祈り(死者のための祈り) [祈り]

先ほど連絡があり、私が所属するカトリック町田教会で、いつもご親切にしていただいた方が亡くなられたとのことでした。その方のためにお祈りいたします。

「イエス・キリスト、栄光の王である主、
聖母マリアとすべての聖人の取り次ぎによって、
神を信じて亡くなった◯◯◯◯さんを復活の栄光にあずからせてください。
大天使ミカエルの取り次ぎによって、
アブラハムとその子孫に約束された聖なる光に導いてください。
主よ、◯◯◯◯さんのためにささげる賛美の祈りを受け納め、
永遠の喜びに迎え入れてください。
永遠の安息を与え、不滅の光で照らしてください。
◯◯◯◯さんが安らかに憩いますように。
アーメン」

「神よ、御子イエス・キリストは、わたしたちに約束されました。
『わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる人は、死んでも生きている。
わたしを信じて生きている者は、
すべて永遠に死ぬことはない』と。
いつくしみ深い神よ、
この世からあなたのもとにお呼びになった◯◯◯◯さんを
お約束のとおり、あなたの国に受け入れてください。
すべての罪の絆から解放されて、
永遠の光の内に迎えられ、救われた人々と共に、
復活の栄光のうちに立ち上がることができますように。
私たちの主イエス・キリストによって、
アーメン」
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教会日記2019.7.24(カトリック成城教会「平日のミサ」水曜日) [教会日記]

今朝も出勤前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城教会の7時からの平日のミサに与りました。朝から晴れましたね~。ひょっとすると梅雨明けですか!?暑くなりますね。私は、今朝も清々しい朝を迎えています!

6時50分から「お告げの祈り」をお祈りし、7時からのミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、そして同僚のお嬢さんの病が癒されますようにと、心を込めてお祈りしてきました。
さぁ、これから仕事です!
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「聖体拝領」のお話し(改編版) [キリスト教関係事項・用語等]

このブログの2018年10月13日に掲載した「ご聖体拝領のお話し」を全体の1/3加筆し、ところどころ修正して再掲載いたします。内容は、教会日記で毎日のように「ご聖体を拝領し………」とありますが、この「ご聖体」とはなにか?について、そして、本日のブログ記事のメインテーマとなる<ミサで行われる司式に関係すること>を合わせてお話しいたします。なお、信徒の方しかわからない内容だと思いますので、予めご了承ください。

現在行われているミサの中では、「聖体拝領(せいたいはいりょう)」というものがあります。これは聖書に書かれているとおり、イエス・キリストが磔刑(たっけい:十字架に磔(はりつけ)されて死ぬ刑罰)される前夜に行われた「最後の晩餐(さいごのばんさん)」において、イエス・キリストご自身が、「今後は、私の記念としてこのように行いなさい。」と言われ制定されたものです。この最後の晩餐とは、イエス・キリストと12人の使徒(しと:弟子のこと)で行われた最後の夕食会のことです。
聖書には次のとおり書かれています。
◯新約聖書:マルコによる福音書・第14章・第22~第24節
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
◯新約聖書:マタイによる福音書・第26章・第26~第28節
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
◯新約聖書:ルカによる福音書・第22章・第17~第19節
「そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」」

この聖書に書かれている最後の晩餐で食べたパンとは = イエス・キリストの身体のことで = 「聖体(せいたい)」と言います。カトリック教会、正教会、東方諸教会などキリスト教諸教派において、ミサや聖体礼儀で食するために“特殊なパン”を聖別し、イエス・キリストの体の実体として信じて食べるものです。聖別によってパンとぶどう酒(赤ワイン)が、キリストの体と血の実体に変化することを「聖変化:せいへんか (transubstantiation)」と言います。この聖変化がミサの中で行われるのです。
ホスチアです。直径3㎝くらいです。
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現在ではパンではなく、「ホスチア(写真)」になります。カトリック教会では、ご聖体のパンとしてイースト菌(酵母)を使わない一種のウエハースを用います。これを「ホスチア」と呼びます。市販されておらず、修道院で作って販売していたり、カトリック聖品専門店で販売しています。「ホスチア (hostia)」はラテン語で「いけにえ(の供え物)」という意味で、もともとはご聖体として聖別されたパンとぶどう酒を指していましたが、聖別されたパンの方だけをホスチアと呼ぶようになりました。ミサでホスチアと呼ばれるパンを用いるようになったのは12世紀頃からですが、種なしパンの使用は9世紀頃に遡るそうです。私は信徒(洗礼を受けた人のこと)ですので、ご聖体を拝領できるのですが、まったくウエハースと同じですね、教会によって多少の違いはあるものの、基本的には同じ大きさですが、作る材料が少々違ったりします

ミサの司式では、次のとおりになります。
(前省略)
司祭「誠に貴くすべての聖性の源である父よ、いま聖霊によってこの供えものを貴いものにしてください。私達のために主イエス・キリストの御(おん)からだと御血(おんち)になりますように。主イエスは、すすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝を捧げ、割って弟子に与えて仰せになりました。
『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される私の身体である。』
★司祭が聖別されたホスチアを高くあげた後、一同は手を合わせて深く拝礼(最敬礼)をします。
司祭「食事の終わりに同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました。
『皆、これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪の赦しとなる新しい永遠の契約の血である。これを私の記念として行ないなさい。』
★司祭が聖別されたカリス(杯)を高くあげた後、一同は手を合わせて深く拝礼(最敬礼)をします。
司祭「信仰の神秘。」
会衆「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。」
司祭「わたしたちはいま、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、いのちのパンと救いの杯をささげます。キリストの御からだと御血にともにあずかるわたしたちが、聖霊によって一つに結ばれますように。
(後省略)

ミサでは、ご聖体拝領の時に、信徒も信徒でない人(洗礼を受けていない人)も司祭(神父様)に向かって列に並びます。この場合、信徒はご聖体であるホスチアをいただくのですが、司祭が「キリストの体」と言ってホスチアを信徒の目の前に示します。信徒はそれを両手(左手の掌が上で右手が下)で受けて「アーメン」と応えて口に入れます。
信徒ではない方はご聖体であるホスチアはいただけませんが、その代わりに司祭から”祝福”をいただきます。順番が来て、司祭の前で頭を下げると司祭が右手の掌で相手の頭に触れ、「主(神様)の豊かな恵みと平安がありますように。」と祝福してくれます。とても暖かな気持ちになりますよ。ちなみに、カトリック教会では、最後の晩餐で飲んだぶどう酒(ワイン)とは = イエス・キリストの血で = 聖別された(聖変化した)ぶどう酒(ワイン)となります。ミサにおいて飲むのは司祭(神父様)だけで、信徒は飲みません。ご聖体拝領に関係する記事は、「カリスのお話し(キリスト教用語)2016.10.6」にもありますので是非お読みください。

◯以上のとおりですが、本日のブログ記事のメインテーマはこれからです。
実は、先ほど書いたミサでの司式中のことですが、信徒の皆さんに「それは間違っているよ!」とまでは申しませんが、「こうやった方がいいのにな~。」ということを恐れ多いのですが述べさせていただきます。先ほどミサでの司式を書きましたが、★印を付けたところが2箇所あります。ここが「述べさせていただく」と書いたところです。
司祭が、ホスチアを高く上げた時のことですが、信徒の中には、このときにキリストの身体であるホスチアを見ないで拝礼(最敬礼)をする方がいるのです。つまり、司祭がホスチアを高く上げると同時に拝礼(最敬礼)してしまうのです。信徒である会衆は、司祭が高く上げたホスチアを見るべきです。拝礼(最敬礼)は、司祭がホスチアを祭壇上に下ろした(戻した)時に司祭と一緒にすればいいことです。次に同じように行われるキリストの血であるカリス(杯)を上げた時も同じことが言えます。

私が、なぜこのようなことを申し上げるか?というと、それは、お会いしたことはありませんが、著作をとおして尊敬するイエスズ会のペトロ・ネメシェギ司祭(上智大学神学部教授、神学校教授をなど歴任)の著作に、次のとおり書いてあるからです。
「ミサのとき、イエスのことばを唱えたあと司祭は、「わたしたちを訪れた復活したイエスですよ」、という意味を込めてパンと杯を会衆に示します。司祭がご聖体のパンと杯を示すとき、会衆はそれを見るべきです。聖なるものを見てはいけないと考えている宗教もありますが、キリスト教の場合はそうではありません。イエスのあわれみといつくしみを思いながら、ご聖体を仰ぎ見るのはいいことです。そして、司祭が聖体を再び祭壇の上に置いてから、司祭も会衆も共に、聖体に対して最敬礼をします。」
ということです。ミサで、司祭が主に聖霊の訪れ願い、祭壇上のイエス・キリストの身体であるホスチアと血であるぶどう酒が聖別されたのですから、それを仰ぎ見ることは大切なことだと思います。

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◯上記の著作は次のとおりです。
書名:『愛とゆるし(キリスト教信仰案内講座5)』文庫本
著者:ペトロ・ネメシェギ
発行:聖母の騎士社
出版:1992年10月3日
定価:500円+税
◯ペトロ・ネメシェギ司祭紹介
著者のペトロ・ネメシェギ神父様は、1923年にハンガリーのブタペストに生まれ、プタペスト国立大学で政治学を学び、卒業後にイエズス会に入会、ローマで神学と哲学を学んでいます。1952年に司祭叙階、1956年にグレゴリアン大学で神学博士号を取得、来日して上智大学神学部で教授として教鞭をとられていました。1993年ハンガリーに帰国、ブダペストにおいて司牧活動をしていらっしゃいます。
主な著書は、『父と子と聖霊・三位一体論』、聖母の騎士社から<キリスト教信仰案内講座>として『愛といのち』、『愛と恵み』、『愛と平和』、『神の言葉と秘跡』、『愛とゆるし』、『愛と永遠』の6冊があります。他に『どうすればしあわせに』、『ぼだい樹の笛』、『ペピの青春物語』(女子パウロ会)、『ひまわり』、『たんぽぽ』、『蛍』(南窓社)があります。どれも読みやすく素晴らしい内容の著作ばかりです。ちなみに、教会の入門講座での推奨参考図書は、ペトロ・ネメシェギ神父様の『キリスト教とは何か』でした。
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