今日の日記2023.5.8(イワシ3尾定食!) [日記]

仕事帰りに小田急線町田駅の改札を出たところで、卒業生とバッタリ出会い夕食を共にしました。彼は糖尿病を患っていてお酒が呑めないため、居酒屋や焼鳥屋ではなく焼魚定食専門店に入りました。彼は「サバの文化干定食」で、私は「イワシ3尾定食」でした。美味かったな〜!(^◇^)
ちなみに、下世話な話しで申し訳ございませんが、生卵や小鉢をいろいろ付けて792円でした!安いと思います。ご飯は糖質が多いため半分にしてもらいました。汁椀がやたらデカい!
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新約聖書:マタイによる福音書・第7章・第13~第14節 [聖書]

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い、そして、そこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。」
『聖書協会共同訳聖書』から

この言葉は、イエス・キリストの聖句(聖句=イエス・キリストの言葉)です。このブログに一年ぶりの登場となりました。イエス・キリストは、「狭い門から入りなさい」と説いておられます。広い門と狭い門のどちらかを選ばなければならない時、その場合は狭い方を選びなさいということですね。この門をくぐるのは「人生の選択」です。生きていく上で誰でもが通りたがる「広い門=楽な門」を選ぶのではなく、選ぶ人が少ない「狭い門=厳しい門」に入りなさいという意味であると私は解釈しています。ではなぜか?

私たちは、楽な方向へ楽な方向へと進む道を選びがちですね。嫌なこと、辛いこと、難しいことをできるだけ回避・逃避しながら要領よく生きていきたい。これが一般的な人間の感覚だと思います。イエス・キリストの教え(キリスト教の教義)では、人への中傷誹謗、悪意、妬み、恨み、憤り、淫らな行為など、これらはすべて罪になるのですが、楽な道に進むとこれらのことを平気で行って罪を犯してしまいます。このように罪を犯した人たちが悔い改めることもなく死んでしまうと、死後は復活せずに滅んでしまうのです。

ですから、聖書のイエス・キリストの教えである「人を赦すこと。」、「自分を愛する(大切にする)ように隣人を愛すること。」、「自分が人にしてもらいたいと思うことは、何でも人にすること。」などを実践するため、自らを律して厳しい道を進むことを説いておられるのです。そこには身分の違いや貧富の違いなどはないのです。どんなに偉いといわれる人であっても、みんなと同じように身をかがめて狭い門=厳しい門(道)から入ること。そのような人たちは、死後に復活して天の国で永遠の命を与えられるのです。

この教えを非常によく現したものの一つに、日本の茶道の茶室の“造り”があります。茶道を創始した千利休(せんのりきゅう)は、キリスト教の影響を強く受けています。また、利休の高弟と言われる7人のうち、5人はキリスト教の洗礼を受けていますし、利休が最も頼りにした高山右近は、敬虔なクリスチャンでキリシタン大名の第一に挙げられる人物として有名ですね。最後まで信仰を守り抜いた戦国武将でした。

利休が生きた安土・桃山時代の豊臣秀吉もその後の徳川家康も、キリスト教を厳しく弾圧しましたので、現代の茶道にキリスト教の思想を見出すことは難しいのですが、それでも茶道には聖書の教えが明瞭に込められていると言えます。裏千家15代家元・千 玄室氏は明確にこれを認めておられます。茶道のお手前はキリスト教の聖餐式(ミサ)からとられているほどです。茶道でのお茶とお菓子は、明らかにミサである“パンと葡萄酒”です。茶道では、濃茶の作法で男子同士の場合、お茶を頂いた後、茶碗と出し袱紗を右手に乗せたまま左手で懐紙を取り、飲み口を拭いて次客に手渡しますが、これは最後の晩餐において、使徒たちがブドウ酒が入った杯を順次手渡していく所作が聖書に書かれています。この濃茶の飲み回しのことを「吸い茶」と言いますが、この「吸い茶」は利休が始めたとされています。

ところで、その茶室の造りですが、通常、茶室には庭園が設けられます。この庭園を考案したのは、キリシタン大名の古田織部という人ですが、心身の塵を払うために蹲(「つくばい」:手を洗うもの)が置かれ、最後の晩餐の時にイエス・キリストが弟子たちの足を洗った「洗足」や「洗礼」を象徴すると言われています。その傍らに灯篭(とうろう)が置かれ、火が灯されます。これは教会のミサでのローソクそのものです。
そして、独りしか歩くことができない「飛び石」が打たれます。それは、「狭き門」に至る狭い道と言われています。そして、茶室の入口(「にじり口」と言います)ですが、これは千利休が考案したものです。本当に小さくて、身体一つしか通れないように狭く、身を低くして入るようになっています。これは「世にあって身につけたものをすべて捨てて、謙虚になって茶室に入ること。そこには身分の違いも何もない。」ということを具現化したものです。聖書にある「狭き門」を現しているのですね。
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