教会日記2023.7.1(カトリック成城・聖タデオ教会「年間第13主日のミサ」土曜日) [教会日記]

教会日記2023.7.1(カトリック成城・聖タデオ教会「年間第13主日のミサ」土曜日)

今日は、カトリック成城・聖タデオ教会での18時からの「年間第13主日のミサ」に与りました。指定休で仕事はお休みなのですが、職場である大学の大学教育後援会の総会が11時からあり、終わってから病院に行き、一度自宅に帰ってからミサに与るため成城教会に来ました。蒸し暑くて汗だくです。シャワーを浴びてきたのですが、汗でびっしょりです(⌒-⌒; ) 早く梅雨が明けてほしいですね。

ミサでは、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と、まず主を讃えて祈り、
そして、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
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「福者ペトロ岐部司祭と187殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日7月1日は「福者ペトロ岐部司祭と187殉教者」の記念日です。
1603年から1639年にかけて、日本各地で殉教した日本人のカトリック司祭・修道者・信徒で、2008年に長崎市で行われた列福式でカトリック教会の福者に列せられた188人のキリシタンの総称です。司祭になるべくローマへ徒歩で行ったペトロ岐部や、天正遣欧少年使節の一人である中浦ジュリアンらを含みます。
大分県国東市国見町岐部にある「ペトロ・カスイ岐部神父公園」の福者ペトロ岐部のご像です。
Petro_Kasui_Kibe_statue.jpg
江戸時代(徳川幕府)のキリスト教禁教政策で、1603年から1639年にかけて各地で殉教した5人の司祭及び修道者の他、武士や町人などさまざまな身分の183人の老若男女の信徒(キリシタン)が含まれています。2007年6月1日に当時のローマ教皇ベネディクト16世が列福を承認する教令に署名し、20080年(平成20年)11月24日に長崎県長崎市の長崎県営野球場で列福式が執り行われました。列福式には、ローマ教皇代理として元教皇庁列聖省長官のジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が来日して司式しました。
◯福者ペトロ岐部司祭
キリスト教徒の両親の間に生まれたペトロ岐部は、13歳で有馬(現在の兵庫県神戸市北区有馬町辺り)のセミナリヨに入学し、1606年、イエズス会入会を志して「カスイ」と号しました。イエズス会の諸資料によると、「ペトロ・カスイ岐部」と書かれています。1614年、江戸幕府によるキリシタン追放令によってマカオへ追放されたペトロ岐部司は、司祭(神父)になるべく同地のコレジオでラテン語と神学を学びました。しかし、マカオの上長の日本人への偏見から司祭叙階がかなわないことを知ると、独力でローマのイエズス会本部を目指すことを決意し、マンショ小西、ミゲル・ミノエスとともにコレジオを脱出して渡航しました。マカオからマラッカ、ゴアへは船で渡り、そこからペトロ岐部は1人で陸路インドからペルシャを経てヨーロッパを目指した。ホルムズ、バグダードを経て、日本人としてはじめてエルサレム入りを果たしました。ローマにたどりついたのは出発から3年が経った1620年のことでした。

すでに、マカオからローマへは「マカオを脱出した日本人がそちらへ向かうが決して相手にしないように」という警告の手紙が送られていましたが、ローマでイエズス会士による審査を受けたペトロ岐部は、司祭にふさわしい適性と充分な学識を備えていることを認められ、1620年11月15日、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で32歳で司祭に叙階されました。さらにローマのイエズス会聖アンドレ修練院(イタリア語版)で2年間イエズス会士としての養成を受け、リスボンに赴いて同地で誓願を宣立しました。1623年、20人のイエズス会士とともに、インドを目指す旅に出、はるか喜望峰を回て翌1624年ゴアにたどりつきました。ペトロ岐部司祭は、殉教を覚悟して日本への渡航を希望しましたが、当時の日本は切支丹の弾圧が強化され、宣教師などの入国は禁止で厳しく取り締まられていたため、司祭を乗せる船がありませんでした。そのためペトロ岐部司祭は、日本への渡航を求めて東南アジア各地をまわろ、1630年にマニラから日本に向かう船に乗り込むことに成功しました。難破しながらも何とか薩摩の坊津(現在の鹿児島県南さつま市坊津町坊)に到着、日本を出てから16年ぶりの帰国でした。
ペトロ岐部司祭は、潜伏して厳しい迫害と摘発を逃れながら、長崎から東北へ向かいながら信徒たちを励ましましたが、1639年に仙台にあるキリシタンの家にかくまわれていたところを密告され逮捕されました。江戸に送られ、すでに棄教していた沢野忠庵(クリストヴァン・フェレイラ)と対面すると逆に彼に信仰に戻るよう薦めたそうです。ペトロ岐部司祭は、激しい拷問を受けても棄教せず、最後は、浅草待乳山聖天近くの明地で穴吊りにされました。そのさなかにも隣で吊られていた信徒を励ましていたため、穴から引き出され、1639年7月4日(旧暦6月4日)に腹を火で炙られ殺されました。享年52歳没。

『福者ペトロ岐部と187殉教者の取り次ぎを願い、その列聖を求める祈り』
「いつくしみ深い父よ、
福者ペトロ岐部と一八七殉教者は、
復活のいのちを約束してくださるあなたの愛に希望を置き、
自らキリストの十字架を担い、
その死を身に帯びる生き方を選びました。
殉教者の取り次ぎによって祈ります。
現代に生きるわたしたちが、
どのような困難なときにも聖霊の助けに信頼し、
キリストに従い、
あなたへの道をひたすら歩むことができますように。
また殉教者のあかしが、
世界に生きるすべての人の希望となるよう、
ペトロ岐部と一八七殉教者を、
一日も早く聖人の列に加えてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。
アーメン。」
(2008年6月5日日本カトリック司教協議会認可)
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