『証し 日本のキリスト者』のご紹介 [キリスト教と読書]

先日、帰宅途中に書店を覘いたら、手書きしたポスターに『証し 日本のキリスト者』という書名が目に入り、なにかインスピレーションを感じるものがあり、書いてある内容を読み始めました。そうしたら「これは読みたい!」という霊感?直観?がして( ̄▽ ̄;) 翌日amazonで即買いしました!
私と同じキリスト者(クリスチャン)135人が、どのような切っ掛けで信仰に入ったのか?信仰に不安を抱いていないだろうか?神に疑問の感じることはあるのだろうか?日々どのような信仰生活をしているのだろうか?など、知りたいことがいっぱいあります!信徒はもちろん司祭職の方もいます。
実に興味津々ではありますが、興味本位ではなく、ことの本質として信仰という自分と心を同じくする人が、「キリスト教を信仰するとはどのような想いなのか?どのような心の在り方なのか?どのような行為なのか?」ということを知り、現在の自分の信仰と比較して、是非とも今後の信仰生活に資するものにできるよう読み取りたいと思います。現在、まだまだ読んでいる途中であります!(*^▽^*)
◯1,000ページを超える大部な本とは知らなかった~!びっくりしました!厚さ5cm・なんと重量1.5Kg近く!重すぎ~!( ̄▽ ̄;) この重さじゃ電車の中で読もうと思っても持ち歩きは無理です!家で読むしかないですね。
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著者:最相葉月(さいしょう はづき)
出版:角川書店
発刊:2023年1月13日
定価:3,498円(本体3,180円+税)
判型:A5変形判
ページ数:1,096ページ

◯内容紹介(角川書店のホームページから引用)
「なぜ、神を信じるのか。全国の教会を訪ね、135人に聞いた信仰のかたち。「証し」とは、キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や言動を通して人に伝えることである。
本書は、北海道から沖縄、五島、奄美、小笠原まで全国の教会を訪ね、そこで暮らすキリスト者135人に、神と共に生きる彼らの半生を聞き書きしたものだ。自然災害や戦争、事件、事故、差別、病のような不条理に直面してなお、彼らは神をどうして信じられるのか? なぜ、信仰は揺るぎないものであり続けるのか。
回心、洗礼、家族、献身、開拓、奉仕、社会、差別、政治、戦争、運命、赦し、真理、そして復活……。それぞれの章で語られる「証し」のなかで「信仰とは何か?」という有史以来の謎に向き合い、終章の「コロナ下の教会、そして戦争」で、日本におけるキリスト教の現在地をも筆者は照らし出す。構想10年、取材6年。1000ページを超える圧倒的なボリュームで綴る渾身の長編ノンフィクション。」

◯目次
この本について――まえがきに代えて
第一章 私は罪を犯しました
第二章 人間ではよりどころになりません
第三章 神様より親が怖かった
十字架の風景1 兄弟姉妹
第四章 お望みなら杯を飲みましょう
十字架の風景2 教会とカウンセリング
第五章 神を伝える
十字架の風景3 宣教ブーム
第六章 自分の意思より神の計画
第七章 教会という社会に生きる
第八章 神はなぜ私を造ったのか
第九章 政治と信仰
十字架の風景4 夫婦と教会
第十章 そこに神はいたか
第十一章 神はなぜ奪うのか
第十二章 それでも赦さなければならないのか
十字架の風景5 宣教の終わりと始まり
第十三章 真理を求めて
第十四章 これが天の援軍か
終章 コロナ下の教会、そして戦争
あとがき

◯著者紹介<最相葉月>
1963年に東京都生まれ。ノンフィクションライターで編集者です。兵庫県神戸市で育ち、関西学院大学法学部法律学科(国際法専攻)卒業。広告会社、出版社、PR誌編集事務所勤務を経て、フリーの編集者兼ライターとなる。執筆する主なテーマは科学技術と人間の関係性、スポーツ、教育、音楽など。
第4回小学館ノンフィクション大賞を受賞、1998年刊行の『絶対音感』がベストセラーとなる。2007年刊行の『星新一 一〇〇一話をつくった人』は第34回大佛次郎賞、第29回講談社ノンフィクション賞、第28回日本SF大賞、第61回日本推理作家協会賞、評論その他の部門及び第39回星雲賞ノンフィクション部門を受賞しました。
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教会日記2023.2.8(カトリック成城・聖タデオ教会「平日の ミサ」水曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「平日のミサ」に与りました。今日も最低気温が上がり寒さが和らいでいます。ただ、明後日の金曜日は最高気温が3度、最低気温はマイナスで降雪があるようです( ̄◇ ̄;) 金曜日は、仕事はお休みをいただいていますが、早朝のミサでは先唱奉仕の担当ですから、雪で電車が止まらなければいいのですが(⌒-⌒; ) 今日も清々しい朝を迎えています。

ミサでは、まず、主を讃えるお祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈りました。
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、ご聖体を拝領させていただいたことを感謝申し上げます。」

次に、主により頼むお祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈りました。

次に、派遣のお祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈りました。

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
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「聖ジュゼッピーナ・バキータ」のお話し [聖人・福者・尊者]

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今日2月8日は、二人の聖人の任意の記念日です。二人目は、「聖ジュゼッピーナ・バキータ(又はバキタ:スーダン:1869年~1947年)」の記念日です。彼女は修道女、カトリック教会の聖人でスーダンの守護聖人となっています。バキータは、西スーダン・ダルフール地方の村オルゴッサで、村の有力者の家に生まれました。彼女が9歳の時、アラブ人の奴隷狩りにあって誘拐され、その後8年もの間、エル・オベイドやハルトゥームの奴隷市場で5度も売られました。この過酷な経験が精神的外傷となって、彼女は自分の名前を忘れてしまい、奴隷達からアラビア語の名前バキータ(「幸運」の意味)を与えられました。洗礼名のジュゼッピーナは成人してからです。

バキータは奴隷の間、彼女の所有者の息子に幾度も殴られる暴行を受け、後に彼女は4度目の所有者となるオスマン帝国の軍人に、最もひどい虐待を受けました。彼は自分の所有する奴隷に「彼のものである印」として、刃物で傷を付け入れ墨をしたのです。何年も後にバキータがイタリア語で書いた自伝には、小麦粉の入った皿、塩の皿、刀、それらを女性たちが持ってきて、彼女たちがバキータの肌の上に刃物をつきたてて奴隷を示す模様を刻み、傷口を小麦粉と塩で埋めて傷口が盛り上がるようにしたのでした。バキータの胸元、腹、腕には60種類以上の模様がありました。

彼女の最後の購入者となったのは、イタリアの領事カッリスト・レニャーニでした。彼はバキータに優しく接し、彼女を自由にすべく計画しました。1885年、彼は16歳のバキータを友人アウグスト・ミキエーリに託し、ミキエーリは、自分の娘ミンミーナの乳母としてバキータをイタリアへ連れ帰りました。1888年か1889年、バキータとミンミーナは、ミキエーリが仕事で紅海へ向かった間、ヴェネツィアのカノッサ女子修道会の保護のもとに置かれていました。1890年、バキータは自分の意志で洗礼を受け、洗礼名ジュゼッピーナ・マルガリータ(Giuseppina Margarita)を授かりました。

ミキエーリ夫妻が帰国してバキータとミンミーナを呼び寄せると、バキータは修道会を離れるのを嫌がりました。ミキエーリ夫人は出させようとしますが、バキータとミンミーナがヴェネツィアで入学した最上の学校は、裁判所に訴え出ました。イタリアの法廷は「どんな場合でもイタリアの法律は奴隷制度を承認しない、バキータが奴隷であったことは一度もない。」と宣告しました。バキータはもはや成人になっており、自分で自分の運命をコントロールすることができると知った最初の出来事となりました。彼女は女子修道会に残ることを選択しました。1896年、彼女は正式に修道女となりました。1902年、彼女は北イタリアのスキーオに家を与えられ、そこで余生を暮らしました。

スキーオで暮らした45年間、ジュゼッピーナは自宅に女性門番を雇っていました。そして、彼女が地元のコミュニティーとの連絡役を果たしていました。彼女の優しさ、穏やかな声、絶えない笑顔はよく知られるようになり、ヴィチェンツァの住民達は、彼女のことを「ラ・ノストラ・マードレ・モレッタ(La nostra madre moretta・私たちの小さな褐色の母)」と呼びました。彼女の特別な献身と高潔さの評判は教書に記され、彼女は回顧録を公にし、自身の経験を他人に話しました。これらが彼女の高名をイタリア中に広めることになりました。最晩年、バキータは苦痛と病が著しかったのですが、彼女は朗らかさを保ち、何かを尋ねられるといつも笑みを浮かべて『主のお望みのままに』と答えました。

死が迫ったとき、彼女の記憶は奴隷だった頃に逆戻りし、錯乱の中で「どうか鎖を外してください・・・重すぎるのです。」と叫んだそうです。ジュゼッピーナは1947年2月8日に帰天(天国に帰ること・死ぬこと)しました。3日間、彼女の遺体が安置され、何千もの人々が彼女に敬意を払いにやってきました。彼女を列聖してほしいという声がすぐに起こり、彼女の死からわずか12年後の1959年に審査が開始され、1978年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ジュゼッピーナを列聖の最初の段階である尊者とし、1992年5月17日、彼女は列福され2月8日が彼女の記念日とされました。2000年10月1日、彼女は列聖され聖人となりました。彼女は現代アフリカの聖人であり、虐待と奴隷に関連した聖人として列聖されました。
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「聖ヒエロニモ・エミリアニ」のお話し [聖人・福者・尊者]

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今日2月8日は、二人の聖人の任意の記念日です。
まず一人目は、聖ヒエロニモ・エミリアニ(1486年~1537年)です。ヒエロニモは、イタリア、ヴェネチアの貴族の家に生まれ、15歳から軍隊生活を送りましたが、あるとき敵に捕えられ、砦の地下の牢獄で鉄の鎖につながれて囚われの身となりました。不運な牢獄の生活は酷い屈辱的な日々で、「もし神の恵みで自由が与えられるなら、これまでの悪い生活からきっぱりと足を洗おう」と心にかたく誓い、聖母マリア様に祈りを捧げたのでした。そうしたある日(7月26日)のこと、まったくあり得ないことが彼の身の上に起こりました。彼はまったくその姿を見られないで、堂々と敵の真ん中を通りぬけて外に出たのでした。そして、まっすぐトレヴィゾ市の聖母巡礼聖堂に向かい、鉄鎖を壁にかけて聖母マリア様に感謝しました。

この奇跡的な体験で彼は神に生涯をささげようと決心し、1518年に司祭となって病気に苦しむ人々、貧しい人々、身よりのない子どもたちの世話をしました。そして、人々の必要に応じて3つの施設をイタリアに設立し、1532年に同志とともに、ソマスコの小さな町に慈善事業を目的とした、特に身よりのない子どもの世話と教育をする修道会「ソマスキ会」を創立しました。1537年にベルガモにペストが流行したときも看護に奔走し、自らも感染して愛の殉教者として天に召されました。聖ヒエロニモは、身よりのない子ども(孤児)の守護聖人といわれています。
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