ロザリオの奇跡! [キリスト教関係事項・用語等]


今月5月は「聖母月」です。
『ロザリオの祈り』をお祈りしましょう!
3年前、帰宅する電車の中で携帯(インターネット)で「ロザリオ」を検索していたら、「Ako's Family Ministries 活動報告」というブログがあり、その中に「ロザリオの奇跡〜広島の原爆とある神父のお話」という記事がありましたのでご紹介いたします。アドレスは次のとおりですので、クリックしてお読みください。
http://akos-family.net/blog/archives/3110

内容は次のとおりです。
「広島に原爆が投下された日、原爆が投下された場所から8ブロック(約1キロ)ほど離れたところに教会がありました。その教会はもちろん被害はありましたが、木造の教会のほとんどは倒れることなく形をそのまま残し、教会内にいた8人のドイツ人でイエズス会の宣教師(神父)たちは多少の傷はあったものの、ほとんど影響がなく守られた、という話です。
…………彼らは日本人に宣教するために来た人々で、軍人ではない。ドイツと日本は第2次世界大戦の間は同盟軍であったため、日本に滞在して宣教することを許された人たちであった。彼らは生き残っただけではない、ほとんどが比較的軽傷で、その後も放射能による影響もないまま、聴覚も影響なし、その他目に見える影響や深刻な後遺症もなく、生き続けることができた。
…………当然、彼らは科学者から、または保健の立場にいる人々から、その驚くべき体験について多くのインタビューを受けることとなる。(その神父の一人、Schiffer神父は200回以上にもなったと言っている)彼らは言う「私達が生き残ったのは、ファティマのメッセージを信じて、そのように生きてきたからだと信じています。家(=教会)では毎日ロザリオを祈る生活を送りました。」」という内容です。

なんらかの物理的な要因がなく、科学的に解明できないことを私たちはどのように受け止めるのか?どのように解釈するのか?解明できない解釈できないことは奇跡とするのか?いずれにしても事実は事実であり、現実は現実なのです。どのように判断するかは、その事実を知った個々の人の判断になると思います。
神父様たちが、原爆の被害が最小限で済んだ要因は、「毎日ロザリオを祈る生活をおくりました。」という言葉にあると思います。ファティマのメッセージにある「ロザリオを、毎日祈りなさい!」というメッセージを信じて実行したからですね。
「ファティマのメッセージ(ファティマの聖母)」のことは、次の「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」にある記事をお読みください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%9E%E3%81
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新約聖書:ルカによる福音書・第17章・第20~第21節 [聖書]

「さて、ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは応えて仰せになった。「神の国は目に見える形で来るのではない。また、『見なさい、ここに』とか、『あそこに』とか言えるものでもない。神の国は、実にあなた方の間にあるのだから。」
『原文校訂によるフランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この『ルカによる福音書』にある聖句は、『原文校訂によるフランシスコ会聖書研究所訳註聖書』から用いました。その聖書の註釈には、次のとおり記載されています。
「「神の国は、実にあなた方の間にある」について、教父(きょうふ)たちの多くは、「あなたがたの心の中にある」と解釈しているが、神の国はイエスと弟子たちの働きによって、すでに「あなたがたの間」に現実に存在すると解釈するほうが適している(ルカによる福音書・第11章・第20節参照)」

さて、今日はこの聖句(イエス・キリストの言葉)にある、「神の国」の解釈について述べたいと思います。まず、「神の国」とは、いったいどのようなものなのか?ということですが、根本的に言えることは「神様が支配している国であって、この世の特定の場所に物理的にあるわけではない」ということです。ですから、私は、「神の国とは、本質的に“神の支配”を表しているもので、現在も未来も支配する神様の働きを示す霊的なものである。」と解釈しています。ですから、結論としては、「神の国とは、主イエス・キリストの望みである愛と赦しのある平和な国や社会(世界)の実現したものであり、私たちの一人ひとりが主イエス・キリストの教えを果たしていく(いる)国や社会(世界)のこと。」となります。ですから、すでに「神の国」は、私たちのいる現世に準備されているのです、それを見える形に実現化=「神の国」にするのが、私たち人間の愛と赦しのある行いなのです。

新約聖書の4つの福音書を読めばわかることですが、当時のユダヤ人たちは、モーセをとおして与えられた律法を守ることを大切にしていました。しかし、イエス・キリストが宣教を始めた時代は、律法学者やファリサイ派といった律法の専門家たちのように、律法を守ることで神のみ心やみ旨を果たしていると勘違いし、規則に縛られ、規定を守ることに固執して形骸化した律法に汲々そして、神のみ心からしだいに離れていった人たちが民衆を指導・支配する社会だったのです。イエス・キリストは、このような社会を救うために、神の愛のみ心を人びとに伝えるため、この世に遣わされたのです。新約聖書のマルコによる福音書・第1章・第15節で、イエス・キリストが洗礼を受けた後、最初の宣教において民衆に語りかけたことは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」というメッセージでした。「神の国」は、イエス・キリストの宣教生活の主題だったのですね。

【教父】
キリスト教用語で、古代から中世初期、2世紀から8世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、特に正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人々をいいます。例えば、ギリシア教父では、アンティオキアのイグナティオス(35年?~107年?)、ユスティノス(100年?~165年)、リヨンのエイレナイオス(130年?~202年)、アレクサンドリアのクレメンス(150年?~216年?)、オリゲネス(182年?~251年)、アレクサンドリアのアタナシオス(298年~373年)など。ラテン教父では、アンブロシウス(340年?~397年)、ヒエロニムス(347年?~420年)、アウグスティヌ(354年~430年)、グレゴリウス1世(ローマ教皇・540年?~604年)など。
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