教会日記その二2019.8.21(カトリック麹町・聖イグナチオ教会「平日のミサ」水曜日) [聖書]

今日は、仕事が終わってから、四ツ谷にあるカトリック麹町・聖イグナチオ教会の18時からの平日のミサに (本日より2回目の前ミサ)に与りました。身体の調子が今一つよくないこともあって、帰宅しょうと思ったのですが、頭(「足」ではなく)が自然にミサに向いていました( ̄◇ ̄;)しかし、今日も感謝することはたくさんあり、回心することもありました。やはりミサに与ってよかったです(⌒-⌒; )

夕刻18時のアンジェラスの鐘が響き渡る中、「お告げの祈り」をお祈りし、ミサでは「聖ピオ10世教皇」の記念日をお祝いしてお祈りしました。そして、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますようにとお祈りし、同僚のお嬢さんの病気が完治するようにと心を込めてお祈りしました。
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教会日記2019.8.21(カトリック成城教会「平日のミサ」水曜日) [教会日記]

今日は、出勤前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城教会の7時からの平日のミサ(本日第1回目のミサ)に与りました。8月10日からのお盆休みも昨日で終わり、今日から8月末日まで交替勤務となります。今日も暑くなりそうですが、清々しい朝を迎えています!

6時50分から「お告げの祈り」をお祈りし、7時からのミサでは、聖ピオ10世教皇の記念日をお祝いしてお祈りし、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、また、同僚のお嬢さんの病が完治しますようにと、心を込めてお祈りしました。
さぁ、これから仕事です!
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新約聖書:ルカによる福音書・第15章・第1〜第7節 [聖書]

「さて、徴税人や罪人たちがみな話しを聞こうとして、イエスのもとに近寄ってきた。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを受け入れて、食事をともにしている」とつぶやいた。そこで、イエスは彼らに次の喩えを語られた。
あなた方のうちに、百匹の羊を持っている者がいるとする。そのうちの一匹を見失ったら、九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで、跡をたどって行くのではないだろうか。そして見つけ出すと、喜んで自分の肩に乗せて、家に帰り、友人や近所の人々を呼び集めて言うだろう、『一緒に喜んでください。見失ったわたしの羊を見つけましたから』。あなた方に言っておく、このように、悔い改める一人の罪人のためには、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人のためよりも、もっと大きな喜びが天にある。」

このイエス様のご絵は、とても神様への愛に深い敬虔な方からいただきました。この夏の思い出ですね。
罪人の私にぴったりなご絵です………ということは、イエス様の肩に乗っているのは私ということですね。
(⌒-⌒; )
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この聖句ですが、まず「百匹の羊を持っている者(良い羊飼い)」とは神様(=イエス・キリスト)のことで、「見失った一匹の羊」とは罪人のことを指します。そして、九十九匹を荒れ野に残すという危険を冒してまでも、良い羊飼いは見失った一匹の羊のために探し出そうとするのです。つまり、イエス・キリストは、羊飼いにとっての見失った羊、すなわち神様にとって、一人の罪人はそれ程までに大切な存在なのだと説いているのですね。

このたとえ話しは、イエス・キリストが、徴税人や罪人を招いて食事をしていることをファリサイ派の人たちが咎めたことに対する、イエス・キリストの反論から始まっています。この「ルカによる福音書」と同じ内容が載っている「マタイによる福音書 (第18章・第10〜第14節)」では、イエス・キリストは弟子たちに向かって、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、天におられるあなた方の父のみ旨ではない。」と教えています。

「悔い改める一人の罪人のためには、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人のためよりも、もっと大きな喜びが天にある。」とするイエス・キリストの使命について語られている聖句
◯新約聖書:ルカによる福音書・第5章・第30~第32節
「ファリサイ派の人々やその他の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
◯新約聖書:マタイによる福音書・第9章・第10〜第13節
「イエスが家で食卓に着いておられた時のことである。徴税人や罪人たちが大勢やって来て、イエスや弟子たちとらともに食卓に着いていた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに言った。「どうして、あなた方の先生は、徴税人や罪人と食事をともにすれるのか」。これを聞いて、イエスは仰せになった、「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。『わたしが望むのは犠牲(いけにえ)ではなく、憐れみである』ということが何を意味するか、学んできなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

では、説明いたします。
この部分で、「ファリサイ派の人々(やその他の律法学者)」という人達が出てきますが、このファリサイ派・律法学者達とは、自分達イスラエル人は、神に選ばれた唯一の民族で、神様との特別な契約を結んだ“神の民”であり、救いは“神の民”だけのものだと信じていました。ですから、イスラエル人でない異邦人は、神様の救いから除外されており、(神様の教えではなく、自分たち人間の勝手な解釈によって形骸化している)律法を守らない者は、血筋ではイスラエル人であっても、異邦人と同じように救いから除外される「罪人」と考えていました。
その後に「徴税人(ちょうぜいにん)」という人達がでてきますが、この徴税人とは、当時のユダヤ地方(イスラエル辺り)を属州として支配していたローマ帝国のために、税金の取り立てを請け負ったユダヤ人のことです。ローマ人(異邦人)支配者のために、同胞から税を取り立て、定められた額より多く取り立てるということで、同じユダヤ人から憎まれて「罪人」として嫌われていたのです。

イエス・キリストは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と説いています。医者=イエス・キリスト、健康な人=正しい人、病人=罪人という喩えになっていますが、「罪人を招いて悔い改めさせるためである。」ということですね。健康な人なら医者はいらないのであって、医者が必要なのは病人です。それと同じく正しい人であれば悔い改めはいらないのであって、罪人は悔い改めが必要であり、イエス・キリストの救いを必要としているのです。
イエス・キリストは、罪人が悔い改めて救われることを望み、そのために宣教活動をされました。徴税人も他の人と同じ人間であり、徴税人としてのこれまでの行いも、これからの生き方によっては、それまでの悪い行いは赦され、新しい生き方が開けることをイエス・キリストは教えているのです。
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