教会日記2023.2.15(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」水曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「平日のミサ」に与りました。今日は寒い!最高気温が8度の予想ですが、風が強いため体感気温はもっと低く感じるでしょうね( ̄◇ ̄;) 風邪をひかないように!というか、花粉症の私には花粉を拡散させる強風は恐怖です!

ミサでは、まず、主を讃えるお祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈りました。
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、ご聖体を拝領させていただいたことを感謝申し上げます。」

次に、主により頼むお祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈りました。

次に、派遣のお祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈りました。

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
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新約聖書:ルカによる福音書・第18章・第9〜第14節 [聖書]

「また、自分を正しい人間であると思い込み、ほかの人をさげすむ人々に、イエスは喩え(たとえ)を語られた、
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人であった。ファリサイ派の人は胸を張って立ち、心の中でこう祈った、「神よ、わたしがほかの人たちのように、略奪する者でも不正な者でも、姦淫を犯す者でもなく、またこの徴税人のような者でもないことを、あなたに感謝いたします。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を収めています」。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った、「神よ、罪人であるわたしを憐れんでください」。
あなたがたに言っておく。義とされて家に帰ったのは徴税人であって、ファリサイ派の人ではない。誰でも自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

【徴税人】
当時のユダヤ地方(現在のシリア、ヨルダン、イスラエル辺り)を属州として支配していたローマ帝国(ローマ人)のために、税金の取り立てを請け負ったユダヤ人のことです。自分たちを支配するローマ人(異邦人)のために、同胞のユダヤ人から税を取り立て、定められた額より多く搾取するなど、同胞のユダヤ人から憎まれて「罪人」として嫌われていました。
【ファリサイ派】
ユダヤ教の指導者の一派で、律法を厳格に守り、細部に至るまで忠実に実行することによって神の正義の実現を追求しているつもりですが、その実は形式主義に陥り、人間が作った掟を大切にして神の教えをないがしろにしている人達のことです。偽善者ですね。また、自分達イスラエル人は、神に選ばれた唯一の民族で、神様との特別な契約を結んだ“神の民”であり、救いは“神の民”だけのものだと信じている人たちでした。ですから、イスラエル人でない異邦人は、神様の救いから除外されていると見下していました。新約聖書に登場する律法学者や祭司長なども同類の人たちです。

この聖句には、祈るために神殿に上がった2人の人が登場しています。1人はファリサイ派の人で、もう1人は徴税人です。ファリサイ派の人は市民から社会的に認められている地位のある人ですが、徴税人は、異邦人で支配者であるローマ帝国(ローマ人)に協力し、税金を多く搾取することで市民から嫌われ憎まれていました。ところが、『神よ、罪人であるわたしを憐れんでください』と言葉少なく、正直に謙虚にお祈りした徴税人の方が、神様から赦されて祝福を受けて家へ帰ったのです。偽善者のファリサイ派の人も、まったく誉められた人間ではありませんが、なにか不公平な感じがしないわけではないですね。

しかし、イエス・キリストが私たちに教えてくださることは、「神にその赦しと祝福を受けて愛されることの妨げになるのは、私たちの『罪そのものよりも傲慢な心』である。」と、はっきりと教えてくださっています。つまり、人々に認められ地位のあるファリサイ派の人たちでも、自惚れた傲慢な心(偽善者の態度)で祈っていては救われないのです。一方、たとえ人々から罪びとと罵られていても、徴税人のように神様に対して素直で謙虚になって祈れば救われるのです。私たちも日々犯した罪の赦しを願うのであれば、その前に私たちの心にある<傲慢な心>を取り除かなければなりません。毎日ミサに与ってご聖体を拝領し、熱心に祈りに励んでいても、<傲慢な心>では信仰生活はまったく意味をなしません。とにかく謙虚な心を持つことです。謙虚になって祈りましょう。

カトリック教会では、傲慢(ごうまん)・高慢(こうまん)は、「七つの大罪」の一つです。
【七つの大罪】
一、傲慢:ごうまん(高慢:こうまん)
二、貪欲:どんよく(強欲:ごうよく)
三、嫉妬:しっと(羨望:せんぼう)
四、憤怒:ふんど(激高:げきこう)
五、貪食:どんしょく(暴食:ぼうしょく)
六、色欲:しきよく(肉欲:にくよく)
七、怠惰:たいだ(堕落:だらく)
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