新約聖書:マタイによる福音書・第13章・第44〜第50節 [聖書]

「「天の国は畑に隠された宝に似ている。
それを見つけた人はそれをそのまま隠しておき、喜びのあまり、行って自分の持ち物をことごとく売り払い、その畑を買う」。
「天の国はまた、善い真珠を探し求める商人に似ている。
高価な真珠を一つ見出すと、商人は自分の持ち物をことごとく売りに行き、それを買った」。
「天の国はまた、海に投げ入れられてあらゆる魚を捕る網に似ている。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げる。そして座って、善いものは器に集め、悪いものは外に捨てる。代の終わりもこのようになる。み使いたちが現れて、正しい者の中から悪い者どもをより出し、燃え盛るかまどに投げ入れる。そこには嘆きと歯ぎしりがある」。
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この“喩え話し(たとえばなし)”は、イエス・キリストが、集まった群衆に語った聖句(イエス・キリストの言葉)です。聖書におけるイエス・キリストの教えは、そのほとんどが喩え話しとして語られており、注釈(又は註釈)をしないと、何が書いてあるのか理解できないことが多いのです。クリスチャンではない方………というよりも、聖書を勉強していない方が読むと″聖書を理解するのは難しい”という印象になってしまいます。

注解(註解)をすると次のとおりになります。
まず、この「天の国」とは、いわゆる死んだあとに行く「天国」のことではなく、他の福音書にも記載されている「神の国」を指しています。「神の国」というのは、神様の支配するところ → 発展させて、“神様の働き(はたらき)・神様が行う業(わざ)“が行われるところのことを指しています。でも、「行われるところ」という意味では、一般的な天国も含んでいると解釈できますね。

最初の『畑で宝を発見する人』の喩え話しですが、後で畑を買うということから、畑を持ってない貧しい小作農と思われます。この話しで“おかしい?”って思うところは、宝を発見したらそのまま持ち帰ればいいのに、その宝をわざわざ畑に隠し(掘り起こして埋める)、それから家に帰って家財道具を売り払って畑を買い取るというところです……が、それでは話しのストリーを追っているだけになりますね。これは“喩え話し”ですので、註釈(解釈)をしなければなりません。

この「宝」とは、“神様の働き・神様が行う業”のことで、「畑」は私達“人間の心”のことです。「その畑を買う」とは、“自分の心の気付き”のことで、また、「持ち物をすっかり売り払って」とは、“過去の罪深い生き方と決別し、神様の御心(みこころ)にしたがった新しい生き方をする”と解釈します。
次に『よい真珠を探す』の喩え話しですが、高価な真珠を扱うくらいの商人ですから、先ほどの話しとは違ってこちらは大金持ちと思われます。この人も畑で宝を発見する人と同じで、家に帰って持ち物をすっかり売り払って高価な真珠を買い求めます。解釈は「畑の宝」とまったく同じですね。

この2つの喩え話しを通解(つうかい)すると、「神様の働き・神様が行う業」というものは、貧しい人であろうと金持ちの人であろうと、全ての人の心に臨んでおり、それに気付いた人は、過去の罪深い生き方と決別して神様の御心にしたがった生き方をする。」ということになります。続く後段部分は。神様の働き・神様が行う業に気付かない、相変わらず罪深い生き方をしている人間との選別を画いています。
神様の働き・神様が行う業=宝は、私たち人間が望もうと望まないと関係なく、日々私達人間に臨んでいるのです。そのような「宝」が私達に臨んでいることに早く気付いて、過去の罪深い生き方と早く決別し、それを隣人と分かち合うことができるように努めていくように説いているのですね。

【注釈(註釈)ちゅうしゃく】
語句の意味や用法を解説したり、補足的な説明を加えたりすること。また、その説明。「専門用語を―する」「―書」
【注解(註解)ちゅうかい】
本文に注を加えて、その意味を説明すること。また、その説明。注釈。「難解な語句を―する」
【通解(つうかい)】
文章の全体にわたって解釈を施すこと。また、その解釈。通釈。
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