今日の日記2021.1.12(コロナ対策!) [日記]

先週、緊急事態宣言が再発出され、今更コロナ対策でもないのですが、引き続き①仕事帰りに、ついフラフラと悪魔の誘惑に負けて居酒屋に寄らない。②「たまにはいいだろう」と言い訳をし、悪友となって同僚を誘って会食をしない。③美味しいお店がたくさんあるグルメな都心に出ないで、早く家に帰って女房殿の夕飯で満足する。④皆んなが観ている人気ドラマを見ないで早く寝る。⑤家呑みは、泥酔するまで呑まない呑まれない。⑥家にいても常に手指の消毒を心掛ける、以上を厳守する!これがコロナ対策ですかね。
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教会日記2021.1.12(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」火曜日) [教会日記]

今日は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会の7時からの平日のミサに与りました。緊急事態宣言が再発出され、カトリック教会の東京大司教様から「各教会でのこれまでの感染対策を見直して徹底すること。」と厳しく求められ、私が所属するカトリック成城教会も、主任司祭から「ミサの出席回数を半減しなさい。」と指示がありました。そこで今後のミサですが、「平日のミサ」は火曜日、金曜日の2日間、「主日のミサ」は日曜日だけとし、合計3日間にすることにしました。しかたがないですね(T_T)

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんが健康な身体になり、元気に学校に通えるようお祈りしました。
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道元禅師のことば(第1日目) [非キリスト者(ノンクリスチャン)]

「たとひ仏というは、我がもとより知りたりつるようは、相光光明具足し説法利生の徳ありし釈迦弥陀等を仏と知りたりとも、知識(師匠のこと)若し仏というは蝦蟇蚯蚓(がまみみず)といはば、蝦蟇蚯蚓を是ぞ仏と信じて日此(ひごろ)の知解を捨つべきなり、この蚯蚓の上に仏の相光光明、種々の仏の所具の徳を求むるも猶(なお)情見あらたまざるなり。只当時の見ゆる処を仏と知るなり。」

道元(どうげん)は、鎌倉時代初期のころの禅僧で曹洞宗の開祖です。同宗旨では高祖と尊称されています。諡号は、仏性伝東国師、承陽大師。一般には「道元禅師(どうげんぜんじ)」と呼ばれています。
「徒(いたずら)に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがある。」という修証一等、只管打坐の禅を伝え、その著書である『正法眼蔵』は、日本の倫理学者である和辻哲郎やハイデッガーなど西洋哲学の研究家からも注目を集めました。

学生時代は倫理学専攻でしたので、難解な『正法眼蔵』の原文に挑戦しましたが、あまり成果は得られなかったことを覚えています。私には難しかったですね。しかし、道元の人となりや『正法眼蔵』を理解する上での基本文献といわれている『正法眼蔵随聞記』は愛読しました。古田紹欽訳注の『正法眼蔵随聞記』角川文庫版ですね。貧乏学生でしたので、文献で文庫本などになっているものはよく読みました。

『正法眼蔵随聞記』(しょうぼうげんぞうずいもんき)は、道元禅師の2歳年長の弟子で、永平寺2世である孤雲懐奘が記した曹洞禅の語録書です。懐奘和尚は、約20年間にわたり師である道元禅師に随侍し、道元が折にふれ弟子たちに説いた言葉や、道元との問答を克明に筆記しました。それを懐奘和尚が亡くなった後、弟子たちがまとめたものです。

この言葉は、私が正法眼蔵随聞記を読んで最初に感銘した箇所です。これを現代語訳すると、「私たちは仏といわれたら、お釈迦様や阿弥陀様のようにすばらしくすごい方だと思ってしまいますが、師匠が『仏とはカエルやミミズのことである。』と言われたならば、カエルやミミズこそが仏であるということを信じて、今までの仏に対する認識を捨てることです。しかし、そうは言われても、まだ自らの思いに引きずられてミミズの上に仏のありようを見いだそうとする。そうではなくその見えるまま、そのままを受けとることが大切である。」ということです。

これは奥が深い言葉ですが、私の解釈は次のとおりです。
「仏道修行などにかかわらず、剣道、華道、茶道など、いわゆる“道”を極める修行をする場合、師匠の教えを“心を無にして物・事に執着せず教えを受ける”姿勢の大切さを説いている。」と解釈します。ですから、師匠が「仏とはカエルやミミズである。」と言えば、教えを受ける者は素直に同じように「仏とはカエルやミミズである。」と心の底から信じることです。道元禅師は極端な話しを例としてあげているだけですね。

教えを受ける時は、既存の知識や経験は邪魔になりがちです。教えを受ける場合は、姿勢を謙虚に、心を素直にしてこそ100%以上のものを学ぶことができるのですね。それが証拠に、師匠がしっかりしていれば子ども達の上達は早いですね。しかも大人より上手かったりします。子ども達はいらない知識や経験がないからですね。すべてにおいて素直なのです。これは“学びの極意”です。
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