教会日記2019.8.23(カトリック成城教会「平日のミサ」金曜日) [教会日記]

今朝も出勤前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城教会の7時からの平日のミサ(本日第1回目のミサ)に与りました。なんか疲れが溜まっているのか、身体が怠いですね。でも、今日も清々しい朝を迎えています!

6時50分から「お告げの祈り」をお祈りし、7時からのミサでは、「天の元后聖マリア」の記念日をお祝いしてお祈りし、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、また、同僚のお嬢さんの病が完治しますようにと、心を込めてお祈りしました。
さあ、これから仕事に行きます!
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新約聖書:コリントの人々への第二の手紙・第13章・第13節 [聖書]

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、みなさん一同とともにありますように。」

この聖句は、「コリントの人々への第二の手紙」の一番最後(第13章・第13節)のところにあります。ミサでは、最初のところで司祭(神父)が信徒に向かって話す言葉です。
次のとおりです。
<入祭の歌>で、信徒が聖歌を歌う中、司祭(神父)、助祭、聖体奉仕者、祭壇奉仕者(侍者)が、聖堂の入口から十字架を立てて行列して入堂し、祭壇まで行きます。そして、<入祭のあいさつ>があります。
司祭が「父と子と聖霊のみ名によって。」と言いながら十字架のしるしをしますので、信徒も十字のしるしをして「アーメン」と応えます。その次に司祭が「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。」と信徒に向かって両手を広げて言います。すると信徒は、「また司祭とともに。」と言います。そして、続いて「回心の祈り」に入ります。

『原文校訂による口語訳新約聖書 フランシスコ会聖書研究所訳註』にある訳註は、次のとおりとなっています。
「本節(13節)は、新約聖書中に見られる明白な形での「三位一体定式文」の一つを含んでいる。ここで、「聖霊」は、「神」並びに「子」であるイエス・キリストと同格に置かれている。「キリストの恵み」は、キリストから与えられる恵み、「神の愛」は、神のわれわれに対する愛とそれぞれ解されるので、「聖霊の交わり」の場合も聖霊に由来する交わりの意で、キリスト者が、「父」、「子」並びに「聖霊」自身とともにする「交わり」であり、また、それに基づくキイスト者相互の「交わり」であると言えよう。」と訳註しています。

この聖句は、キリスト教の根本である「三位一体の神」を上手く表現している素晴らしい言葉だと思います。「三位一体の神」とは、「イエス・キリストのお父さんである神様、その子どもであるイエス・キリストも神様で、父である神様と子である神様(イエス・キリスト)から出る“聖霊”も神様であり、それが3つの神様ではなく、1つの神様であるということ。」つまり3つの位各(ペルソナ)であって、1つの神様ということです。
ご参考に、このブログの2018年10月2日に掲載した「正統なキリスト教信仰のために!」をご覧ください。アドレスは、https://jesus195876.blog.so-net.ne.jp/2018-10-02-5 です。

私は、この聖句を私的な手紙の一番最後に「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、◯◯◯◯さんとともにありますように。」と書いています。相手が信徒であれば理解できますが、信徒ではない一般の方の場合は、「主イエス。キリストの恵み、神の愛」までは理解できても、「聖霊の交わり」は分からないでしょうね。また、お祈りとしても唱えることがあります。三位一体の神様のことが入っている祈祷文ですから最強のお祈りではないかと思うのですが(⌒-⌒; )
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今日の日記2019.8.22(忘れ物!) [日記]

実は、昨夜から内心穏やかではありませんでした。それは、昨夜の聖イグナチオ教会でのミサの帰り、リュック(バックパック)をJR中央線特別快速青梅行きの列車の網棚の上に忘れ、乗り換えのために新宿駅で下車したのでした。気がついた時にはドアが閉まっていました( ̄◇ ̄;)
リュックの中には、聖書、祈祷書2冊、仕事用のダイアリー(手帳)、仕事関係の参考書など勉強道具一式が入っています。敗因は、携帯メールに囚われの身になっていたからですね。電車の網棚に忘れるのは、この3年で4回目です!………いよいよボケてきたか?ですね。(⌒-⌒; )

とにかく昨夜は、こういう時に毎度お世話になっている聖アントニオ司祭教会博士様にお祈りを捧げました。聖アントニオ様は、遺失物の聖人でもありますから、ひたすら忘れ物が見つかるようにお願いのお祈りをしました。そうしたら、昨夜手続きをした遺失物取扱所から朝一番で携帯電話に「ありました!」と連絡がありました!よかったです!聖アントニオ様様です!感謝感謝です!聖アントニオ様のことは、このブログの2019年6月13日に「聖アントニオのお話し」として掲載してありますからご覧ください。ちなみに、お祈りの祈祷文も掲載しています。アドレスは、https://jesus195876.blog.so-net.ne.jp/2019-06-13 です。
先ほど、リュックを保管していただいたJR青梅駅に受け取りに行ってきましたが………青梅は遠かった〜(⌒-⌒; )
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教会日記その二2019.8.22(カトリック麹町・聖イグナチオ教会「平日のミサ」木曜日) [教会日記]

今日は、交替勤務期間の出勤担当日ではないため、午前中に仕事を終わらせてから、四ツ谷にあるカトリック麹町・聖イグナチオ教会の正午12時からの平日のミサ(本日第2回目のミサ)に与りました。青梅市(JR青梅駅)に用事もあり、午後の時間を有効に使います!

正午12時のアンジェラスの鐘が響き渡る中、「お告げの祈り」をお祈りし、ミサでは「天の元后聖マリア」の記念日をお祝いしてお祈りしました。そして、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますようにとお祈りし、同僚のお嬢さんの病気が完治するようにと心を込めてお祈りしました。
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教会日記2019.8.22(カトリック成城教会「平日のミサ」木曜日) [教会日記]

今朝も出勤前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城教会の7時からの平日のミサ(本日より1回目のミサ)に与りました。このブログに今朝記事を掲載しましたが、今日は「天の元后聖マリア」の記念日ですね。毎日、聖母マリア様にお祈りしていることもあり、今日は特別に力がはいります!(⌒-⌒;)今日も清々しい朝を迎えています!

6時50分から「お告げの祈り」をお祈りし、7時からのミサでは、「天の元后聖マリア」の記念日をお祝いしてお祈りし、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、また、同僚のお嬢さんの病が完治しますようにと、心を込めてお祈りしました。
さぁ、これから仕事です!
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「天の元后聖マリア」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日は、「天の元后聖アリア」の記念日です。このブログの2018年8月22日に掲載した記事を今年もそのまま掲載いたします。この記念日は、1954年に教皇ピオ12世が発表した回勅“Ad Caeli eginam”(アド・チェリ・レジナム)によって定められました。この回勅のなかで、教皇は「マリアは神の母であり、新しいエバとしてイエスのあがないの業に参与した。また、卓越した完徳と、力強い取り次ぎによって、天の元后と呼ばれるにふさわしい方である」と述べています。以前は5月31日でしたが、典礼暦の改訂後、聖母被昇天の8日目にあたる8月22日に祝われるようになりました。
スペインの画家ディエゴ・ベラスケスの「聖母戴冠(1641~1644年)」です。スペイン・マドリッドにあるプラド美術館蔵です。
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聖書の中には、イエス様が王として描かれている箇所がいくつかあります(マタイ27.11、黙示録19.16など)が、聖母マリア様は、大天使ガブリエルから生まれる子が「いと高き方の子」であり、ダビデの王座が与えられることを告げられていました。その時から、聖母マリア様はイエス・キリストの母となり、生涯にわたって特別にイエス様の救いの業に協力しました。4世紀の教父、聖エフレム(306年ごろ-373年)は多くの賛歌を残し、マリアを「元后、女王」と呼んで讃えています。その後、この称号は教父や教会博士たちによって好んで用いられ、人々に親しまれるようになりました。

カトリック教会の公会議である第2バチカン公会議で発表された会議文書の「教会憲章」は、「原罪のいかなる汚れにも染まらずに守られていた汚れないおとめは、地上生活の道程を終えて、肉体と霊魂ともども天の栄光に引き上げられ、そして主からすべてのものの女王として高められた。それは、主たる者の主であり(黙示録19.16)、罪と死の征服者である自分の子に、マリアがよく似たものとなるためであった」と述べています。天に上げられた聖母マリア様は、王であるイエス様の栄光にあずかり、女王として讃えられ、すべての人のために恵みを取り次いてくださっています。

聖母マリア様を讃えて祈る祈祷文はたくさんありますが、次に掲載する聖母マリア様へのお祈りは、伝統的なお祈りの祈祷文です。短い祈祷文ですので、見ながらではなく覚えてお祈りしたいものですね。このブログの2017年9月9日に掲載したものを再掲載しました。
◯救い主を育てた母(アルマ・レデンプトリス・マーテル)
「救い主を育てた母、あなたは開かれた天の門
光り輝く海の星
倒れる者に走り寄り、力づけてくださる方。
すべてのものがたたえる中で、造り主を生んだ方。
ガブリエルから言葉を受けた永遠(とわ)の乙女よ、
罪深いわれらのために祈り給え。」

◯天の元后 天の女王(アヴェ・レジナ・チュロルム)
「天の元后 天の女王、
世に光を生み出した、いのちの泉、天の門
よろこべ、輝く乙女、すべてにまさる尊い乙女
われらのためにキリストに祈り給え。」

◯元后あわれみの母(サルヴェ・レジナ)
「元后、あわれみの母、われらのいのち、喜び、希望。
旅路からあなたに叫ぶエバの子、なげきながら、
秋ながらも、涙の谷にあなたを慕う。
われらのためにとりなすかた、憐れみの目をわれらに注ぎ、
とうといあなたの子イエスを、旅路の果てに示してください。
おお、慈しみ、恵みあふれる、喜びのおとめマリア。」

◯天の元后 よろこび給え アレルヤ(レジナ・チェリ)
「天の元后、よろこび給え アレルヤ
あなたに宿られた方は アレルヤ
仰せのように復活された アレルヤ
われらのために祈り給え アレルヤ」

◯神の御母(みはは)よ(スブ・トゥウム・プレシディウム)
「神の御母よ、わたしたちはご保護を仰ぎます。
いつ、どこでもわたしたちの祈りを聴き入れ、
御助け(おんたすけ)をもってすべての危険から守ってください。」
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教会日記その二2019.8.21(カトリック麹町・聖イグナチオ教会「平日のミサ」水曜日) [聖書]

今日は、仕事が終わってから、四ツ谷にあるカトリック麹町・聖イグナチオ教会の18時からの平日のミサに (本日より2回目の前ミサ)に与りました。身体の調子が今一つよくないこともあって、帰宅しょうと思ったのですが、頭(「足」ではなく)が自然にミサに向いていました( ̄◇ ̄;)しかし、今日も感謝することはたくさんあり、回心することもありました。やはりミサに与ってよかったです(⌒-⌒; )

夕刻18時のアンジェラスの鐘が響き渡る中、「お告げの祈り」をお祈りし、ミサでは「聖ピオ10世教皇」の記念日をお祝いしてお祈りしました。そして、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますようにとお祈りし、同僚のお嬢さんの病気が完治するようにと心を込めてお祈りしました。
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教会日記2019.8.21(カトリック成城教会「平日のミサ」水曜日) [教会日記]

今日は、出勤前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城教会の7時からの平日のミサ(本日第1回目のミサ)に与りました。8月10日からのお盆休みも昨日で終わり、今日から8月末日まで交替勤務となります。今日も暑くなりそうですが、清々しい朝を迎えています!

6時50分から「お告げの祈り」をお祈りし、7時からのミサでは、聖ピオ10世教皇の記念日をお祝いしてお祈りし、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、また、同僚のお嬢さんの病が完治しますようにと、心を込めてお祈りしました。
さぁ、これから仕事です!
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新約聖書:ルカによる福音書・第15章・第1〜第7節 [聖書]

「さて、徴税人や罪人たちがみな話しを聞こうとして、イエスのもとに近寄ってきた。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを受け入れて、食事をともにしている」とつぶやいた。そこで、イエスは彼らに次の喩えを語られた。
あなた方のうちに、百匹の羊を持っている者がいるとする。そのうちの一匹を見失ったら、九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで、跡をたどって行くのではないだろうか。そして見つけ出すと、喜んで自分の肩に乗せて、家に帰り、友人や近所の人々を呼び集めて言うだろう、『一緒に喜んでください。見失ったわたしの羊を見つけましたから』。あなた方に言っておく、このように、悔い改める一人の罪人のためには、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人のためよりも、もっと大きな喜びが天にある。」

このイエス様のご絵は、とても神様への愛に深い敬虔な方からいただきました。この夏の思い出ですね。
罪人の私にぴったりなご絵です………ということは、イエス様の肩に乗っているのは私ということですね。
(⌒-⌒; )
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この聖句ですが、まず「百匹の羊を持っている者(良い羊飼い)」とは神様(=イエス・キリスト)のことで、「見失った一匹の羊」とは罪人のことを指します。そして、九十九匹を荒れ野に残すという危険を冒してまでも、良い羊飼いは見失った一匹の羊のために探し出そうとするのです。つまり、イエス・キリストは、羊飼いにとっての見失った羊、すなわち神様にとって、一人の罪人はそれ程までに大切な存在なのだと説いているのですね。

このたとえ話しは、イエス・キリストが、徴税人や罪人を招いて食事をしていることをファリサイ派の人たちが咎めたことに対する、イエス・キリストの反論から始まっています。この「ルカによる福音書」と同じ内容が載っている「マタイによる福音書 (第18章・第10〜第14節)」では、イエス・キリストは弟子たちに向かって、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、天におられるあなた方の父のみ旨ではない。」と教えています。

「悔い改める一人の罪人のためには、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人のためよりも、もっと大きな喜びが天にある。」とするイエス・キリストの使命について語られている聖句
◯新約聖書:ルカによる福音書・第5章・第30~第32節
「ファリサイ派の人々やその他の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
◯新約聖書:マタイによる福音書・第9章・第10〜第13節
「イエスが家で食卓に着いておられた時のことである。徴税人や罪人たちが大勢やって来て、イエスや弟子たちとらともに食卓に着いていた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに言った。「どうして、あなた方の先生は、徴税人や罪人と食事をともにすれるのか」。これを聞いて、イエスは仰せになった、「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。『わたしが望むのは犠牲(いけにえ)ではなく、憐れみである』ということが何を意味するか、学んできなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

では、説明いたします。
この部分で、「ファリサイ派の人々(やその他の律法学者)」という人達が出てきますが、このファリサイ派・律法学者達とは、自分達イスラエル人は、神に選ばれた唯一の民族で、神様との特別な契約を結んだ“神の民”であり、救いは“神の民”だけのものだと信じていました。ですから、イスラエル人でない異邦人は、神様の救いから除外されており、(神様の教えではなく、自分たち人間の勝手な解釈によって形骸化している)律法を守らない者は、血筋ではイスラエル人であっても、異邦人と同じように救いから除外される「罪人」と考えていました。
その後に「徴税人(ちょうぜいにん)」という人達がでてきますが、この徴税人とは、当時のユダヤ地方(イスラエル辺り)を属州として支配していたローマ帝国のために、税金の取り立てを請け負ったユダヤ人のことです。ローマ人(異邦人)支配者のために、同胞から税を取り立て、定められた額より多く取り立てるということで、同じユダヤ人から憎まれて「罪人」として嫌われていたのです。

イエス・キリストは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と説いています。医者=イエス・キリスト、健康な人=正しい人、病人=罪人という喩えになっていますが、「罪人を招いて悔い改めさせるためである。」ということですね。健康な人なら医者はいらないのであって、医者が必要なのは病人です。それと同じく正しい人であれば悔い改めはいらないのであって、罪人は悔い改めが必要であり、イエス・キリストの救いを必要としているのです。
イエス・キリストは、罪人が悔い改めて救われることを望み、そのために宣教活動をされました。徴税人も他の人と同じ人間であり、徴税人としてのこれまでの行いも、これからの生き方によっては、それまでの悪い行いは赦され、新しい生き方が開けることをイエス・キリストは教えているのです。
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「聖ベルナルド修道院長教会博士」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日は、聖ベルナルド修道院長教会博士の記念日です。このブログの2018年8月20日に掲載したものを再度掲載いたします。
クレルヴォーのベルナルド(ベルナルドゥス又はベルナール:フランス・1090年~1153年)は、12世紀のフランス出身の神学者で、すぐれた説教家としても有名です。キリスト教カトリック教会とキリスト教聖公会の聖人で、33人の教会博士のうちの一人です。神学と霊的生活に関する多くの著作を残し、1153年8月20日に死去しました。今日8月20日が記念日となっています。

《聖ベルナルドの前に現れた聖母マリア》は、画家のフラ・バルトロメオによって制作された作品です。制作年は1504年から1507年で、フィレンツェ ウフィッツィ美術館に所蔵されています。左手に天使たちが無数に描かれ、天使達によってイエス様を抱いた聖母マリア様が中央に押し出されるような形になっています。画面の右側には、ひざまづく聖ベルナルド、そして黒い修道服の聖ベネデット、福音者聖ヨハネが立っています。
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フランスのフォンテーヌで、騎士テセランの子として生まれ、家族からは軍人になることを期待されていましたが、彼は修道院に入りたいと思い、1111年にシトー修道院に入りました。1115年に創設されたクレルヴォー修道院の院長に若いベルナルドが任命され、このことから彼は“クレルヴォーのベルナルド”と呼ばれることになりました。
ベルナルドは、聖性と自己節制の厳しさ、そして説教師としての優れた資質によって彼の名声は高まっていき、修道院には多くの人が集まりました。そして、その卓越した指導力と模範的行動(生活)によって修道士達を「完徳」に導いたそうです。教会の分裂が生じると、平和と一致を回復するため、ヨーロッパ中を巡り歩いて努力しました。
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