2019年8月の訪問教会記録 [訪問教会・支援活動記録]
今年の8月は、31日間ある中の31日間(100%)、12の教会・修道院に52回訪問(1回の訪問で2~3回のミサ)し、56回ミサに与り56回ご聖体を拝領させていただきました。一月に52回のミサに与ったのは過去最高記録となります。なにも記録更新を狙っていたわけではありませんが(⌒-⌒; )、本当によくミサにあずかりましたね~。私が賜ったご聖体の恵みは、救いを求める人々のためにお与えいただければ本望です。来月からは平常勤務になりますので、8月同様とはいきませんが、またミサに与って感謝、平和と弱者救済を願うお祈りを捧げたいと思います。
1日(木)成城教会:平日のミサ・7時から
2日(金)麹町・聖イグナチオ教会:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会②:平日のミサ・18時から
3日(土)麹町・聖イグナチオ教会③:平日のミサ・12時から
〃 町田教会:主日のミサ・18時30分から
4日(日)神奈川県大和市・大和教会:主日のミサ・7時から
〃 神奈川県藤沢市・藤沢教会:主日のミサ・9時30分から
5日(月)成城教会②:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会④:平日のミサ・18時から
6日(火)成城教会③:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑤:平日のミサ・18時から
7日(水)成城教会④:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑥:平日のミサ・18時から
8日(木)成城教会⑤:平日のミサ・7時から
9日(金)成城教会⑥:平日のミサ・7時から
10日(土)高輪教会・平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑦:平日のミサ・12時から
11日(日)麹町・聖イグナチオ教会⑧:主日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑨:主日のミサ・8時30分から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑩:主日のミサ・10時から
〃 目黒教会:主日のミサ・17時から
12日(月)神奈川県相模原市・相模原教会・平日のミサ・8時から
13日(火)八王子教会:平日のミサ・7時から
〃 神奈川県相模原市・相模原教会②:平日のミサ・9時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑪:平日のミサ・12時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑫:平日のミサ・18時から
14日(水)田園調布会:平日のミサ・7時から
〃 赤羽教会:聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭ミサ・9時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑬:平日のミサ・12時から
15日(木)赤羽教会②:聖母の被昇天のミサ・9時から
〃 町田教会②:聖母の被昇天のミサ・19時30分から
16日(金)八王子教会②:平日のミサ・10時から
17日(土)田園調布教会②:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑭:平日のミサ・12時から
〃 成城教会⑦:主日のミサ・18時から
18日(日)田園調布教会③:主日のミサ・7時30分から
〃 町田教会③:主日のミサ・10時30分から
19日(月)田園調布教会④・平日のミサ・7時から
〃 神奈川県藤沢市・藤沢教会②:平日のミサ・9時
20日(火)田園調布教会⑤・平日のミサ・7時から
〃 神奈川県相模原市・相模原教会③:平日のミサ・9時から
21日(水)成城教会⑦:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会1⑮・平日のミサ・18時から
22日(木)成城教会⑧:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑯・平日でもミサ・12時から
23日(金)成城教会⑨:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑰・平日のミサ・18時から
24日(土)田園調布教会⑥:平日のミサ・7時から
25日(日)八王子教会③:主日のミサ・7時から
26日(月)成城教会⑩:平日のミサ・7時から
27日(火)成城教会⑪:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑱・平日のミサ・12時から
28日(水)麹町・聖イグナチオ教会⑲・平日のミサ・7時から
29日(木)神奈川県相模原市・相模原教会④:平日のミサ・9時から
30日(金)礼拝会修道院:平日のミサ・7時から
31日(土)田園調布教会⑦:平日のミサ・7時から
以上です。
1日(木)成城教会:平日のミサ・7時から
2日(金)麹町・聖イグナチオ教会:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会②:平日のミサ・18時から
3日(土)麹町・聖イグナチオ教会③:平日のミサ・12時から
〃 町田教会:主日のミサ・18時30分から
4日(日)神奈川県大和市・大和教会:主日のミサ・7時から
〃 神奈川県藤沢市・藤沢教会:主日のミサ・9時30分から
5日(月)成城教会②:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会④:平日のミサ・18時から
6日(火)成城教会③:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑤:平日のミサ・18時から
7日(水)成城教会④:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑥:平日のミサ・18時から
8日(木)成城教会⑤:平日のミサ・7時から
9日(金)成城教会⑥:平日のミサ・7時から
10日(土)高輪教会・平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑦:平日のミサ・12時から
11日(日)麹町・聖イグナチオ教会⑧:主日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑨:主日のミサ・8時30分から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑩:主日のミサ・10時から
〃 目黒教会:主日のミサ・17時から
12日(月)神奈川県相模原市・相模原教会・平日のミサ・8時から
13日(火)八王子教会:平日のミサ・7時から
〃 神奈川県相模原市・相模原教会②:平日のミサ・9時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑪:平日のミサ・12時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑫:平日のミサ・18時から
14日(水)田園調布会:平日のミサ・7時から
〃 赤羽教会:聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭ミサ・9時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑬:平日のミサ・12時から
15日(木)赤羽教会②:聖母の被昇天のミサ・9時から
〃 町田教会②:聖母の被昇天のミサ・19時30分から
16日(金)八王子教会②:平日のミサ・10時から
17日(土)田園調布教会②:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑭:平日のミサ・12時から
〃 成城教会⑦:主日のミサ・18時から
18日(日)田園調布教会③:主日のミサ・7時30分から
〃 町田教会③:主日のミサ・10時30分から
19日(月)田園調布教会④・平日のミサ・7時から
〃 神奈川県藤沢市・藤沢教会②:平日のミサ・9時
20日(火)田園調布教会⑤・平日のミサ・7時から
〃 神奈川県相模原市・相模原教会③:平日のミサ・9時から
21日(水)成城教会⑦:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会1⑮・平日のミサ・18時から
22日(木)成城教会⑧:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑯・平日でもミサ・12時から
23日(金)成城教会⑨:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑰・平日のミサ・18時から
24日(土)田園調布教会⑥:平日のミサ・7時から
25日(日)八王子教会③:主日のミサ・7時から
26日(月)成城教会⑩:平日のミサ・7時から
27日(火)成城教会⑪:平日のミサ・7時から
〃 麹町・聖イグナチオ教会⑱・平日のミサ・12時から
28日(水)麹町・聖イグナチオ教会⑲・平日のミサ・7時から
29日(木)神奈川県相模原市・相模原教会④:平日のミサ・9時から
30日(金)礼拝会修道院:平日のミサ・7時から
31日(土)田園調布教会⑦:平日のミサ・7時から
以上です。
教会日記2019.8.31(カトリック田園調布教会「平日のミサ」土曜日) [教会日記]
今日は、いつもの通勤経路を変更し、東急東横線多摩川駅で途中下車し、カトリック田園調布教会で7時からの平日のミサに与りました。いつもお世話になっている成城教会の朝ミサ(平日のミサ)はお休みですし、田園調布教会は、毎朝「聖務日課」をお祈りしていますので、聖務日課の祈り方の勉強も兼ねてミサに与りました。田園調布教会は、8月は7回目の訪問となります。
7時からのミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、昨日亡くなった妻の母の永遠の安息をお祈りしました。
今夜は通夜、明日は告別式となります。
さあ、今から職場に向かいます!今日は午前中だけ仕事です。
7時からのミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、昨日亡くなった妻の母の永遠の安息をお祈りしました。
今夜は通夜、明日は告別式となります。
さあ、今から職場に向かいます!今日は午前中だけ仕事です。
『貞操の賜物について』のご紹介 [キリスト教と読書]
今日は、『貞操の賜物について』のご紹介です。
著者であるノウァティアヌス(190-210年ごろ~258年)は、フリュギア生まれの改宗したキリスト教徒で、ノウァティアヌス派の創始者、対立教皇(司祭)、神学者です。著書にラテン語による『三位一体論』があり、この『三位一体論』はローマで書かれた最初の本格的な神学書で、神学史上重要な作品とされています。ローマ帝国のデキウス帝の大迫害(249年~250年)時に、背教した(棄教・離教した)信徒の迫害後の教会復帰を認めるか否かの問題で、ウァティアヌスは非妥協,厳格主義の立場からそれを認めず、対立教皇としてローマ教皇(司教)コルネリウスと対立しました。258年頃にローマ皇帝のウァレリアヌスの迫害を受けて殉教したと伝えられていますが、確かなことではないそうです。
この『貞操の賜物について』は、概要としては「主(神)の神殿である信徒は、貞操の徳を守るべきこと、貞操の三段階を指摘した上で、貞操を守るために資する事柄と妨げになる事柄について具体的に示す。」というものです。ノウァティアヌスは、第三章「貞操の徳と淫猥の悪徳」のところで次のとおり説いています。長くなりますが掲載いたします。
「(1)貞操は身体の誇り、徳の飾り、両性の聖化、結婚の絆、血統の保護、羞恥心の守り、貞潔の泉、家庭の平和、一致の冠です。貞操は自分以外の誰も喜ばせません。貞操は常に控え目で、したがって、無知の母です。貞操は常に羞恥心だけを飾りとし、邪悪なことを嫌悪するときこそ、自分の美を意識します。貞操は装飾を求めません。それ自体が優美だからです。
(2)貞操は私たちを主に委ね、キリストに結び合わせます。それは肢体からあらゆる不法な欲望の刺激を追放し、私たちの身体に平和をもたらします。それ自体祝福されたものであり、誰れであろうと、それをふさわしく住まいとする者を祝福します。貞操はその敵からさえ崇められています。敵は貞操を奪い取ることができなければ、それだけいっそう賛嘆します。
(3)その上この徳は、男性にあっては常に(善いものと)是認され、女性によっては熱心に求められています。ですからその敵である淫猥は常に避けるべきです。それに使える者は猥褻(わいせつ)の道具とされ、身体をも魂をも節制しません。
(4)自分の生活態度が一度淫猥に征服されると、その人の全体が欲望の勝利(の軛:くびき)の下に送られ、初めはうっとりと喜ばせておきながら、(次第に)よりいっそうの害を加え、羞恥心を奪い取り、節制の敵となって、しばしば欲望の絶えざる狂気は血にまで入り込み、良心を破壊してしまいます。淫猥は悔い改めのない頑なさの母、人生の麗しい時期の破滅、性の恥辱、血筋と家族への忠実の略奪、自分の子らを誰だかわからない者の情欲に任せ、誰だかわからない、腐敗した者の子孫を引き込んでしまいます。
(5)欲望はしばしば(人間の)性(の法則)を超えて燃え上がり、許されている限界内で抑制できず、そこに満足することは取るに足らぬこととみなし、男の身体の中に新たな快楽を探し求めるだけでなく、異常で人間性に反した、男と男の獣的な(恥ずべき)交わりを遂げなければ満足できなくなります。」
これはいけないことですね~ 昔も今も、いつの世も変わりませんね~(⌒-⌒; )淫猥とは「情欲を刺激する、下品でみだらなこと。また、そのさま。」という意味です。ノウァティアヌスは、淫猥は、人間の魂を奪い取って人生を破滅させ、主(神)の神殿であるはずの身体が破壊されてしまうと忠告し、いかに貞操に努めなければならないかを説いています。
ところで、このブログの8月1日の記事として「読書計画『平凡社ライブラリー 中世思想原典集成 精選(全7巻)』のご紹介」を掲載し、今年の読書計画について書きました………が、本日時点で、計画全体のの4割2分(7巻中3巻読了)しか進んでいません(; ̄O ̄)今年も挫折か!?( T -T )言い訳はしません!引き続き頑張ります!読書計画の詳細は、https://jesus195876.blog.so-net.ne.jp/2019-08-01 をご覧ください。
◯『平凡社ライブラリー「中世思想原典集成2 ラテン教父の系譜」』
発行:(株)平凡社
初版:2019年1月10日
定価:2,400円+税
2『貞操の賜物について』
著者:ノウァティアヌス
訳者:塩谷惇子
著者であるノウァティアヌス(190-210年ごろ~258年)は、フリュギア生まれの改宗したキリスト教徒で、ノウァティアヌス派の創始者、対立教皇(司祭)、神学者です。著書にラテン語による『三位一体論』があり、この『三位一体論』はローマで書かれた最初の本格的な神学書で、神学史上重要な作品とされています。ローマ帝国のデキウス帝の大迫害(249年~250年)時に、背教した(棄教・離教した)信徒の迫害後の教会復帰を認めるか否かの問題で、ウァティアヌスは非妥協,厳格主義の立場からそれを認めず、対立教皇としてローマ教皇(司教)コルネリウスと対立しました。258年頃にローマ皇帝のウァレリアヌスの迫害を受けて殉教したと伝えられていますが、確かなことではないそうです。
この『貞操の賜物について』は、概要としては「主(神)の神殿である信徒は、貞操の徳を守るべきこと、貞操の三段階を指摘した上で、貞操を守るために資する事柄と妨げになる事柄について具体的に示す。」というものです。ノウァティアヌスは、第三章「貞操の徳と淫猥の悪徳」のところで次のとおり説いています。長くなりますが掲載いたします。
「(1)貞操は身体の誇り、徳の飾り、両性の聖化、結婚の絆、血統の保護、羞恥心の守り、貞潔の泉、家庭の平和、一致の冠です。貞操は自分以外の誰も喜ばせません。貞操は常に控え目で、したがって、無知の母です。貞操は常に羞恥心だけを飾りとし、邪悪なことを嫌悪するときこそ、自分の美を意識します。貞操は装飾を求めません。それ自体が優美だからです。
(2)貞操は私たちを主に委ね、キリストに結び合わせます。それは肢体からあらゆる不法な欲望の刺激を追放し、私たちの身体に平和をもたらします。それ自体祝福されたものであり、誰れであろうと、それをふさわしく住まいとする者を祝福します。貞操はその敵からさえ崇められています。敵は貞操を奪い取ることができなければ、それだけいっそう賛嘆します。
(3)その上この徳は、男性にあっては常に(善いものと)是認され、女性によっては熱心に求められています。ですからその敵である淫猥は常に避けるべきです。それに使える者は猥褻(わいせつ)の道具とされ、身体をも魂をも節制しません。
(4)自分の生活態度が一度淫猥に征服されると、その人の全体が欲望の勝利(の軛:くびき)の下に送られ、初めはうっとりと喜ばせておきながら、(次第に)よりいっそうの害を加え、羞恥心を奪い取り、節制の敵となって、しばしば欲望の絶えざる狂気は血にまで入り込み、良心を破壊してしまいます。淫猥は悔い改めのない頑なさの母、人生の麗しい時期の破滅、性の恥辱、血筋と家族への忠実の略奪、自分の子らを誰だかわからない者の情欲に任せ、誰だかわからない、腐敗した者の子孫を引き込んでしまいます。
(5)欲望はしばしば(人間の)性(の法則)を超えて燃え上がり、許されている限界内で抑制できず、そこに満足することは取るに足らぬこととみなし、男の身体の中に新たな快楽を探し求めるだけでなく、異常で人間性に反した、男と男の獣的な(恥ずべき)交わりを遂げなければ満足できなくなります。」
これはいけないことですね~ 昔も今も、いつの世も変わりませんね~(⌒-⌒; )淫猥とは「情欲を刺激する、下品でみだらなこと。また、そのさま。」という意味です。ノウァティアヌスは、淫猥は、人間の魂を奪い取って人生を破滅させ、主(神)の神殿であるはずの身体が破壊されてしまうと忠告し、いかに貞操に努めなければならないかを説いています。
ところで、このブログの8月1日の記事として「読書計画『平凡社ライブラリー 中世思想原典集成 精選(全7巻)』のご紹介」を掲載し、今年の読書計画について書きました………が、本日時点で、計画全体のの4割2分(7巻中3巻読了)しか進んでいません(; ̄O ̄)今年も挫折か!?( T -T )言い訳はしません!引き続き頑張ります!読書計画の詳細は、https://jesus195876.blog.so-net.ne.jp/2019-08-01 をご覧ください。
◯『平凡社ライブラリー「中世思想原典集成2 ラテン教父の系譜」』
発行:(株)平凡社
初版:2019年1月10日
定価:2,400円+税
2『貞操の賜物について』
著者:ノウァティアヌス
訳者:塩谷惇子
教会日記2019.8.30(カトリック礼拝会修道院「平日のミサ」金曜日) [教会日記]
今日は、出勤前に小田急線喜多見駅で途中下車し、カトリック礼拝会修道院(女子修道会)のお御堂(おみどう:聖堂のこと)で、7時からの平日のミサに与りました。成城教会の朝ミサ(平日のミサ)はお休みですので、代わりに女子修道会の礼拝会修道院で朝ミサに与りました。礼拝会修道院は、7月11日(木)以来となります。今日は雨天で蒸し暑いですが、清々しい朝を迎えています!
7時からのミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、そして同僚のお嬢さんの病が癒されますようにと、心を込めてお祈りしてきました。
さぁ、これから仕事です!
7時からのミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、そして同僚のお嬢さんの病が癒されますようにと、心を込めてお祈りしてきました。
さぁ、これから仕事です!
新約聖書:ローマの人々への手紙・第12章・第19節 [聖書]
「愛するみなさん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「主は仰せになる『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』」と書かれています。」
以上は『原文校訂による口語訳 新約聖書 フランシスコ会聖書研究所訳注』から
この聖句は、このブログに5回目の掲載となります。前々回は前後に何節かあって長かったのですが、前回から1節のみの掲載とし、今回は大幅に加筆・修正しました。
「ローマの人々への手紙」は、使徒聖パウロがローマの教会にいる信徒に宛てた書簡ですが、紀元57年〜58年ごろに書かれたものです。この聖句は、旧約聖書の「申命記」第32章(モーセの歌)・第35節に、「復讐も報復もわたし(主)のもの」と書いてあり、また、旧約聖書の「レビ記」第19章・第18節に、「復讐してはならない。お前の民の子らに恨みを抱いてはならない。お前の隣人をお前自身のように愛さなければならない。わたしは主である。」と書いてあるのを根拠とし、ローマにいる信徒たちを戒める言葉になっています。
神様(主)は、人間に復讐・報復することを絶対にお許しになりません。それは復讐・報復することよって、人間に暴力などの罪を犯させることになるからですね。ですから、復讐や報復は人間に代わって神様(主)ご自身がなさるというわけです。
私達が日常において、復讐や報復とまでいかなくても、それに近い怒りの感情を抱くことはよくあることです。相手に騙された、裏切られた、辱しめられた、嘘を広められた、恣意的に悪者にされたなどなど。そうすると、その相手に対して怒って相手を罵ったり、恨んだり、喧嘩になったり、遺恨を残して人間関係を悪くするたげでなく、やがて自分も罪を犯してしまうことになるのです。自分が悪くなくても“怒りを覚えた時”は、「神様が報復する」と自分に言い聞かせることです。決して手出しは愚か、口でも心でも相手を罵ってはいけません。私はすでにこの聖句にしたがっています………とは言っても、まだまだ愚痴は出ますね。これはすべての人が自戒すべきことだと思います。
それでも、「本当に神様は復讐や報復をしてくれるだろうか?」と思うのが人間の常ですね。信仰している人でも不安になる時はあるでしょう。神様を信じていても「すぐ復讐や報復がされないのはどうしてなのか?」、「いつ復讐や報復がなされるのか?」そのようなことも考えられますね。確かにいろいろと頭に浮かびますが、いつ復讐するとか報復するかとかは神様が決めることですし、もっと重要なことは、そもそも神様にとって、そのことが復讐や報復に値することなのか?ということもありますね。神様を信頼して信仰しているのであれば、そのようなことも神様に委ねるわけです。神様は、人間の復讐や報復をお許しにならないわけですから。全面的に神様に委ねるのです。
しかし、憤怒(怒ること)は、カトリック教会における「七つの大罪」の一つでもあります。怒りを心に留めないことが大切なのですが、その前に、そもそも復讐だとか報復だとかを思うこと自体が間違いですね。よくよく考えると、平和を願う愛である神様が、復讐だの報復だのといった人間の願いを聴き入れて実行されるでしょうか。されるわけがないですね。それでも神様が復讐や報復をされるとすれば、それこそ神様のみ摂理であると思います。怒りに駆られて復讐だの報復だのと思い煩うよりも、心を静かにして考えてみると、主がお望みになっていないことくらいすぐに分かることですね。これは私たち信徒の信仰が試されていることではないでしょうか。私はそう思うのです。
【摂理(せつり)】
キリスト教で、創造主である神の、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のこと。神はこれによって被造物をそれぞれの目標に導く。
以上は『原文校訂による口語訳 新約聖書 フランシスコ会聖書研究所訳注』から
この聖句は、このブログに5回目の掲載となります。前々回は前後に何節かあって長かったのですが、前回から1節のみの掲載とし、今回は大幅に加筆・修正しました。
「ローマの人々への手紙」は、使徒聖パウロがローマの教会にいる信徒に宛てた書簡ですが、紀元57年〜58年ごろに書かれたものです。この聖句は、旧約聖書の「申命記」第32章(モーセの歌)・第35節に、「復讐も報復もわたし(主)のもの」と書いてあり、また、旧約聖書の「レビ記」第19章・第18節に、「復讐してはならない。お前の民の子らに恨みを抱いてはならない。お前の隣人をお前自身のように愛さなければならない。わたしは主である。」と書いてあるのを根拠とし、ローマにいる信徒たちを戒める言葉になっています。
神様(主)は、人間に復讐・報復することを絶対にお許しになりません。それは復讐・報復することよって、人間に暴力などの罪を犯させることになるからですね。ですから、復讐や報復は人間に代わって神様(主)ご自身がなさるというわけです。
私達が日常において、復讐や報復とまでいかなくても、それに近い怒りの感情を抱くことはよくあることです。相手に騙された、裏切られた、辱しめられた、嘘を広められた、恣意的に悪者にされたなどなど。そうすると、その相手に対して怒って相手を罵ったり、恨んだり、喧嘩になったり、遺恨を残して人間関係を悪くするたげでなく、やがて自分も罪を犯してしまうことになるのです。自分が悪くなくても“怒りを覚えた時”は、「神様が報復する」と自分に言い聞かせることです。決して手出しは愚か、口でも心でも相手を罵ってはいけません。私はすでにこの聖句にしたがっています………とは言っても、まだまだ愚痴は出ますね。これはすべての人が自戒すべきことだと思います。
それでも、「本当に神様は復讐や報復をしてくれるだろうか?」と思うのが人間の常ですね。信仰している人でも不安になる時はあるでしょう。神様を信じていても「すぐ復讐や報復がされないのはどうしてなのか?」、「いつ復讐や報復がなされるのか?」そのようなことも考えられますね。確かにいろいろと頭に浮かびますが、いつ復讐するとか報復するかとかは神様が決めることですし、もっと重要なことは、そもそも神様にとって、そのことが復讐や報復に値することなのか?ということもありますね。神様を信頼して信仰しているのであれば、そのようなことも神様に委ねるわけです。神様は、人間の復讐や報復をお許しにならないわけですから。全面的に神様に委ねるのです。
しかし、憤怒(怒ること)は、カトリック教会における「七つの大罪」の一つでもあります。怒りを心に留めないことが大切なのですが、その前に、そもそも復讐だとか報復だとかを思うこと自体が間違いですね。よくよく考えると、平和を願う愛である神様が、復讐だの報復だのといった人間の願いを聴き入れて実行されるでしょうか。されるわけがないですね。それでも神様が復讐や報復をされるとすれば、それこそ神様のみ摂理であると思います。怒りに駆られて復讐だの報復だのと思い煩うよりも、心を静かにして考えてみると、主がお望みになっていないことくらいすぐに分かることですね。これは私たち信徒の信仰が試されていることではないでしょうか。私はそう思うのです。
【摂理(せつり)】
キリスト教で、創造主である神の、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のこと。神はこれによって被造物をそれぞれの目標に導く。
教会日記2019.8.29(カトリック相模原教会「平日のミサ」木曜日) [教会日記]
今日は、交替勤務期間の出勤担当日ではありませんが、午後から出張のがあるため、午前中は神奈川県相模原市にあるカトリック相模原教会の午前9時からの平日でもミサに与りました。今日はよく晴れて、久しぶりに35度近くまで気温が上昇しそうですね。今日も清々しい朝を迎えています!
ミサでは、「洗礼者聖ヨハネの殉教」の記念日をお祝いしてお祈りし、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、また、同僚のお嬢さんの病が完治しますようにと、心を込めてお祈りしました。
ミサでは、「洗礼者聖ヨハネの殉教」の記念日をお祝いしてお祈りし、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、また、同僚のお嬢さんの病が完治しますようにと、心を込めてお祈りしました。
「洗礼者聖ヨハネの殉教」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]
今日は、「洗礼者聖ヨハネの殉教」の記念日です。このブログに2018年8月29日に掲載した記事を今年もそのまま掲載いたします。
洗礼者聖ヨハネ(紀元前6年から前2年頃~36年頃)は、新約聖書に登場する古代ユダヤの預言者で、民衆に悔い改め(回心)を呼びかけ、ヨルダン川で罪の赦しとなる洗礼を授けていました。イエス様に洗礼を授けられたのもこのヨハネです。新約聖書の「ルカによる福音書」によれば、父は祭司ザカリア、母はエリサベトです。
◯新約聖書:マルコによる福音書・第1章・第2~第9節
「預言者イザヤの書に、「見よ、わたしはあなたの先にわたしの使い遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その歩む道をまっすぐにせよ。』」と書き記されているように、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、罪の赦しへと導く悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた。ユダヤの全地方、またエルサレムに住むすべての人がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けていた。ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、蝗(いなご)と野蜜を食物としていた。ヨハネは、述べ伝えて言った「わたしよりも力のある方が、後からおいでになる。わたしは身をかかめて、その方の履き物の紐(ひも)を解く値打さえない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊によって洗礼をお授けになる。」そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになった。」
題名は「キリストの洗礼」です。ヴェロッキオ作ですが、後にレオナルド・ダ・ヴィンチが完成させています。この場面を画いた絵は多くありますが、構図的に主題が分かりやすく画かれている絵ですね。イエス様は中央、右側が洗礼者聖ヨハネ、左側はイエス様にお仕えしている天使です。
当時、ローマ皇帝の許しを得てヘロデ・アンティパス王がこの地方を治めていましたが、彼は弟の妻ヘロディアを自分の妻とするなど、非難されるべき生活をしていたため、ヨハネから戒められました。怒ったヘロデはヨハネを捉えて牢にいれていました。ある時、ヘロデの誕生日の宴席で、踊りを披露したヘロディアの娘サロメに、ヘロデは褒美として望むものは何でも与えることを約束しました。そこで、ヨハネを憎んでいたヘロディアは、娘にヨハネの首を望ませました。ヘロデは、人びとが信頼しているヨハネを殺すことに心を痛めましたが、公の場で誓った約束であったため、ヨハネの首を斬らせ殉教したのです。
◯新約聖書:マルコによる福音書・第6章・第17~第28節
「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。」
グイド・レーニ(1575年~1642年)は、17世紀前半、バロック期に活動したイタリアの画家です。アンニーバレ・カラッチらによって創始されたボローニャ派に属する画家で、ラファエロ風の古典主義的な画風を特色としています。自信に満ちた様子でヨハネの髪を掴むヘロディアです。悪女ぶりがにじみ出ていますね
(; ̄O ̄)。
洗礼者聖ヨハネ(紀元前6年から前2年頃~36年頃)は、新約聖書に登場する古代ユダヤの預言者で、民衆に悔い改め(回心)を呼びかけ、ヨルダン川で罪の赦しとなる洗礼を授けていました。イエス様に洗礼を授けられたのもこのヨハネです。新約聖書の「ルカによる福音書」によれば、父は祭司ザカリア、母はエリサベトです。
◯新約聖書:マルコによる福音書・第1章・第2~第9節
「預言者イザヤの書に、「見よ、わたしはあなたの先にわたしの使い遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その歩む道をまっすぐにせよ。』」と書き記されているように、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、罪の赦しへと導く悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた。ユダヤの全地方、またエルサレムに住むすべての人がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けていた。ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、蝗(いなご)と野蜜を食物としていた。ヨハネは、述べ伝えて言った「わたしよりも力のある方が、後からおいでになる。わたしは身をかかめて、その方の履き物の紐(ひも)を解く値打さえない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊によって洗礼をお授けになる。」そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになった。」
題名は「キリストの洗礼」です。ヴェロッキオ作ですが、後にレオナルド・ダ・ヴィンチが完成させています。この場面を画いた絵は多くありますが、構図的に主題が分かりやすく画かれている絵ですね。イエス様は中央、右側が洗礼者聖ヨハネ、左側はイエス様にお仕えしている天使です。
当時、ローマ皇帝の許しを得てヘロデ・アンティパス王がこの地方を治めていましたが、彼は弟の妻ヘロディアを自分の妻とするなど、非難されるべき生活をしていたため、ヨハネから戒められました。怒ったヘロデはヨハネを捉えて牢にいれていました。ある時、ヘロデの誕生日の宴席で、踊りを披露したヘロディアの娘サロメに、ヘロデは褒美として望むものは何でも与えることを約束しました。そこで、ヨハネを憎んでいたヘロディアは、娘にヨハネの首を望ませました。ヘロデは、人びとが信頼しているヨハネを殺すことに心を痛めましたが、公の場で誓った約束であったため、ヨハネの首を斬らせ殉教したのです。
◯新約聖書:マルコによる福音書・第6章・第17~第28節
「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。」
グイド・レーニ(1575年~1642年)は、17世紀前半、バロック期に活動したイタリアの画家です。アンニーバレ・カラッチらによって創始されたボローニャ派に属する画家で、ラファエロ風の古典主義的な画風を特色としています。自信に満ちた様子でヨハネの髪を掴むヘロディアです。悪女ぶりがにじみ出ていますね
(; ̄O ̄)。
教会日記2019.8.28(カトリック麹町・聖イグナチオ教会「平日のミサ」水曜日) [教会日記]
今日は、いつもお世話になっているカトリック成城教会が、31日(土)までミサがお休みとなりましたので、通勤経路を変えて、四ツ谷にあるカトリック麹町・聖イグナチオ教会の7時からの平日のミサに与りました。毎度のことながら、聖イグナチオ教会の早朝ミサは、いつもより20分〜30分遅く起きても開式に間に合うのです。天候がよくありませんが、今日も清々しい朝を迎えています。
早朝7時のアンジェラスの鐘が鳴り響く中、「お告げの祈り」をお祈りし、ミサでは、「聖アウグスティヌ司教教会博士」の記念日をお祝いしてお祈りし、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、また、同僚のお嬢さんの病が完治しますようにと、心を込めてお祈りしました。
さぁ、これから職場にむかいます!
早朝7時のアンジェラスの鐘が鳴り響く中、「お告げの祈り」をお祈りし、ミサでは、「聖アウグスティヌ司教教会博士」の記念日をお祝いしてお祈りし、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、また、同僚のお嬢さんの病が完治しますようにと、心を込めてお祈りしました。
さぁ、これから職場にむかいます!
「聖アウグスティヌ司教教父教会博士」のお話し [聖人・福者・尊者]
今日は、聖アウグスティヌス司教教父教会博士の記念日です。このブログに2018年8月28日に掲載した記事を一部加筆して掲載いたします。
アウグスティヌス(354年11月13日~430年8月28日)は、北アフリカのタガステに生まれました。若いころは放蕩な生活(同棲をして子どもを作ったり………)を送り、マニ教(邪教)に入信しましたが、ついに回心してキリスト教カトリックの信仰を受け入れ、387年に現在のイタリアのミラノでアンブロジウス司教(四大ラテン教父・西方の四大教会博士の一人で聖人)から洗礼を受けました。祖国である北アフリカに帰って修道生活を送り、やがてヒッポの司教に選ばれました。以後34年間、模範的な司牧者として説教と多くの著作によって市民を教え導き、当時の邪教や間違った教えに果敢に立ち向かい、深遠な学識をもってキリスト教を宣教しました。
古代キリスト教時代の司祭、神学者、哲学者であり説教者です。“ラテン教父”とよばれる一群の神学者たちの一人で、教会博士の称号を持っています。キリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献し、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力を及ぼしました。その思想的影響は、西欧のキリスト教に止まらず、西洋思想全体に及んでいるといっても過言ではありません。アウグスティヌス自身は、プラトン・新プラトン主義、ストア思想に影響を受けていました。すでにギリシア教父はギリシア思想とキリスト教の統合に進んでいましたが、アウグスティヌスにおいて、新プラトン主義とキリスト教思想が統合されたことは、西洋思想史を語る上で外すことができないほど重要なものとなっています。その思想は、近世〜現代の哲学者であるアルトゥル・ショーペンハウアーやフリードリヒ・ニーチェにまで影響を与えているくらいです。
有名なアウグスティヌの著作『告白録』です。この著作は、アウグスティヌスの青年時代の罪深い生活からキリスト教への目覚めをたどっており、40歳くらいまでの自叙伝となっています。西欧において最初期に書かれていた自伝にはよく見られる内容であり、その後中世までおよそ1000年にわたってキリスト教徒の作家に強い影響を及ぼす雛形となりました。
◯著作名『告白録』
著者:アウレリアス・アウグスティヌス
訳者:宮谷宣史
発行:教文社
初版:2012年2月29日
定価:4,800円+税
………ということですが、私は、恐れ多くもこの超偉大な聖人の御名(みな)を自分の洗礼名にしてしまいました!………あまりにも偉大すぎました!(; ̄O ̄)が、誠に恐れ多いことですが、洗礼名をアウグスティヌスとしたのも、紆余曲折を経てキリスト教に回心した非常に人間臭いところのある、偉大な聖人を尊敬しているからなのですよ。
フィリップ・ド・シャンパーニュの1645年頃~1650年頃の作品です。ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵
なお、醸造業者、印刷業者、神学者の守護聖人であり、多くの都市の守護聖人ともなっています。カトリック教会、正教会、聖公会、ルーテル教会で聖人となっています。母親のモニカも聖人になっています。日本の正教会(日本ハリストス正教会)では福アウグスティンと呼ばれています。なお、イングランドの初代カンタベリー大司教も同名のアウグスティヌスであるため、聖アウグスティヌスは、これと区別するため「ヒッポの聖アウグスティヌス」と呼ばれています。(「ヒッポ」は、聖アウグスティヌスが司教を務め亡くなった北アフリカ北部の都市名のこと。)
【教父】
教父(きょうふ)とは、キリスト教用語で古代から中世初期、2世紀~8世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、とくに正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人々のことです。古代キリスト教時代に活躍した「四大教父(偉大な4人の教父)」は次のとおりです。
聖アンブロジウス
聖アウグスティヌス
聖ヒエロニムス
聖グレゴリウス1世教皇(大聖グレゴリウス)
【教会博士】
教会博士(きょうかいはかせ)とは、キリスト教カトリック教会おいて、聖人の中でも特に学識にすぐれ、信仰理解において偉大な業績を残した人に送られる称号のことです。
アウグスティヌス(354年11月13日~430年8月28日)は、北アフリカのタガステに生まれました。若いころは放蕩な生活(同棲をして子どもを作ったり………)を送り、マニ教(邪教)に入信しましたが、ついに回心してキリスト教カトリックの信仰を受け入れ、387年に現在のイタリアのミラノでアンブロジウス司教(四大ラテン教父・西方の四大教会博士の一人で聖人)から洗礼を受けました。祖国である北アフリカに帰って修道生活を送り、やがてヒッポの司教に選ばれました。以後34年間、模範的な司牧者として説教と多くの著作によって市民を教え導き、当時の邪教や間違った教えに果敢に立ち向かい、深遠な学識をもってキリスト教を宣教しました。
古代キリスト教時代の司祭、神学者、哲学者であり説教者です。“ラテン教父”とよばれる一群の神学者たちの一人で、教会博士の称号を持っています。キリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献し、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力を及ぼしました。その思想的影響は、西欧のキリスト教に止まらず、西洋思想全体に及んでいるといっても過言ではありません。アウグスティヌス自身は、プラトン・新プラトン主義、ストア思想に影響を受けていました。すでにギリシア教父はギリシア思想とキリスト教の統合に進んでいましたが、アウグスティヌスにおいて、新プラトン主義とキリスト教思想が統合されたことは、西洋思想史を語る上で外すことができないほど重要なものとなっています。その思想は、近世〜現代の哲学者であるアルトゥル・ショーペンハウアーやフリードリヒ・ニーチェにまで影響を与えているくらいです。
有名なアウグスティヌの著作『告白録』です。この著作は、アウグスティヌスの青年時代の罪深い生活からキリスト教への目覚めをたどっており、40歳くらいまでの自叙伝となっています。西欧において最初期に書かれていた自伝にはよく見られる内容であり、その後中世までおよそ1000年にわたってキリスト教徒の作家に強い影響を及ぼす雛形となりました。
◯著作名『告白録』
著者:アウレリアス・アウグスティヌス
訳者:宮谷宣史
発行:教文社
初版:2012年2月29日
定価:4,800円+税
………ということですが、私は、恐れ多くもこの超偉大な聖人の御名(みな)を自分の洗礼名にしてしまいました!………あまりにも偉大すぎました!(; ̄O ̄)が、誠に恐れ多いことですが、洗礼名をアウグスティヌスとしたのも、紆余曲折を経てキリスト教に回心した非常に人間臭いところのある、偉大な聖人を尊敬しているからなのですよ。
フィリップ・ド・シャンパーニュの1645年頃~1650年頃の作品です。ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵
なお、醸造業者、印刷業者、神学者の守護聖人であり、多くの都市の守護聖人ともなっています。カトリック教会、正教会、聖公会、ルーテル教会で聖人となっています。母親のモニカも聖人になっています。日本の正教会(日本ハリストス正教会)では福アウグスティンと呼ばれています。なお、イングランドの初代カンタベリー大司教も同名のアウグスティヌスであるため、聖アウグスティヌスは、これと区別するため「ヒッポの聖アウグスティヌス」と呼ばれています。(「ヒッポ」は、聖アウグスティヌスが司教を務め亡くなった北アフリカ北部の都市名のこと。)
【教父】
教父(きょうふ)とは、キリスト教用語で古代から中世初期、2世紀~8世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、とくに正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人々のことです。古代キリスト教時代に活躍した「四大教父(偉大な4人の教父)」は次のとおりです。
聖アンブロジウス
聖アウグスティヌス
聖ヒエロニムス
聖グレゴリウス1世教皇(大聖グレゴリウス)
【教会博士】
教会博士(きょうかいはかせ)とは、キリスト教カトリック教会おいて、聖人の中でも特に学識にすぐれ、信仰理解において偉大な業績を残した人に送られる称号のことです。
教会日記その二2019.8.27(カトリック麹町・聖イグナチオ教会「平日のミサ」火曜日) [教会日記]
今日は、交替勤務期間の出勤担当日ではないため、午前中に業務の段取りをつけて仕事を終わらせ、四ツ谷ああるカトリック麹町・聖イグナチオ教会の正午12時の平日でもミサ(本日第2回目のミサ)に与りました。ミサが終わってから、イエズス会日本管区本部附属の聖三木図書館で、仕事関係の勉強に集中しょうと予定していたのですが、なんと!お休みでした( ̄◇ ̄;)重い勉強道具一式を持ってきたのに( i _ i )痛恨の極みであります!今年は室内工事があるため、例年に比べ休館日が長いのでした(⌒-⌒; )どこか涼しいところを探しますか………。
正午12時のアンジェラスの鐘が鳴り響く中、「お告げの祈り」をお祈りし、ミサでは、「聖モニカ」の記念日をお祝いしてお祈りし、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、また、同僚のお嬢さんの病が完治しますようにと、心を込めてお祈りしました。
正午12時のアンジェラスの鐘が鳴り響く中、「お告げの祈り」をお祈りし、ミサでは、「聖モニカ」の記念日をお祝いしてお祈りし、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、また、同僚のお嬢さんの病が完治しますようにと、心を込めてお祈りしました。