「聖水(せいすい)」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

聖水とは、普通の水道水やコンビニのペットボトルの水とは異なり、「聖水=宗教的に聖なるものとされた水」のことです。宗教における儀式に用いられる水のことで、水は多くの宗教で「穢れを祓う。」などの意味で用いられますが、これを普通の水ではなく、聖水など特別な水を使わなければならないという教えがあるのです。特に、正当なキリスト教である正教会、カトリック教会、聖公会や一部のプロテスタントなどの教派では、聖職者(神父や牧師のこと)により聖別(聖化)され、洗礼などの儀式や祝福に用いられる水を指して聖水と称しています。

カトリック教会の場合は、聖水は司祭(神父様)により聖別され、「洗礼」などに用いるために用意されます。教会によって多少の違いはありますが、普段は聖堂の入口に設置された“聖水入れ”に常に聖水が入っており、ミサなどで聖堂に入る時に「洗礼を受けたことを常に忘れないように!」という意味で、聖水に指を浸して十字を切って入ります。私も自宅の祭壇に、神父様に聖別していただいた聖水を入れた聖水入れを置き、毎日のお祈りの前に指に聖水をつけ、十字を切ってからお祈りをしています。現在は聖水が切れていますが………( ̄▽ ̄;)
カトリック吉祥寺教会の聖水入れです。聖堂の入ったところにあります。
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また、ロシア正教会の至聖三者聖セルギイ大修道院における“聖なる泉”や、カトリック教会におけるスペインとの国境があるピレネー山脈のフランス側山麓にある“ルルドの泉”のように、自然に湧き出る泉が神に祝福され、聖なる力を持つと信じられて聖水と呼ぶことがあり、この水で不治の病が治ったとの奇蹟が報告されているからですね。余談ですが、皆さんは、映画の「ドラキュラ伯爵」や「エクソシスト」などで、神父様が悪の力を弱めるため、悪魔に聖水をかけるシーンを見たことがあると思います。悪魔という穢れを祓うということですね。

神道や仏教も水には縁があります。まず、「垢離(こり)」というのがあって、水で清めて垢(あか)を取去ることですが、山伏や修験者が神仏に祈願するとき,冷水や海水を浴びて身を清めることをいいます。また、神道では、参拝する時に、まず鳥居の所で衣服を整え、軽く一礼してから境内(けいだい)に入ります。次に「手水舎(てみずや)」の水で両手を清め、口を漱ぎ(すすぎ)ます。このことを「手水を使う」といいます。手水舎の水盤には、たいてい「洗心」という言葉が彫られていますが、これには両手を清め口を漱ぐことにより、心(魂)も洗い清めるという意味があります。日本人であれば常識ですね。

水ではありませんが、神道では一般的に穢れ(けがれ)を塩で清めますね。仏教でもお葬式の会葬御礼のハガキと一緒に清めの塩が付いています。これには賛否両論があって仏教と神道の「死」に対する考え方の違いがあるのです。死を「穢れ」とする神道に対して、仏教では「死後は仏のいる浄土の世界にお生まれ仏になる。」と考えますから清めの塩は本来不要ということです。親族ではなく、一般会葬者の神道の方は、死と言う不浄(黒不浄)を家に持ち込まないという意味で、清め塩をして自分の家に入るそうですが、仏教徒や親族は行いません。それは、故人は不浄な存在ではないと考えるからです。
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