教会日記その三2023.2.25(カトリック麹町・聖イグナチオ教会「四旬節第一主日とのミサ」土曜日) [教会日記]

今日は、日中に所用があって仕事はお休みをいただき、所用を済ませて17時30分からカトリック麹町・聖イグナチオ教会で「赦しの秘蹟」を授けていただきました。終わって18時から「四旬節第一主日のミサ」に与りました。「赦しの秘蹟」で告解し、随分と気持ちが楽になりました。しかし、これからは罪を犯さないよう努力しないとダメですよね(⌒-⌒; )

ミサでは、まず、主を讃えるお祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈りました。
そして、主に感謝です。
「今日も新しい一日を迎えさせていただき、ご聖体を拝領させていただいたことを感謝申し上げます。」

次に、主により頼むお祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈りました。

次に、派遣のお祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈りました。

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
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教会日記その二2023.2.25(カトリック麹町・聖イグナチオ教会「赦しの秘蹟」土曜日) [教会日記]

今日は、日中に所用があったため仕事はお休みをいただきました。所用が終わって夕方にカトリック麹町・聖イグナチオ教会を訪れ、17時30分から「赦しの秘蹟」を授かりました。まだコロナ渦にありますから、聖堂内の告解室ではなく、隣接するイエズス会の建物の3階にある部屋が告解室でした。
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昨年の3月27日(日)に「赦しの秘蹟」を受けて告解し、それ以来の告解となりました。本当なら 12月の待降節の期間中に「赦しの秘蹟」を授かることにしていたのですが、私の怠慢で受けそびれてしまいました。ですから、今回はこの一年に犯した罪を認めて聴罪司祭に告解し、神様に赦しを乞い、お赦しをいただきました。大切なのはこれからですね。もう罪を犯すことのないよう努力しなけれはなりません。

ところで、今回の告解は、前回(昨年の待降節の時)の告解以後に犯した罪のことになります………なんの罪かって?それは秘密ですよね!( ̄◇ ̄;) まぁ、刑事訴訟や民事訴訟なるような、大それたことではありませんので(⌒-⌒; ) ただし、カトリック教会では、次の七つの行為は大罪とされています!
【七つの大罪】
一、傲慢:ごうまん(高慢:こうまん)
二、貪欲:どんよく(強欲:ごうよく)
三、嫉妬:しっと(羨望:せんぼう)
四、憤怒:ふんど(激高:げきこう)
五、貪食:どんしょく(暴食:ぼうしょく)
六、肉欲:にくよく(色欲:しきよく)
七、怠惰:たいだ(堕落:だらく)

カトリック教会では、イエス・キリストがお生まれになる降誕祭(こうたんさい=クリスマス)前の準備期間である待降節(たいこうせつ)と、イエス・キリストが復活される復活祭(ふっかつさい=イースター)前の準備期間である四旬節(しじゅんせつ)に、赦しの秘蹟を受けることが特に勧められています。なお、赦しの秘蹟は、罪を犯した時はいつでも何度でも受けることができます。ちなみに、四ツ谷にあるカトリック麹町・聖イグナチオ教会では、年間を通してほぼ毎日告解の時間帯が設けられており、赦しの秘蹟を受けることができます。現在はコロナ渦ですので、日時制限されている場合がありますので、聖イグナチオ教会のホームページをご確認ください。
https://www.ignatius.gr.jp/index_j.html

赦しの秘跡とは、罪を犯した信徒が、聴罪司祭に告解して罪を赦してもらうというものです。もちろん罪を赦すのは、神様であって司祭ではありません。赦しの秘跡として、罪の赦しのための行為ができるのは、イエス・キリストの12人の使徒の後継者である司教と、司教の協力者である司祭だけです。司教・司祭(聴罪司祭)は罪の告白を聴き、「父と子と聖霊のみ名によって」罪を赦す権能を行使します。要するに神様に代わって罪を赦す宣言をするということですね。また、聴罪司祭には守秘義務があり、告白によって知り得た罪について、完全な秘密を守るように義務(秘守義務)づけられていて、これに背けば厳罰を科せられることになります。ですから、告解した内容は厳守されます。なお、赦しの秘跡を受けることができるのは、洗礼を受けたカトリック教会の信徒に限られています。

新約聖書には、赦しの秘跡のことが書いてあります。
◯新約聖書:ヨハネの手紙 一・第1章・第9節
「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」
『聖書協会共同訳 聖書』から

赦しの秘跡での告解を「懺悔(ざんげ)」と間違う人がいますが、懺悔はカトリック教会では使われず、カトリック教会での宗教的意味は全くありません。そして、お祈りの中で罪を認めるときは「罪の告白」といいます。カトリック教会の告解はとても大切な秘跡で、告解 = 懺悔ではないと考えられています。わかりやすく言えば懺悔は「ごめんなさい」と謝ることで、告解は「振り返り、あやまり・罪を認め神様に赦していただくこと。」です。赦しの秘跡で告解をし、そして、最後のところで「あなたの罪は赦されました。」と神様に代わって聴罪司祭が宣言します。これは罪が赦されたことを意味しています。

【聴罪司祭(神父)】
赦しの秘跡において、信徒の罪の告白を聴き、赦免(赦し)を与える司祭のこと。もちろん、赦しの秘跡の指導を受けて秘跡を修得し、聴罪司祭としての訓練をされていますから、信頼して告解できます。(告解とは、聴罪司祭に罪を告白すること。)
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今日の日記2023.2.25(焼魚定食!) [日記]

焼魚定食ですが、豪華な三種(鯵、とろ鯖、鮪のカマ、)の焼魚です!注文してから炭で網焼きをしていますから、めちゃくちゃ美味い!やはり炭火焼は最高です!
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教会日記2023.2.25(カトリック相模原教会「灰の式後の土曜日のミサ」土曜日) [教会日記]

今日は、日中に所用があり仕事はお休みをいただいております………ということで、今朝はカトリック相模原教会での早朝7時からの「灰の式後の土曜日のミサ」に与りました。昨夜は、四旬節に入ったにもかかわらず、ジンギスカン専門店でラム肉をたらふく食べてしまいました( ̄◇ ̄;) しかも金曜日は「小斎」であり、肉食を控える日なのです!(⌒-⌒; ) キリスト者(クリスチャン)にあるまじき行為をなしてしまったのでした。ミサで神様に赦しを乞いました。
今夜は、カトリック麹町・聖イグナチオ教会で「赦しの秘蹟」を受け、告解(こっかい)して罪の赦しを願います。今朝も清々しい朝を迎えています。

ミサでは、まず、主を讃えるお祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈りました。
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、ご聖体を拝領させていただいたことを感謝申し上げます。」

次に、主により頼むお祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈りました。

次に、派遣のお祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈りました。

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
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三浦綾子のことば(第7日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「がんにかなると死にたくなる。
失恋すると死にたくなる。
夫に女ができると死にたくなる。
愛する者に死なれると死にたくなる。
借金で首がまわらなくなると死にたくなる。
受験に失敗すると死にたくなる。
死にたい理由はいろいろある。
しかし、それは人間の側の理由であって神から見ると、決して死ぬ理由とはならない。」
『北国日記』から

三浦綾子さんのことは、「三浦綾子のことば(第1日目)2023.2.4」をご覧下さい。
まぁ、人生というものを歩んで行くと、誰でもいろいろなことがあるわけです。失敗、事故、いじめ、挫折、障害、困難さなど、このようなことに出会うと、私達人間はすぐに「死にたい」と思う時があります。しかし、それは大なり小なり誰にでも訪れることです。でも、そのたびに「死にたい」では、この世を生きていくことができませんね。

当たり前のことですが、すべての人間に生きる権利があります。しかし、自ら死ぬ権利は誰にもありません。実はないのです。あると思っていた人は多いのではないでしょうか?皆さん勘違いしているのですね。この世にいったん生を授かった人間には、自ら死ぬ権利などないのです。キリスト教では、自殺は自分を殺すという殺人罪なのですから。

生死の与奪(よだつ:与え奪う)の権利は神様だけにあるのです。それを人間は間違ってしまうのですね。また、人間に自ら死ぬ「理由」などないのです。自殺に理由があると思っているでしょ。自殺する理由は絶対にありません。こんなことを書くと、「自殺者の気持ちなんかわからないんだ!」、「遺族の気持ちなんか、お前にわかるわけない!」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。それでも自ら死ぬことに権利も理由もないのです。あるのは「生きる責任」だけです。

どんなことがあっても死んではいけないのです。人間には生きる努力をしなけれはならない最大の使命があるのです。生きることを放棄してはならないのです。希望を信じることです。生きていれば必ずや希望が見えてくるのです。それを信じることです。幸せは、どんなに惨めな姿になっても生きる人間に与えられます。それを信じることです。
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