修道院が作ったコットンバッグのご紹介 [日記]

東京都新宿区四ツ谷にある修道院製品のお店「サン パオリーノ」で販売しているコットン地のバッグ(小)です。(大)もあります。大きさは、開口部幅28.5㎝、底幅19.5㎝、高さ19.5㎝です。確か360円か380円だったと思います。安くて丈夫で使い勝手がよいので3つも持っています。このお店は、聖パウロ修道会のお店ですが、トラピスト修道会など他の全国にある修道会の製品も販売しています。ホームページは次のアドレスをクリックしてください。https://sanpaolino.jp/
◯職場のデスクの上に置いたコットンバッグです。朝出勤した時に撮影しました。ちなみに、パソコンの壁紙はミケランジェロの「最後の晩餐」です。
thumbnail_IMG_5659.jpg
◯お店の主な取扱品
クッキー、ガレット、キャンディ、チョコレート、ケーキ、ジャム、ワイン、グラッパ、ビール、リキュール、オリーブオイル、蜂蜜、トマトソース、塩、ハーブティ、ハーブ水、コーヒー豆、プロポリスのシロップ、天然石アクセサリー、ロザリオ、キャンドル、聖像などの工芸品、サンダル、スリッパ、バッグ、グリーティングカード、本、CD・DVDなど。
◯主な取扱先修道院 ※国内
函館トラピスチヌ修道院天使園(北海道)、燈台の聖母トラピスト修道院(北海道)、伊達カルメル会修道院(北海道)、十勝カルメル会修道院(北海道)、那須トラピスチヌ修道院(栃木)、桐生クララ会(群馬)、イエスの小さい姉妹の友愛会(埼玉)、ドミニコ会聖ヨゼフ修道院(愛知)、西宮トラピスチヌ修道院(兵庫)、京都カルメル会修道院、山口カルメル会修道院、伊万里トラピスチヌ修道院(佐賀)、福岡カルメル会修道院、大分カルメル会修道院、大分トラピスト修道院、安心院(あじむ)トラピスチヌ修道院(大分)、聖血礼拝会(鹿児島)レデンプトリスチン修道院(宮崎)など。
その他、海外はイタリア、フランス、ドイツなどの修道院製品を扱っています。
nice!(0)  コメント(0) 

教会日記2023.8.25(カトリック成城・聖タデオ教会「年間第20金曜日のミサ」金曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での7時からの「年間第20金曜日のミサ」に与りました。ミサおける奉仕活動は信徒の責務ですが、責務というと何か義務的な感じになってしまいます。奉仕ですから、自ら進んで行うという積極的な姿勢が必要だと思います。祭壇奉仕(侍者)、先唱奉仕、朗読奉仕など、一人でも多くの方にご担当いただき、まさにミサに与ること、すなわち参与する、参画するということが大切だと思います。ミサは決して受け身ではなく、ミサを司式する司祭と共に、「またあなたとともに」ですね。

ミサでは、先唱奉仕を担当し、
そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
今日も清々しい日を迎えています!
nice!(0)  コメント(0) 

新約聖書:マタイによる福音書・第20章・第1〜第16節 [聖書]

「天の国は、ある家の主人に似ている。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明とともに出かけて行った。彼は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場で立っている人々がいたので、『あなたがたもぶどう園に行きなさい。それなりの賃金を払うから』と言った。それで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろに出て行って、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と言った。彼らが、『だれも雇ってくれないのです』と答えたので、主人は、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていたが、一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは。』
主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
『聖書協会共同訳聖書』から

◯「ぶどう園の労働者のたとえ話」・『エヒテルナッハの黄金福音書』11世紀ごろ
ぶどう園と農夫.jpg
今日の聖書の箇所は、「ぶどう園の労働者」といわれる有名なところです。イエス様の聖句(イエス・キリストの言葉)ですね。物語のあらすじの概略は次のとおりです。
①朝早くから雇われた者と夕方から1時間しか働かなかった者が同じ賃金を支払われた。
②朝早くから働いていた者が文句を言うと、ぶどう園の主人は「私は不当なことはしていない」と言います。
③労働した人と労働時間に比例した賃金を払うという約束ではないわけですから、ぶどう園の主人に不公平であると非難するのは筋がとおりません。
しかし、現代の私達の社会では、一般的に言って昔も今も労働の報酬というのは、時間に比例するというシステムの中で生きていますから、このお話しを聴くと朝早くから働いた労働者と同じで奇異に感じるのは当然だと思うのです。
ところで、この労働の報酬は1デナリオンです。「デナリオン」という価値は、1日の賃金にあたるということです。この時代、1日の賃金というのはまさにその日を生きていくために必要なお金なのですね。この話は、その日雇ってもらわなければいけない人々ですから、定職があるわけではないのです。その日、その日を生きていくのが精いっぱいなわけです。つまり、1デナリオンというのはその人とその家族が、その日、あるいはその日を含めた数日を最低限生きていくために必要な金額なのです。

そこで、解釈に移りますが、いろいろと解釈されています。
ある解釈では、
①「イエス様は、洗礼を受けた時期とは関係なく、神様はどの人も天国に招いている。」ということです。具体的な解釈では、10時間働いた人=幼児洗礼を受けた人で、1時間しか働かなかった人=死ぬ間際になって洗礼を受けた人(これを「天国泥棒」といいます。)ということです。まぁ、これはこれで、こういう解釈もあるということです。でも、これでは、聖句の最後にある1時間の人が先に天国に入るということがわかりませんね。
また、次の解釈もあります。
②「キリスト教徒の方が先に天国に入るが、ユダヤ教徒は後回しにはされるものの結局は天国に入れる。1時間の人が優先されるのはイエス・キリストを信じたからということ」という解釈です。当時、ユダヤ教の社会においてイエス様が生まれ、その教えが福音書となりキリスト教徒となったわけですから、イエス様を迫害したユダヤ教徒は後回しになるということですね。
しかし、いずれにしても私は①と②のどちらにも納得できないですね。

そこで、私は次のとおり解釈します。
まず「労働者」というのは私たち人間のことで、賃金を支払う「ぶどう園の主人」は神様のことです。すると「朝から一日中」、「一時間だけ」というのは、人間にとって最も大切なことの一つである “ 働くこと ” =与えられた “ 労働の時間 ” 、これを私は “ 人生において善き行いをした時間 ” と解釈します。そして「賃金」とは、人生への「報酬」=「神様の愛」です。
このように捉えると、元々神様の愛は「無限」ですから、それを「同じ」とか「多い少ない」とか比較すること自体意味をなしませんね。労働者たちが受け取った「同じ賃金(1デナリオン)」=「同じ神様の愛(憐れみ慈しみ)」とは、神様の愛が無限であることを指しています。ぶどう園での労働で、最後に来た者(1時間しか働かなかった者)が、最初に賃金を受け取ることが出来たのも、時間に関係なくすべての人が1日分の賃金を与えられたのも、すべては神様(ぶどう園の主人)の憐れみ慈しみによるのです。
「先にいる者が後になる」とは、” 人生における善き行いをした時間 ” が長いにもかかわらず、神様の憐れみ慈しみを忘れていつしか傲慢になり、他の人と比較して不公平だとふてくされ、他の者が自分と同じ報酬を受けることを喜ばない人です。つまり神様の憐れみ慈しみを素直に喜ばない人です。そしてあたかも神様が不公平をしているかのように受け取っている人です。そういう人達は、天の国に入るのは後になるのです。
反対に、“ 人生のおける善き行いをした時間 ” が短いにもかかわらず、素直に謙虚に神様の憐れみ慈しみを喜ぶ人達は、先に天国に入れるのですね。私達は、今一度、神様の前に謙虚になり、他人と比較するのではなく、自分に与えられた “ 分際(ぶんざい)” に感謝し、今ここにいる幸せに心から感謝を捧げなければなりません。それをイエス・キリストは、このたとえ話で説いておられるのです。
朝から働いている人は不平や不満を言うのではなく、夕方1時間しか働かなかった人に「少しの時間しか働くことができなかったけど、同じお金をもらえてよかったですね。」と言うべきでしたね。私も他人(隣人)と比べるのではなく、他人と(隣人)と同じであると心から素直に喜べる人になりたいですね。

【分際】
身分・地位の程度のこと。身のほど。分限。大した身分でもないのに、という軽蔑(けいべつ)の気持ちを込めて用いることが多いですね。例えば「学生の分際でぜいたくだ!」など。
nice!(0)  コメント(0)