教会日記2019.8.30(カトリック礼拝会修道院「平日のミサ」金曜日) [教会日記]

今日は、出勤前に小田急線喜多見駅で途中下車し、カトリック礼拝会修道院(女子修道会)のお御堂(おみどう:聖堂のこと)で、7時からの平日のミサに与りました。成城教会の朝ミサ(平日のミサ)はお休みですので、代わりに女子修道会の礼拝会修道院で朝ミサに与りました。礼拝会修道院は、7月11日(木)以来となります。今日は雨天で蒸し暑いですが、清々しい朝を迎えています!

7時からのミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、そして同僚のお嬢さんの病が癒されますようにと、心を込めてお祈りしてきました。
さぁ、これから仕事です!
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新約聖書:ローマの人々への手紙・第12章・第19節 [聖書]

「愛するみなさん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は仰せになる『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』」と書かれています。」
以上は『原文校訂による口語訳 新約聖書 フランシスコ会聖書研究所訳注』から

この聖句は、このブログに5回目の掲載となります。前々回は前後に何節かあって長かったのですが、前回から1節のみの掲載とし、今回は大幅に加筆・修正しました。
「ローマの人々への手紙」は、使徒聖パウロがローマの教会にいる信徒に宛てた書簡ですが、紀元57年〜58年ごろに書かれたものです。この聖句は、旧約聖書の「申命記」第32章(モーセの歌)・第35節に、「復讐も報復もわたし(主)のもの」と書いてあり、また、旧約聖書の「レビ記」第19章・第18節に、「復讐してはならない。お前の民の子らに恨みを抱いてはならない。お前の隣人をお前自身のように愛さなければならない。わたしは主である。」と書いてあるのを根拠とし、ローマにいる信徒たちを戒める言葉になっています。
神様(主)は、人間に復讐・報復することを絶対にお許しになりません。それは復讐・報復することよって、人間に暴力などの罪を犯させることになるからですね。ですから、復讐や報復は人間に代わって神様(主)ご自身がなさるというわけです。

私達が日常において、復讐や報復とまでいかなくても、それに近い怒りの感情を抱くことはよくあることです。相手に騙された、裏切られた、辱しめられた、嘘を広められた、恣意的に悪者にされたなどなど。そうすると、その相手に対して怒って相手を罵ったり、恨んだり、喧嘩になったり、遺恨を残して人間関係を悪くするたげでなく、やがて自分も罪を犯してしまうことになるのです。自分が悪くなくても“怒りを覚えた時”は、「神様が報復する」と自分に言い聞かせることです。決して手出しは愚か、口でも心でも相手を罵ってはいけません。私はすでにこの聖句にしたがっています………とは言っても、まだまだ愚痴は出ますね。これはすべての人が自戒すべきことだと思います。

それでも、「本当に神様は復讐や報復をしてくれるだろうか?」と思うのが人間の常ですね。信仰している人でも不安になる時はあるでしょう。神様を信じていても「すぐ復讐や報復がされないのはどうしてなのか?」、「いつ復讐や報復がなされるのか?」そのようなことも考えられますね。確かにいろいろと頭に浮かびますが、いつ復讐するとか報復するかとかは神様が決めることですし、もっと重要なことは、そもそも神様にとって、そのことが復讐や報復に値することなのか?ということもありますね。神様を信頼して信仰しているのであれば、そのようなことも神様に委ねるわけです。神様は、人間の復讐や報復をお許しにならないわけですから。全面的に神様に委ねるのです。

しかし、憤怒(怒ること)は、カトリック教会における「七つの大罪」の一つでもあります。怒りを心に留めないことが大切なのですが、その前に、そもそも復讐だとか報復だとかを思うこと自体が間違いですね。よくよく考えると、平和を願う愛である神様が、復讐だの報復だのといった人間の願いを聴き入れて実行されるでしょうか。されるわけがないですね。それでも神様が復讐や報復をされるとすれば、それこそ神様のみ摂理であると思います。怒りに駆られて復讐だの報復だのと思い煩うよりも、心を静かにして考えてみると、主がお望みになっていないことくらいすぐに分かることですね。これは私たち信徒の信仰が試されていることではないでしょうか。私はそう思うのです。

【摂理(せつり)】
キリスト教で、創造主である神の、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のこと。神はこれによって被造物をそれぞれの目標に導く。
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