ超し晩餐の夕べのミサ」
最後の晩餐を記念するものとして、教会の全員が一つのミサに預かり、一致の秘跡であるミサの制定(最後の晩餐で、イエス・キリストが使徒達に聖餐(ミサ〉の仕方を教えられました。)が記念されます。
また、晩餐の前にイエス・キリストが使徒達の足を洗ったことから、「洗足式(せんぞくしき)」も行われます。通常はミサの中で、実際に司祭(神父様)が、何人かの信徒の足を洗います。2020年からの3年間はコロナ渦でしたので、洗足式を中止した教会は多かったのではないでしょうか。今年は、どの教会も行いますね。
イエス・キリストは、十字架に架かる前夜に行われた「最後の晩餐」にのぞむ前に、12人の使徒(弟子)一人ひとりの足を洗いました。それは、死を覚悟したイエス・キリスト自らが、弟子達の足を洗うという奉仕を行うことで、弟子達にこれからも人に使える僕(しもべ)のようになるように、お互いの足を洗い合うようにお互いに愛し合うように(平和に暮らすように)、ということを含めて清めを行ったのですね。

<新約聖書の福音書にある「最後の晩餐」の記載>
◯新約聖書:マタイによる福音書・第26章・第20~第29節
「さて、夕方になると、イエスは十二人の弟子とともに食卓に着かれた。一同が食事をしていると、イエスは仰せになった。「あなた方によく言っておく。あなた方の一人が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは深く心を痛め、「主よ、まさかわたしではないでしょう」と口々に言い始めた。イエスは答えて仰せになった。「わたしと一緒に鉢に手を浸した者がわたしを裏切る。まことに、人の子は、自分について書き記されているとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、不幸である。その人はむしろ生まれなかったほうがよかったであろう」。すると、裏切り者のユダが口を挟んで、「先生、まさかわたしではないでしょう」と言うと、イエスは仰せになった。「いや、そうだ」。さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美をささげて、それを裂き、弟子たちに与えて仰せになった。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また杯を取り、感謝をささげ、彼らに与えて仰せになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、罪の赦しのために、多くの人のために流される、わたしの血である。あなた方に言っておく。わたしの父の国で、あなた方とともに新たに飲むその日まで、今から後、ぶどうの実から造ったものを、決して飲まないであろう。」 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけていった。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯新約聖書:マルコによる福音書・第14章・第17~第25節
「さて、夕方になると、イエスは十二人とともに来られた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは仰せになった、「あなた方によく言っておく。あなたがたのうちの一人で、わたしとともに食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは深く心を痛め、「まさかわたしではないでしょう」と口々に言い出した。そこで、イエスは仰せになった。「十二人の一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者が、それである。人の子は、まことに書き記されているとおりに、人の子は去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は不幸である。むしろその人は、生まれなかったほうがよかったであろう。」
さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美をささげ、これを裂き、弟子たちに与えて仰せになった、「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝をささげて、彼らにお与えになった。彼らはみな、その杯から飲んだ。すると、イエスは仰せになった、「これはわたしの血、多くの人のために流される契約の血である。あなた方によく言っておく。神の国で新しいぶどう酒を飲むその日まで、私は二度とぶどうの実からできたものを飲むことはない。」そして、一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

◯新約聖書:ルカによる福音書・第22章・第14~第23節
「さて、時刻になると、イエスは席に着かれ、使徒たちとともに席に着いた。イエスは仰せになった。「わたしは苦しみを受ける前に、あなた方とともに、この過越の食事をすることを切に望んでいた。あなたがたに言っておくが、神の国で過越が成就するまでは、もう二度と過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り、感謝をささげて仰せになった。「これを取って、あなた方の間で回して飲みなさい。あなた方に言っておく。今から後、神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、決して飲まない。」
それから、イエスはパンを取り、感謝をささげて、それを裂き、使徒たちに与えて仰せになった。「これは、あなた方のために与えられる、わたしの体である。わたしの記念として行いなさい。」食事を終えると、杯も同じようにして仰せになった。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約である」。「しかし、見なさい。わたしを裏切る者が、わたしとともに食卓に手を置いている。人の子は定められたとおり去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は不幸である。」すると、彼らは、いったい自分たちの中の誰が、そんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めた。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

<新約聖書の福音書にある「洗足」の記載>
◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第13章・第4~第15節
「イエスは食事の席を立って、上衣を脱ぎ、手ぬぐいを取って身に着けられた。それから、たらいに水をくんで、弟子たちの足を洗っては、身に着けていた布で拭き始められた。(中略)さて、イエスは弟子たちの足を洗い終わり、上衣を着て再び食事の席に着くと、仰せになった。「わたしがあなた方に対して行ったことが分かるか。あなた方は、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。そのとおりだからである。それで、主であり、先生であるこのわたしが、あなた方の足を洗ったからあには、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなた方に対して行ったとおりに、あなた方も行うようにと、模範を示したのである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

<マメ知識>
洗足学園音楽大学(前身は「平塚裁縫女学校」)の創立者である前田若尾女史は、この新約聖書のヨハネによる福音書の聖句から、学校名を「洗足」と名付けられたそうです。同校の校歌に「たがいに足を洗えとのりし、み教え守るここの学びや」とあります。洗足学園音楽大学は、キリスト教系の学校(ミッション・スクール)ではありませんが、創立者の前田若尾女史がキリスト教プロテスタント教会の敬虔なクリスチャンであったことから聖書の聖句を採用されたのですね。ちなみに、ドラマ・映画『のだめカンタービレ』の撮影場所になった大学です!
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