教会日記2019.7.10(カトリック礼拝会修道院「平日のミサ」水曜日) [教会日記]

今日は、出勤前に小田急線喜多見駅で途中下車し、カトリック礼拝会修道院(女子修道会)のお御堂(おみどう:聖堂のこと)で、7時からの平日のミサに与りました。今日から3日間は成城教会の朝ミサ(平日のミサ)はお休みです。代わりに礼拝会の修道院で朝ミサに与ります。ここのところ曇り空で、蒸し暑くなく過ごしやすいですね。今朝も清々しい朝を迎えています!

7時からのミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、そして同僚のお嬢さんの病が癒されますようにと、心を込めてお祈りしてきました。
さぁ、これから仕事です!
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ジョージ・マクドナルドのことば(第2日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「祈っているときに、ときおりこんな思いが胸をよぎることがある。『いっそあきらめてしまうほうがいいのではないだろうか?』こうした考えは、子どもらしさと無邪気な信頼が欠けていることからくる。」

ジョージ・マクドナルドのことは、「ジョージ・マクドナルドのことば(第1日目)2019.7.8」をご覧下さい。
この言葉は、キリスト教だけでなく、仏教、神道、イスラーム(イスラム教)にしても同じことが言えると思います。それは、「祈る」ということは、神様、仏様なりを信じて(信仰して)祈るわけですから、全幅の信頼をおいて祈ることになります。
そこには“迷い”や“ためらい”はありません。子どものような“純真無垢な心”で祈らなければ祈りにならないのですね。信頼の欠けた祈りを毎日していても意味はありません。信じることなくして信仰はあり得ませんね。
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