祈り(ロヨラの聖イグナチオの取り次ぎを願う9日間の祈り) [祈り]

今日は、『ロヨラの聖イグナチオの取り次ぎを願う9日間の祈り』のお祈りをします。
カトリック麹町・聖イグナチオ教会で、昨日(22日)からミサの直前に、いつもの『お告げの祈り』に替えて、この『ロヨラの聖イグナチオの取り次ぎを願う9日間の祈り』が始まりました。今月末(31日)が聖イグナチオ・ロヨラ司祭の記念日なのですね。その9日前の22日からお祈りが始まったということです。なお、麹町・聖イグナチオ教会はイエズス会の教会であり、聖イグナチオ・ロヨラはカトリック教会の男子修道会であるイエスズ会の創設者の一人です。ちなみに、お隣にある上智大学は、イエズス会が創設した大学です。神学部があります。

祈祷文は次のとおりです。
『ロヨラの聖イグナチオの取り次ぎを願う9日間の祈り』
(2019年7月22日~7月31日)
先唱:父である神よ、
会衆:あなたは、ロヨラの聖イグナチオを、
御子イエスとの交わりにお招きになりました。
主イエスの愛に燃えたイグナチオは、
あなたの大いなる栄光を求める熱意を多くの人に与え、
あまねく世界の人々に、あなたに仕える道を示しました。
私たちも聖イグナチオの模範に従って、
すべてのことにおいて、愛して仕えるものになりますように。
また、彼の取次ぎによって、
次の恵みもお与え下さいますように。
(ここで求めたい願いを入れる)
『主の祈り』
『アヴェ・マリアの祈り』
『栄唱』
先唱:聖イグナチオ、私たちのために祈ってください。
会衆:私たちがキリストの約束にかなうものとなりますように。
先唱:祈りましょう。すべての人の救いを望まれる神よ、
会衆:あなたは偉大な栄光を現すために、
ロヨラの聖イグナチオをお選びになりました。
聖人の助けと模範に励まされて、
私たちも悪と戦い、
ともに勝利の冠を受けることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって。
アーメン。
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教会日記2019.7.23(カトリック成城教会「平日のミサ」火曜日) [教会日記]

今朝は、出勤前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城教会の7時からの平日のミサに与りました。曇り空ですが雨が降り出しそうな感じがします。蒸し暑くなってきました。でも、私は今朝も清々しい朝を迎えています!

6時50分から「お告げの祈り」をお祈りし、7時からのミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の神よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、妻の母親の病が癒やされますように、同僚の病が癒されますように、お二人の心に平安が訪れますように、そして同僚のお嬢さんの病が癒されますようにと、心を込めてお祈りしてきました。
さぁ、今日もこれから仕事です!
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『キリスト教と日本人 ー宣教史から信仰の本質を問うー 』のご紹介 [キリスト教と読書]

今日ご紹介するのは、ちくま新書(筑摩書房)の『キリスト教と日本人 -宣教史から信仰の本質を問う-』です。内容は、次のとおりです。
筑摩書房のホームページから(ブログ掲載文献表示:筑摩書房ホームページから引用)
「日本人の99%はキリスト教を信じていない。世界最大の宗教は、なぜ日本では広まらなかったのか。宣教師たちは慈善事業や教育の一方、貿易、軍事にも関与し、仏教弾圧も指導した。禁教期を経て明治時代には日本の近代化にも貢献したが、結局その「信仰」が定着することはなかった。宗教を「信じる」とはどういうことか?そもそも「宗教」とは何か?宣教師たちの言動や、日本人のキリスト教に対する複雑な眼差しを糸口に、宗教についての固定観念を問い直す。」というものです。
キリスト教と日本人.jpg
目次
第1章 キリスト教を知らずに死んだ日本人に「救い」はない?
第2章 戦争協力、人身売買、そしてキリシタン迫害
第3章 禁教高札を撤去した日本
第4章 「本当のキリスト教」は日本に根付かないのか
第5章 「キリスト教」ではなく「キリスト道」?
第6章 疑う者も、救われる

書名:ちくま新書『キリスト教と日本人 宣教史から信仰の本質を問う』
発行:筑摩書房
出版:2019年7月4日
定価:900円+税

ご紹介した本の本筋からズレるかも知れませんが、信仰をするということは、まず信仰する前に、例えばキリスト教カトリック教会であれば、まずは「聖書」を理解するとか、「カテキズム(キリスト教の<教理>を問答形式でわかりやすく説明した要約ないし解説)」を理解するとか、ミサを経験してみるとかをした上で、納得してから洗礼を受けて信仰生活に入るということになると思います。本来は、そうあるべきですよね。

しかし、聖書にしても、カテキズムにしても、すべてを理解してから信仰するということは、なかなかできることではありませんね。まぁ、そういう人もいるかもしれませんが、ほとんどの人は、学びながら経験しながら信仰しているのではないでしょうか。ミサで、神父様の説教を聴いて学び信仰生活を豊かにするとか、弱者救済の支援活動をとおして信仰というものを実践するとか、すべて現在進行形で信仰していると思います。

仏教にしても、小さいころからお祖母ちゃんが、仏壇に向かってご先祖様にお祈りをする姿を見て、何のためのお経かということは分かっても、お経の内容を理解している人はどれだけいるでしょうか。神道も神主様の「祓詞(はらへことば)」は未だしも、「吐普加美依身多女(とおかみえみため)」を聴いて、その内容を理解できる人がどれだけいるでしょうか。皆さん分からなくても、ともかくは頭を下げて手を合わせますね。

以上のように、信仰するということにおいては、キリスト教も仏教や神道と同じことが言えると思います。しかし、決定的に違うところは、私が思うに仏教や神道は「ご利益(りやく)宗教」ですが、キリスト教はご利益宗教ではないということです。仏教も慈悲の心や感謝の気持ちを大切にして平和を願ますが、やはり信心する個人としては自分のご利益を願うところが大きいのではないでしょうか。キリスト教も似てはいますが、個人のお願い以上に隣人への愛や人への赦し等に重きを置く教えをしていています。ここにキリスト教と仏教や神道との決定的な違いがあるように思われます。ご利益宗教であるかないかが、日本て根付く根付かないという要因の一つになると私は考えています。
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