「トルコ・シリア大地震・緊急支援」のご案内 [支援活動日記]

私が、毎月定額を寄付している特定非営利活動法人国連UNHCR協会では、現在、インターネット上で「トルコ・シリア大地震・緊急支援」の募金(寄付)活動を行っていますのでご案内いたします。私はWeb上からクレジットカード払いで募金しました。募金金額は、募金手続きページにある「その他」を選択して、寄付金額を入力しました。(最低でも1,000円以上となっています)また、在イラク日本大使館、駐日イラク大使館、日本赤十字社なども募金活動をしていますので、各ホームページをご覧ください。
◯国連UNHCR協会の募金は、ホームページの次のページをご覧ください。
https://www.japanforunhcr.org/campaign/Turkiye-Syria-earthquake-emergency?utm_source=yahoo&utm_medium=cpc&utm_campaign=JA_JA_UNHCR_Generic_01SY47TURSYREarthquake&sc_camp=4CC755E63EE54715AEFF0442A7B13404
◯注意!募金(寄付)は、個人の責任において行ってください。なお、募金を装った詐欺行為が横行していますので注意してください。

【国連UNHCR協会について】
国連UNHCR協会は、国連の難民支援機関である U N H C Rユーエヌエイチシーアール (国連難民高等弁務官事務所)の活動を支える日本の公式支援窓口です。UNHCRの活動資金は、各国政府からの任意の拠出金ならびに民間からの寄付金に支えられていますが、もっと広く民間からも支えていこうという機運が世界的に高まり、日本では2000年10月に、民間の公式支援窓口として特定非営利活動法人 国連UNHCR協会が設立されました。
《私たちの使命(Our Mission)》
UNHCR公式支援団体として、日本社会と難民や最前線で援助活動に従事する人々をつなぎます。
難民および難民支援の国連および関係機関に向ける日本社会からの物心両面の貢献を、格段に高めます。
nice!(0)  コメント(0) 

教会日記2023.2.14(カトリック成城・聖タデオ教会「聖チリロ隠世修道者・聖メトジオ司教の記念日のミサ」火曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「聖チリロ隠世修道者・聖メトジオ司教」の記念日のミサに与りました。今日は「聖バレンチノ(バレンタイン)司祭殉教者」の日でもあるのですが、カトリック教会における祭日・祝日・記念日の扱いは、「第2バチカン公会議」にようる典礼改革で、史実の上で実在が明らかでない聖人たちがカトリック教会の典礼暦から整理された際に、2月14日の聖バレンチノの記念日は取り除かれました。ですから、今日は典礼歴にある聖チリロ隠世修道者・聖メトジオ司教の記念日をお祈りすることになっているのですね。
◯早朝6時30分です。随分と明るくなってきました。聖堂の横にある紅梅の木は、花が咲き始めました。
723F1330-322E-48BB-AC59-882524DFB43C.jpeg
ミサでは、「聖チリロ隠世修道者・聖メトジオ司教」の記念日をお祈りしました。
そして、まず、主を讃えるお祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈りました。
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、ご聖体を拝領させていただいたことを感謝申し上げます。」

次に、主により頼むお祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈りました。

次に、派遣のお祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈りました。

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
nice!(0)  コメント(0) 

「セント・バレンタインデー」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

先ほど、このブログに「聖バレンチノ(バレンタイン)司祭殉教者のお話し」を掲載したばかりですが、今度は、「セント・バレンタインデーの起源」について、一般的に伝えられているお話しを掲載いたします。
「ローマ帝国当時、ローマでは2月14日は女神・ユノの祝日でした。ユノはすべての神の女王であり、家庭と結婚の神でもあります。翌2月15日は、豊年を祈願する(清めの祭りでもある)ルペルカリア祭の始まる日でした。当時の若い男たちと娘たちは生活が別でした。祭りの前日、娘たちは紙に名前を書いた札を桶(壺)の中に入れることになっていました。翌日、男たちは桶から札を1枚引き、引いた男と札の名の娘は、祭りの間パートナーとして一緒にいることと定められていました。そして多くのパートナーたちはそのまま恋に落ち、そして結婚したそうです♡

ローマ帝国皇帝・クラウディウス2世は、愛する人を故郷に残した兵士がいると士気が下がるという理由で、ローマでの兵士の婚姻を禁止したといわれています。キリスト教司祭だったバレンチノ(バレンタイン)は秘密に兵士を結婚させていましたが、捕らえられ処刑されたということです。処刑の日は、ユノの祭日であり、ルペルカリア祭の前日である2月14日があえて選ばれました。バレンチノは、ルペルカリア祭に捧げる生贄とされたということです。このためキリスト教徒にとっても、この日は祭日となり、恋人たちの日となった。」という説が一般的です。

この伝説?には、史実の信憑性に問題があり、他に異論も異説もあるそうです。現在では伝説話しとして認識されています。カトリック教会における祝日の扱いは、「第2バチカン公会議」後の典礼改革で、史実の上で実在が明らかでない聖人たちがカトリック教会の典礼暦から整理された際に、2月14日の聖バレンチノの記念日は取り除かれました。要するに伝説の域を出ないということですね( ̄▽ ̄;)

日本では、1936年と1952年に神戸のモロゾフ菓子店がチョコを贈る習慣を宣伝し(流行らなかったそうですが)、1958年に東京のメリーチェコレートカンパニーが宣伝し(これも初めは流行らなかったようですが)、次第に盛んになって現在に至っているとのことです。日本の場合は、クリスマス(イエス・キリストの降誕祭)と同様にキリスト教に関係なく、完全に商業主義になっていますね…………でもチョコレートは欲しいです!
nice!(0)  コメント(0) 

「聖バレンチノ(バレンタイン)司祭殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日2月14日は、「聖バレンチノ(バレンタイン)司祭殉教者」の日です。
ローマ皇帝クラディウスのキリスト教迫害下にあって、バレンチノはローマの司祭として熱心に宣教し、苦しむ人、貧しい人、病める人を助け導いていました。バレンチノの宣教をやめさせるように命令を受けたローマ判事アステリアは、目の不自由な娘がバレンチノの祈りによって治ったことから、家族全員で洗礼を受けキリスト教徒となりました。そのため皇帝は、バレンチノをはじめアステリアらを処刑しました。

バレンチノは、子どもをはじめ家畜などの病気を治しましたので、子どもや家畜の守護の聖人として人びとから親しまれていました。「ローマ殉教録」によると、この日に同名の司教が殉教しており、それらの伝説や奇跡などが重なったと考えられます中世になると、バレンチノの記念日に異性に愛の告白のカードを渡す慣習が広まり、恋に悩む人たちがバレンチノに取り次ぎを願いました。古代ローマで豊作を祈願するルペルカリア祭(2月中旬)に、女性が愛の手紙を書いて壺に入れ、手紙を受け取った男性がその女性をデートに誘うという習慣があり、それに結び付けられたといわれています。

『カトリック中央協議会』公式ホームページから
質問:「バレンタインデーって、教会と関係あるのでしょうか?」
回答:「あります。しかし残念ながら、贈り物をする習慣は教会とは関係ありません。」
バレンタインデーとはもともと、聖バレンチノの殉教を記念する日でした。ではなぜ、バレンチノが恋人たちの保護者としてあがめられるのでしょか?それは、バレンチノはイタリア・ウンブリア地方のテルニ(Terni)の司教で、ローマ皇帝によって処刑された殉教者と伝えられています(同じ日に記念する同じ名前の殉教者がいるのでややこしい)。
当時ローマ帝国の兵士たちは、「士気が落ちる」という理由で、結婚を禁止されていたとか。バレンチノは、こっそり若い恋人たちを結び付けていたそうです。それが皇帝クラウディオの怒りを買い、捕らえられ、270年(269年?)、棍棒や石でなぐり殺されたと言われています。
世界のカトリック教会では2月14日、聖チリロ隠世修道者と聖メトジオ司教を記念します。2人は9世紀に活躍した兄弟で、聖チリロはキリール文字でスラブ語の典礼書を作成した人物です。聖メトジオは司教になり、パンノニア(いまのハンガリー)で宣教。ヴェレラド(いまのチェコ)で亡くなりました。
(『毎日の読書』、『毎日のミサ』より)
nice!(0)  コメント(0) 

「聖チリロ隠世修道者・聖メトジオ司教」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日は、「聖チリロ隠世修道者・聖メトジオ司教」の記念日です。
両聖人は兄弟であり、聖チリロは802年、聖メトジオは810年にギリシャのテサロニケに生まれました。当時のテサロニケは、東ローマ帝国の重要な貿易港として栄えており、さまざまな民族が居住していました。そのため、聖チリロと聖メトジオは、スラヴ人と交わり、スラヴ語を自由に話し、その風俗に親しみ、後年スラヴ族の宣教師となる素養を身につけたのでした。また、二人とも東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルに遊学し、学業に優秀な成績をあげました。聖チリロは哲学、神学の他に実践面にもすぐれ、はじめ東ローマ帝国の宮廷付き司祭として高い栄誉を与えられてました。一方の聖メトジオは、テッサリア地方の知事に任ぜられ、大いに手腕をふるった後、官職を辞して修道院に入りました。
Cyril-methodius-small.jpg
東ローマ皇帝ミカエル3世は、モラヴィアの国王の要請に応じて、862年、兄弟を宣教師としてモラヴィアに派遣しました。それは、教理に暗い新信者を指導すると共に、異教徒をも改宗させ、国民を善良温和なキリスト者に教化することによって国の統一を固めようとはかったからでした。このためモラヴィアの人々はまもなく教理に明るくなり、数年の間に異教徒もほとんど改宗したそうです。こうしてスラヴ族の大半をキリスト教化した2人は、868年、教皇の祝福を願いかたがた所用を果たすためにローマへ向い、時の教皇ハドリアノ2世に大いに歓迎されました。2人はしばらくローマに滞在して故郷に帰ろうとした時、聖チリロは昼夜をかけての布教活動と心労のためか、突然重病にかかり、やむなくローマの一修道院で静養しましたが、ついに869年安らかにこの世を去りました。
その後、聖メトジオは司教に叙階され、モラヴィアに帰りました。まもなくモラヴィアはドイツとの戦火に巻き込まれ、自由な司牧ができなくなりましたので、司教はパラニアに足をとどめ異教徒の改宗に尽くしました。その後、ドイツ王に投獄されたり、「メトジオは異端を伝え、正統な信仰に反する」と讒言されたりしましたが、スラブ教会のために聖書の翻訳や、聖職者の養成に力を注ぎ活躍しました。「スラブの使徒」と呼ばれています。年老いた聖メトジオは、やがて臨終の近いのを悟り、一司祭を司教に叙階して自分の後継者とし、885年に安らかにこの世を去りました。
nice!(0)  コメント(0)