笹森順造のことば [キリスト者(クリスチャン)]

「剣道は、相手に怪我をさせるとか殺すための武道ではない。
一瞬にして相手に最小限のダメージを与え、
しかも自分が悪かったと悟らせる。
それが、剣道です。」

笹森 順造(ささもり じゅんぞう:1886年~1976年)は、キリスト教プロテスタントのクリスチャンで、政治家、教育者、武道家(剣道家)です。衆議院議員を4期、参議院議員を3期、終戦直後の片山内閣の復員庁総裁、賠償庁長官などを歴任しました。勲一等瑞宝章、正三位、哲学博士です。14歳のときキリスト教の洗礼を受けました。青森県弘前若党町(現在の弘前市)に、旧弘前藩藩士・笹森要蔵の六男として誕生。8歳で北辰堂道場に入門し小野派一刀流剣術を学び、早稲田大学剣道部では高野佐三郎に師事しました。早稲田大学を卒業後、雑誌『新公論』記者を経て、1912年に渡米し、コロラド州デンバー大学大学院で学びました。1922年、青森県にある東奥義塾に塾長として迎えられ、18年間勤務。1939年からは青山学院(プロテスタント教会メソジスト派の学校)の院長を4年間務めました。

第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)、第22回衆議院議員総選挙に青森県全県区から無所属で出馬してトップ当選を果たし、以降連続当選4回。院内交渉団体の新政会をまとめ国民党を結成。同党は1947年に協同民主党と合併して国民協同党となり代議士会会長となりました。片山内閣に国務大臣として入閣し、復員庁総裁(1947年)、賠償庁長官(1948年)を務め、シベリア抑留日本人の早期帰還やアメリカの賠償請求権問題の解決に尽力しました。その後、改進党を経て自由民主党に所属し、両院議員総会会長や党紀委員長等を歴任、世界連邦運動の推進団体・世界連邦日本国会委員会第4代会長も務めています。

剣術の達人としても知られ、8歳で北辰堂道場において稽古を始め、後に弘前藩に伝わっていた小野派一刀流の第16代宗家となった他、林崎新夢想流居合剣術、直元流大長刀術も伝承しました。第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)命令による武道禁止下においては、全日本撓競技連盟を設立し会長に就任。剣道解禁の先鞭をつけ、1954年、全日本撓競技連盟は全日本剣道連盟(会長木村篤太郎)と合併し、全日本剣道連盟最高顧問に就任しました。笹森順造は、クリスチャンであり武道家(剣道家)あり、それも古流剣術の宗家です。それで職業は国会議員、教育者ですから珍しいというか “ 超異色 ” ですね。

この言葉は、戦後、日本を占領統治していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の武道禁止令に対して、その解除を求めたGHQとのやり取りの中の言葉だそうです。この言葉がなかったら、現在行われている剣道は、日本になかったかもしれません。そういう意味において、笹森順造は“剣道界の救世主”といえます。愛を説くキリスト教と殺伐とした剣道は矛盾するのではないか?と疑問を持たれる方も多いのではないかと思います。これは当然のことだと思いますが、答えから申しますと、完全に相容れ合うものということになります。元々「武」という文字は、「戈(ほこ)」を「止める」と書きます。すなわち “ 戦いを止める道 ” というのが、武道ということです。

私は、田宮流居合剣術四段です。稽古に励んでいたころに師範に教わったことは、居合道の極意は “ 鞘(さや)の内 ” にあるということでした。これは「刀を鞘から抜く前に、相手(敵)を気で圧倒して戦意を無くさせて勝つ。」というものです。鞘から刀を抜く前に、すでに勝っているというもので、つまり相手(敵)も鞘から刀を抜かせないということです。刀を抜いて相手(敵)を切り殺して勝つというのでは “ 愚の骨頂 ” ということですね。ご理解いただけましたでしょうか。その意味においては、神の愛である「いつくしみの心」と融合できるものだと思います。「武士道とは、愛することと見つけたり!」ということですね(*^▽^*)
【田宮流】
江戸時代に紀州藩(和歌山県)で、藩の武芸として行われていた田宮流居合剣術が、紀州藩の分家として伊予西條藩(愛媛県西条市)ができた時に田宮流も伝わり、独自に発展して田宮心剣流居合剣術として成立します。現在伝わっている名称としての田宮流は、この田宮心剣流居合剣術のことです。

◯笹森建美(笹森順造の子息)著の新潮新書『武士道とキリスト教』をお読みください。笹森建美氏も父親と同じで、キリスト教プロテスタントのクリスチャンで駒場エデン教会の牧師であり、小野派一刀流の第十七代宗家でもあります。新書本ですので気軽に読めますし、日本の伝統文化とキリスト教との歴史関係を教養として知ることができます。ご興味のある方は是非どうぞ!
です。
書名:『武士道とキリスト教』
著者:笹森建美
出版:株式会社新潮社
初版:2013年1月20日
定価:680円+税
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「八木重吉記念館」のお話し [キリスト者(クリスチャン)]

今日は、八木重吉記念館」のご紹介をいたします。
このブログに「八木重吉のことば」として何回か掲載した折に記念館もご紹介いたしましたが、再度掲載いたします。生家と家族のお墓は、私の自宅のある東京都町田市相原町にあり、現在の生家は「八木重吉記念館」として一般の皆さんに開館しており、貴重な資料を展示しています。
詳細は「小さな蔵の記念館 八木重吉記念館」のホームページを」ご覧ください。
◯八木重吉記念館(2023年7月15日現在の情報)
住所は、東京都町田市相原町4473番地です。
ホームページ:https://www.jukichi-yagi.org/
1.開館日について
現在、水曜日のみの開館です。
2.開館時間
午前11時~午後16時の間で予約者のみ
3.予約方法
電話:受付時間 (水曜日の午前11時~午後16時)
FAX:申し込み用紙を記入してFAX
郵送:申し込み用紙を記入後郵送
予約住所送付先
八木重吉記念館
〒194-0211
東京都町田市相原町4473 FAX 042-783-1877
八木重吉記念館 宛
※受付時間:水、土曜日の午前11時~午後16時
4.入場料
無料

実は、先日7月12日(火)、新型コロナウイルス感染症ワクチンの第6回目の接種で、相原町にある「上相原病院」に行ったのですが、交通の便の悪い山の中にあり、バスは1時間に1本~2本くらいで、帰りは体感気温40度を軽く超すくらいの炎天下を歩きました。汗でドロドロ、身体はヘトヘトなになりながらも、やっとの思いでバス停にたどり着きました。そのバス停で待っている時、後ろを振り返ったら、なんと!八木重吉記念館の看板を発見しました………ということで、ヘトヘトになりながらも最後の力を振り絞って記念館を訪問したのでした( ̄▽ ̄;) もちろん突然ですので予約していなかったのですが、偶然にも開館していましたので拝観できました。

記念館は、八木さん(八木重吉とは親戚関係)の自宅の蔵をきれいに改造して造られ、1階と2階に分けて展示しています。(館内は撮影禁止でした)貴重な写真や原稿がたくさん展示されていますが、珍しかったのは何冊かの手作り詩集です。重吉の奥様のとみさんが作られたそうです。重吉の死後、とみさんは遺児2人を育てましたが、1937年(昭和12年)に娘の桃子が、1940年(昭和15年)には息子の陽二が相次いで夭逝しています。2人とも死因は重吉と同じ結核だったそうです。その桃子の13歳の時の書が2階に飾られているのですが、ものすごくしっかりとした、きれいな力強い字でした。生き生きとした書で感動しました。
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それでは、八木重吉についてお話しいたします。
八木重吉(やぎ じゅうきち:1898年~1927年)は、詩人、英語科教師でプロテスタント教会のキリスト者(クリスチャン)です。私が住んでいる東京都町田市相原町(現在の「八木重吉記念館」がある辺り)で生まれ、師範学校の教員時代に教会に通い、クリスチャンになりました。イエス・キリストに倣った清貧のクリスチャンですね。生前に刊行した詩集は1冊のみで、昭和初期に若くして亡くなりましたが、第二次世界大戦(太平洋戦争)後にクリスチャン詩人としての評価が高まりました。当時は不治の病であった結核を28才で発病し、29才という若すぎる歳で早世しました。“ 祈りの詩人 ”、“ 信仰の詩人 ”ともいわれ、短い生涯でしたが数多くの詩を残しました。
◯八木重吉の家族写真です。私が尊敬するクリスチャン詩人です。
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◯ここで重吉の詩をご紹介いたします。皆さんは、きっと小学生か中学生の時に、国語の教科書で八木重吉のいくつかの詩と出会ってますね。
★次の3つの詩は、国語の教科書に載っていた詩ではないかと………と思います。
『太陽』
「太陽をひとつふところへいれていたい
てのひらへのせてみたり
ころがしてみたり
腹がたったら投げつけたりしたい
まるくなって
あかくなって落ちてゆくのをみていたら
太陽がひとつほしくなった」

『うつくしいもの』
「わたしみづからのなかでもいい
わたしの外のせかいでもいい
どこにか「ほんとうに美しいもの」はないのか
それが敵であつてもかまわない
及びがたくてもよい
ただ在るといふことが分りさへすれば、
ああひさしくもこれを追ふにつかれたこころ」

『夕焼』
「ゆう焼けをあび
手をふり
手をふり
胸にはちさい夢をとぼし
手をにぎりあわせてふりながら
このゆうやけをあびていたいよ」

★次の4つの詩は、クリスチャンとしての詩です。
「この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のようにかんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりこみたい。」
<説明>
この詩は、聖書のことをいっています。聖書に書かれている聖句は、イエス・キリストの言葉ですから、その聖句と一体になってみたいとの想いですね。重吉は敬虔過ぎるほど敬虔なクリスチャンなのでした。

他にも
「自分が
この着物さえも脱いで
乞食のようになって
神の道にしたがわなくてもよいのか
かんがえの末は必ずここへくる」

「わたしは
キリストをしんずる
しかしながら
わたし自らが
乞食のようになって
それでうれしい日がくるまでは
たからかにさけべない」

「病気して
いろいろ自分の体が不安でたまらなくなると
どうしても恐ろしくて寝つかれない
しかししまいに
キリストが枕元にたって
じっと私をみていて下さるとおもうたので
やっと落ち付いて眠りについた」

重吉の詩は短い詩が多く、単純な分かりやすい言葉で純粋な抒情詩になっているのですが、どの詩も侘びしさがあり、そこに人間の儚い美しさがあると思うのです。読む人の胸に、何かキューと締め付けるような、何とも言えない儚さがあり、キリスト教の信仰による詩も数多くあります。詩集『秋の瞳』や『貧しき信徒』などが有名ですね。
◯私が持っている文庫本の八木重吉全詩集です。
書名:『八木重吉全詩集1 秋の瞳・詩稿1・2』
〃 :『八木重吉全詩集2 貧しき信徒・詩稿3』
出版:筑摩書房(ちくま文庫版)
発行:1988年・第1刷
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