「七夕の節句」のお話し [日記]

今日は「五節句」の一つである「七夕の節句」ですね~(^◇^)短冊に願い事を書いて笹竹に吊るすのすが、子どものころはやっていたのに、いつごろからか?やらなくなりました。夢のない大人になったものですね~( ̄▽ ̄;) では、「五節句」と「七夕の節句」についてご説明しましょう。

◯「五節句(ごせっく)」について
五節句は、
1月7日の「人日(じんじつ)の節句」七草の節句ともいいます。
3月3日の「上巳(じょうみ)の節句」桃の節句ともいいます。
5月5日の「端午(たんご)の節句」菖蒲(しょうぶ)の節句ともいいます。
7月7日の「七夕(たなばた)の節句」笹竹の節句ともいいます。
9月9日の「重陽(ちょうよう)の節句」菊の節句ともいいます。
以上5つの節句のことです。
人日の節句を除けば、五節句の日付が月と日に同じ奇数が並んでいますね。これは、陽の数字である奇数が重なって、陰の数字である偶数になる日は、縁起が悪いとされたことに由来します。特に「節」にあたる五節句では、季節ごとに魔除けとなる節句料理を食べて万病と邪気を払い、無病息災を願う行事が行われており、これが定着したと考えられています。五節句の「節」というのは、唐時代の中国の暦法で定められた季節の変わり目のことです。暦の中で奇数の重なる日を取り出して(奇数(陽)が重なると 陰になるとして、それを避けるための避邪〔ひじゃ〕の行事が行われたことから)、季節の旬の植物から生命力をもらい邪気を祓うという目的から始まりまし た。この中国の暦法と、日本の農耕を行う人々の風習が合わさり、定められた日に宮中で邪気を祓う宴会が催されるようになり「節句」といわれるようになったそうです。

◯「七夕の節句」について
七夕(たなばた)は、「しちせき」ともいいます。「棚機(たなばた)」は、元からあった日本の「棚機津女(たなばたつめ)」の伝説で、これと中国から伝わった「乞巧奠(きこうでん)」が一緒になったといわれています。
棚機とは、乙女が着物を織って棚に供えたり、神様を迎えて秋の豊作を願ったり、人々のけがれを祓う行事のこと。お盆の時期でもあるため、仏教が伝わると、お盆を迎える準備として7月7日の夜に行われるようになりました。こうしたことから、七夕と書いて「たなばた」と読むようになったといわれています。乞巧奠は、奈良時代に中国から入ってきたもので、織姫(おりひめ)と牽牛(彦星)のお話しです。7月7日に七夕の織姫星にあやかってはた織りや裁縫が上達するようにとお祈りをするという中国の行事のことです。また、おりひめ星は夏の大三角形を担う星の1つ「ベガ」のことで、牽牛星(彦星)は、わし座の主星「アルタイル」のことです。ちなみに、七夕の節句の行事食は「そうめん」です。

◯なぜ、織姫と牽牛(彦星)は一年に一回しか逢えないのか?
「機織りが上手な織姫と働き者の牛使いである牽牛(けんぎゅう:彦星のこと)は、織姫の父親である天帝の勧めで結婚しました。しかし、結婚後、二人は仲良く遊んでばかりで働かなくなったため、それに怒った天帝は、2人を天の川の両岸に別れさせてしまいます。離れ離れになった2人は、今度は悲しむばかりで働こうとしなかったため、天帝は仕事に励むことを条件に、7月7日だけ2人の再会を許すことにしました。こうして2人はまた一生懸命に働くようになり、年に一度の再会を楽しむようになりました。」というお話しです………なんか、とても理不尽なお話しのような感じがしますが( ̄▽ ̄;)

◯「湘南ひらつか七夕まつり」
令和5年7月7日(金)から9日(日)までの3日間
七夕まつりの終了時間は、午後8時(最終日は午後7時)
詳しいことはホームページをご覧ください。http://www.tanabata-hiratsuka.com/
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新約聖書:マタイによる福音書・第13章・第44〜第50節 [聖書]

「「天の国は畑に隠された宝に似ている。
それを見つけた人はそれをそのまま隠しておき、喜びのあまり、行って自分の持ち物をことごとく売り払い、その畑を買う」。
「天の国はまた、善い真珠を探し求める商人に似ている。
高価な真珠を一つ見出すと、商人は自分の持ち物をことごとく売りに行き、それを買った」。
「天の国はまた、海に投げ入れられてあらゆる魚を捕る網に似ている。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げる。そして座って、善いものは器に集め、悪いものは外に捨てる。代の終わりもこのようになる。み使いたちが現れて、正しい者の中から悪い者どもをより出し、燃え盛るかまどに投げ入れる。そこには嘆きと歯ぎしりがある」。
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この“喩え話し(たとえばなし)”は、イエス・キリストが、集まった群衆に語った聖句(イエス・キリストの言葉)です。聖書におけるイエス・キリストの教えは、そのほとんどが喩え話しとして語られており、注釈(又は註釈)をしないと、何が書いてあるのか理解できないことが多いのです。クリスチャンではない方………というよりも、聖書を勉強していない方が読むと″聖書を理解するのは難しい”という印象になってしまいます。

注解(註解)をすると次のとおりになります。
まず、この「天の国」とは、いわゆる死んだあとに行く「天国」のことではなく、他の福音書にも記載されている「神の国」を指しています。「神の国」というのは、神様の支配するところ → 発展させて、“神様の働き(はたらき)・神様が行う業(わざ)“が行われるところのことを指しています。でも、「行われるところ」という意味では、一般的な天国も含んでいると解釈できますね。

最初の『畑で宝を発見する人』の喩え話しですが、後で畑を買うということから、畑を持ってない貧しい小作農と思われます。この話しで“おかしい?”って思うところは、宝を発見したらそのまま持ち帰ればいいのに、その宝をわざわざ畑に隠し(掘り起こして埋める)、それから家に帰って家財道具を売り払って畑を買い取るというところです……が、それでは話しのストリーを追っているだけになりますね。これは“喩え話し”ですので、註釈(解釈)をしなければなりません。

この「宝」とは、“神様の働き・神様が行う業”のことで、「畑」は私達“人間の心”のことです。「その畑を買う」とは、“自分の心の気付き”のことで、また、「持ち物をすっかり売り払って」とは、“過去の罪深い生き方と決別し、神様の御心(みこころ)にしたがった新しい生き方をする”と解釈します。
次に『よい真珠を探す』の喩え話しですが、高価な真珠を扱うくらいの商人ですから、先ほどの話しとは違ってこちらは大金持ちと思われます。この人も畑で宝を発見する人と同じで、家に帰って持ち物をすっかり売り払って高価な真珠を買い求めます。解釈は「畑の宝」とまったく同じですね。

この2つの喩え話しを通解(つうかい)すると、「神様の働き・神様が行う業」というものは、貧しい人であろうと金持ちの人であろうと、全ての人の心に臨んでおり、それに気付いた人は、過去の罪深い生き方と決別して神様の御心にしたがった生き方をする。」ということになります。続く後段部分は。神様の働き・神様が行う業に気付かない、相変わらず罪深い生き方をしている人間との選別を画いています。
神様の働き・神様が行う業=宝は、私たち人間が望もうと望まないと関係なく、日々私達人間に臨んでいるのです。そのような「宝」が私達に臨んでいることに早く気付いて、過去の罪深い生き方と早く決別し、それを隣人と分かち合うことができるように努めていくように説いているのですね。

【注釈(註釈)ちゅうしゃく】
語句の意味や用法を解説したり、補足的な説明を加えたりすること。また、その説明。「専門用語を―する」「―書」
【注解(註解)ちゅうかい】
本文に注を加えて、その意味を説明すること。また、その説明。注釈。「難解な語句を―する」
【通解(つうかい)】
文章の全体にわたって解釈を施すこと。また、その解釈。通釈。
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