今日の日記2019.7.7(行きつけのカフェ!) [日記]

昨日のことになります。昨日は、四ツ谷にある上智大学に隣接するイエズス会日本管区本部付属の聖三木図書館に勉強に行き、カトリック麹町・聖イグナチオ教会でミサに与りましたが、日中に行ったときに必ずお茶するのが、ベーカリー・カフェの「PAUL(ポール)」アトレ四ツ谷店です。オーダーはいつもブレンド・コーヒーとシュークリームです。
ダイエット中のご褒美です!?美味い!
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新約聖書:ルカによる福音書・第17章・第20~第21節 [聖書]

「さて、ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは応えて仰せになった。「神の国は目に見える形で来るのではない。また、『見なさい、ここに』とか、『あそこに』とか言えるものでもない。神の国は、実にあなた方の間にあるのだから。」

この新約聖書のルカによる福音書にある聖句は、「原文校訂によるフランシスコ会聖書研究所訳註」の新約聖書を用いました。その聖書の註釈に次のとおり記載されています。
「「神の国は、実にあなた方の間にある」について、教父たちの多くは、「あなたがたの心の中にある」と解釈しているが、神の国はイエスと弟子たちの働きによって、すでに「あなたがたの間」に現実に存在すると解釈するほうが適している(ルカによる福音書・第11章・第20節参照)」

さて、今日はこの聖句(イエス・キリストの言葉)にある、「神の国」の解釈について述べたいと思います。まず、「神の国」とは、いったいどのようなものなのか?ということですが、根本的に言えることは「神様が支配している国であって、この世の特定の場所に物理的にあるわけではない」ということです。ですから、私は、「神の国とは、本質的に“神の支配”を表しているもので、現在も未来も支配する神様の働きを示す霊的なものである。」と解釈しています。ですから、結論としては、「神の国とは、主イエス・キリストの望みである愛と赦しのある平和な世界(国・社会)の実現したものであり、私たちの一人ひとりが主イエス・キリストの教えを果たしている(いく)世界(国・社会)のこと。」となります。ですから、すでに「神の国」は、私たちのいる現世に準備されているのです、それを見える形に実現化=「神の国」にするのが、私たち人間の愛と赦しのある行いなのです。

新約聖書の4つの福音書を読めばわかることですが、当時のユダヤ人たちは、モーセをとおして与えられた律法を守ることを大切にしていました。しかし、イエス・キリストが宣教を始めた時代は、律法学者やファリサイ派といった律法の専門家たちのように、律法を守ることで神のみ心やみ旨を果たしていると勘違いし、規則に縛られ、規定を守ることに固執して形骸化した律法に汲々そして、神のみ心からしだいに離れていった人たちが民衆を指導・支配する社会だったのです。イエス・キリストは、このような社会を救うために、神の愛のみ心を人びとに伝えるため、この世に遣わされたのです。新約聖書のマルコによる福音書・第1章・第15節で、イエス・キリストが洗礼を受けた後、最初の宣教において民衆に語りかけたことは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」というメッセージでした。「神の国」は、イエス・キリストの宣教生活の主題だったのですね。

【教父(きょうふ)】
キリスト教用語で、古代から中世初期、2世紀から8世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、特に正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人々をいいます。例えば、ギリシア教父では、アンティオキアのイグナティオス(35年?~107年?)、ユスティノス(100年?~165年)、リヨンのエイレナイオス(130年?~202年)、アレクサンドリアのクレメンス(150年?~216年?)、オリゲネス(182年?~251年)、アレクサンドリアのアタナシオス(298年~373年)など。ラテン教父では、アンブロシウス(340年?~397年)、ヒエロニムス(347年?~420年)、アウグスティヌ(354年~430年)、グレゴリウス1世(ローマ教皇・540年?~604年)など。
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