旧約聖書:シラ書(集会の書)第1章・第22〜第24節 [聖書]

「不当な憤りには、弁解の余地がなく、
理不尽な憤りは、身の破滅を招く。
辛抱強い人は、時がくるまで耐え忍ぶ。
耐え忍んだ後には、気分が晴れて壮快になる。
彼は語るべき時が来るまで、口を慎む。
そうすると多くの人々は、彼の思慮深さを伝え広める。」
『新共同訳聖書』から

この部分は「自制」と題されたところです。そうなのです。この聖句(聖書の言葉)は私の自戒とする言葉です。この歳になると、さすがに理不尽なことは言わず、思慮も少しは深くなったつもりですが、20代のころは短気で余計なすそことや無意味な批判を度々言って失敗していましたね(; ̄O ̄)とにかく思慮すること、忍耐強く辛抱することですね。若いころは自制心に欠けていたと反省しています。最後に、「口は災いの元」です!
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教会日記2022.9.21(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」水曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での7時からの平日のミサに与りました。まだ台風の影響でしょうか、曇り空ですね。しかし、台風が去って随分と涼しくなりました。今までワイシャツだけでしたが、上着を着てちょうどよいくらいです。今日も清々しい朝を迎えることができました。

ミサでは、「聖マタイ使徒福音記者」の祝日をお祝いしてお祈りしました。
そして、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
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「聖マタイ使徒福音記者」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日9月21日は、「聖マタイ使徒福音記者」の祝日です。
聖マタイは、聖書に書いてあるとおり、カファルナウムの町でユダヤの徴税人として働いていました。当時の徴税人は、ローマ帝国の手先(代理人)となって同胞からお金を取る者(多く搾取する者)として、罪人(つみびと)とみなされ、同胞であるユダヤ人から嫌われていました。ある日、収税所の前を通られたイエス・キリストから「私に従いなさい」と声をかけられ、イエス・キリストの12使徒の一人となったのです。

聖書の3福音書(共観福音書)には、次のとおり書かれています。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第9章・第9節
<マタイの召命>
「イエスはさらに進み、マタイという人が収税所に座っているのをご覧になり、呼びかけられた。「わたしに従いなさい」。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
◯新約聖書:マルコによる福音書・第2章・第14節
<徴税人レビの召命>
「そして、通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と仰せになった。すると、彼は立ち上がって、イエスに従った。」
※聖句中にある「アルファイの子レビ」は聖マタイのこと。
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
◯新約聖書:ルカによる福音書・第5章・第27~第28節
<レビの召命>
「さて、その後、イエスはそこを出ていき、レビという徴税人が収税所に座っているのをご覧になり、「わたしに従いなさい」と仰せになった。すると、レビは一切を捨てて立ち上がり、イエスに従った。」
※聖句中にある「レビ」は聖マタイのこと。
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

【共観福音書(きょうかんふくいんしょ)】
新約聖書の4つの福音書のうち、ヨハネによる福音書を除くマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書のことを指します。この3つ福音書には、共通する記述が多くあり、同じような表現もみられます。聖書学の研究の結果、本文を相互に比較し、一覧にした共観表(シノプシス)が作られたことから共観福音書と呼ぶようになりました。

福音記者である聖マタイは、福音書を当時のユダヤ社会で使われていたアラム語で著わし、旧約聖書に書かれた預言が、イエス・キリストにおいて実現されたと主張しました。そして、イエス・キリストが真の救い主、神であることを強調しています。特にイエス・キリストのお言葉を「山上の説教」として記しています。その後、聖マタイがどのような生涯を辿ったかは明らかではありませんが、一説によると、エチオピアまで福音宣教に行き、そこで殉教したと伝えられています。

この絵は、イタリアの有名な画家であるカラヴァッジョの「聖マタイの召命」です。ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571年~1610年)は、バロック期のイタリア人画家です。この絵の一番右端がイエス・キリストです。一番左端の人物を指さしていますね。そして一番左端の机に座って下を向いて金勘定をしいているのが聖マタイです。この絵は、誰が聖マタイであるのか?昔から議論されてきたという経緯があります。従来は、テーブルの真ん中に座ってイエス・キリストを見ているヒゲを蓄えた人が聖マタイであるという説が定説となっていましたが、近年では、その人物が一番左端の下を向いて金勘定をしている人を指さしていることから、聖マタイは、この絵の一番左端の人というのが有力な説となっています。
聖マタイの召命.jpg
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今日の日記2022.9.20(エリザベス二世女王の国葬) [日記]

昨日、イギリス(正式名称「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」)のエリザベス二世女王の国葬が、ウェストミンスター寺院で執り行われました。その葬儀の中で、今月就任したばかりのリズ・トラス首相が、葬儀に参列した約2,000人の前で、『ヨハネによる福音書』の第14章・第1~9節を朗読するという栄誉に与りました。私は帰宅後、テレビ中継で拝聴いたしました。日本語の同時通訳がありましたのでよくわかりましたね。あと、同時通訳者が訳した「主の祈り」が、カトリック教会と同じ祈祷文でしたね。

◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第14章・第1~第9節
「「心を騒がせてはならない。あなた方は神を信じなさい。
そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には、住む所がたくさんある。そうでなければ、あなた方のために、場所を準備しに行くと言ったであろうか。わたしが行って、あなた方のために場所準備したら、戻ってきて、あなた方をわたしのもとに迎えよう。わたしのいる所に、あなた方もいるようになるためである。わたしがどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている」。
トマスがイエスに言った。
「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちには分かりません。どうすればその道を知ることができるでしょうか」。イエスは仰せになった。「わたしは道であり、心理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。ああなたがたが私を知っているなら、わたしの父をも知ることになる。いや、もう今から父を知っており、また、すでに父を見たのである」。
フィリポがイエスに言った。
「主よ、わたしたちに御父(おんちち)をお見せください。それで充分です」。イエスは仰せになった。「フィリポ、こんなに長い間、あなた方とともにいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。なぜ、わたしたちに御父を見せてください」というのか」。
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

イギリスは、ヘンリー8世国王の離婚という政治的問題〈ヘンリー8世は離婚したい。でも、ローマ教皇はカトリック教会の教義に従い離婚を認めない〉が原因で、カトリック教会から離婚以外の教義自体は否定せずに離別し、1534年に独立した「英国国教会(イングランド国教会)」が国家的な宗教となっています。ですから、立憲君主制であるイングランド(イギリス)の統治者である国王(イギリスの君主)は、英国国教会の「首長(信仰の擁護者)」になっています。
エリザベス二世女王がお亡くなりになられましたので、2022年9月8日現在、チャールズ3世国王がその地位にあります。また、イングランド国教会の大主教(司祭の最高位者)は、カンタベリー大主教です。昨日の国葬は、カンタベリー大主教が司式されていましたね。なお、日本の「日本聖公会(にほんせいこうかい)」は、この英国国教会をルーツとしています。
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教会日記2022.9.20(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」火曜日) [教会日記]

この記事は、今朝8時過ぎに掲載したはずだったのですが、先ほど見たらなぜか掲載されていませんでしたので、再び掲載操作をして今度は掲載できました( ̄▽ ̄;)
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での7時からの平日のミサに与りました。今日も台風の影響で風がすごい吹き荒れましたね。昨日は時折り激しい雨が降りましたが、今日も同様の荒れた天気となりました。でも、私は清々しい朝を迎えることができました。

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
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新約聖書:ルカによる福音書・第13章・第6〜第9節 [聖書]

「そして、イエスは次の喩えを語られた、「ある人が、自分のぶどう園にいちじくの木を植えておいた。ある日、その実を探しにいったが、一つも見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『三年このかた、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、一つも見つけたことがない。切り倒しなさい。なぜ、土地を無駄に使っているのか』。すると、番人は答えた、『ご主人さま、今年もう一年、このままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。そうすれば、来年は実を結ぶでしょう。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

今日の聖句(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)は、「実のならないいちじくの木のたとえ」です。いちじくは、古代エジプトの壁画にもブドウと共に描かれており、さらには、聖書にも数多く登場する歴史ある果物なのです。旧約聖書の創世記に登場するアダムとイブが、裸を隠すのに使ったのもいちじくの葉でした!ご存知でしたか?(⌒-⌒; ) 新約聖書には「実のならないいちじくの木のたとえ」として、いちじくが登場しますね。はるか昔にアラビア半島で誕生したいちじくは、少なくとも6000年前には栽培が始まっていたといわれています。その後ヨーロッパからペルシャ、中国へと伝わり、日本へは江戸時代に中国から長崎に運ばれました。当初は薬用として栽培されていましたが、生産量が増えるにつれ食用として親しまれるようになったそうです。

この聖句のお話しは次のとおりです。
ぶどう園の持ち主が、ぶどう園にいちじくの木を植えていました。ぶどう園の持主(農夫)にとっては、普通の行為であって珍しいことではありません。いちじくの木は根を広く張りますので、実がならなければ、その木が占めている土地は無駄になってしまうのです。そのため、切り倒して他の実のなる木を植えることは理にかなったことです。この喩え話しは「実のならないこのいちじくの木を切り倒すことをもう少し待ってほしいという番人の願い」が聖句のポイントとなっています。喩え話しに出てくるほど、いちじくは当時から一般的だったのですね。この喩え話しの教えは次のとおりです。

イエス・キリストは、悔い改めない当時のユダヤ人への非難として、この喩え話しを語っておられます。「実のならないいちじく」とは、神様の教えを守らずに背信し続けたイスラエルの民、つまり当時のユダヤ人を表しており、「実り」とは、悔い改め、隣人への愛、赦しのある行為のことを指しています。そして、「番人の願い」とは、忍耐と愛を持って実りを切望する神様の願いを表しています。また、ぶどう園の持ち主が父である神様だとすれば、ぶどう園は神様が造った世界を表しており、「番人」とはイエス・キリスト自身を表していますね。喩え話しに登場する人や物には意味があるのです。

実を実らせないという、神の教えを守らず背信しているイスラエルの民(当時のユダヤ人)を救うために、父である神様によって地上に降誕されたイエス・キリストは、逆に救おうとしたイスラエルの民(当時のユダヤ人)によって十字架に付けられて殺されてしまうのです。それは、すべての人々の罪を背負われてお亡くなりになったイエス・キリストの贖罪が、悔い改めた新しい民となり、いちじくの木に豊かな実がつく=悔い改め、隣人への愛、赦しのある行為を神様は忍耐を持って切望しているのですね。この喩え話しは、そのような神様の恵みと裁きの両方の意味をもって私たちに教えているのです。

この喩え話しによる教えは、昔のイスラエルの民(当時のユダヤ人)だけの昔話しではありません。現在を生きる私たちに与えられた教えでもあります。私たちは、いつも罪を犯してしまいます。でも、その度に何度でも繰り返し立ち直って、神様の恵みにふさわしい実を実らせる生活をしなければなりません。神様の恵みにふさわしい実を実らせることのできない者は、この聖句にあるとおり「もしそれでもだめなら、切り倒してください」となります。つまり、地獄行き!という言い方はどうかな?と思いますが、天の国で神様の食卓に与るという報いを受けることはできないということですね(⌒-⌒; )

【贖罪(しょくざい)】
広い意味では神の救済,償い,和解,ゆるしと同義ですが,イエス・キリストの生と死と復活を通じての神の恩恵として実現される人間の罪からの解放と、これによってもたらされる神との交わりの回復をいいます。
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教会日記2022.9.19(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」月曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での7時からの平日のミサに与りました。今日は祝日ですが、職場の大学では月曜日の授業日数が足らないため、授業日となって出勤となりました。台風の影響で一昨日から雨天です。昨日は時折り激しい雨が降りました。南西の暖かい風が、日本列島に入り込んでいますから、ずいぶんと蒸し暑い朝になりましたね。でも、私は清々しい朝を迎えています。

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
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ツツのことば(第2日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「人生とは、解決すべき問題でも、答えるべき質問でもない。人生とは、経験すべき未知なのだよ。」

デズモンド・ムピロ・ツツのことは、「ツツのことば(第1日目)2022.9.6」をご覧ください。
言葉や思考ではなく、すべて経験なのですね。まだ未知の世界を経験すべきこととは、一般的に実践(行動)することです。何事も果敢にチャレンジしていくことです。それが人生なのですね。
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今日の日記2022.9.18(餃子屋さん!) [日記]

昨夜のことになりますが、町田市街に餃子製造・販売&餃子専門居酒屋「餃山堂」で、定番の焼き餃子とチーズがのったチーズ餃子を食べました。餃子の皮がカリッと焼き上がって、中は肉汁が出てジューシーな餃子です。めちゃ美味しかったです!
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新約聖書:ヨハネによる福音書・第15章・第13節 [聖書]

「友のために命を捨てること、
これ以上の愛を人は持ちえない。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この言葉は、新約聖書の中でも有名な聖句(イエス様の言葉・聖書の言葉)です。
「友のために命を捨てること、これ以上の愛を人は持ちえない。」ということですが、これは、他の人のために、自分の命を捨てる<自己犠牲>という行為になります。<自己犠牲>とは、自分を犠牲にして他の人を救うことで、この聖句の場合は命を救うということです。
友とは、一般的に言うところの親友とか友達のことだけでなく、“自分の隣人”のことを意味します。「命を捨てる。」と言っても、現在では、一生のうちで一度あるかないかだと思います。ですから、私は「友のために自分の命を捨てること。」を次のように解釈しています。

まず、文字どおり「隣人のために命を捨てること。」、これは<自己犠牲>そのままの意味で受けとめます。そして、次に<自己犠牲>というものを拡大解釈して、「善い行いの内で、他の人(隣人)のやりたがらない、苦しい、辛い、損な、汚い、嫌なことを率先して行うこと。」、これは命を捨てることではありませんが、ある意味において「友のために自分の意思を捨てて行う。」ことになります。これも一種の<自己犠牲>であると解釈できますね。これも重要なことであると思うのです。
しかし、初めから<自己犠牲>と思っては意味はなく、<自己犠牲>と表に出すのはどうかと思いますね。すべては「愛」が根底にないと意味をなしません。イエス・キリストの教えは「隣人への愛」と徹底した「赦し」です。どちらも人間にとってかけがえのないものです。

ところで、この聖句のとおりに友のために自分の命を捨てた人達がいます。それは洞爺丸事故(とうやまるじこ)でのことです。ご年輩の方はご記憶の方も多いと思います。私が生まれる4年前のことですが、1954年(昭和29年)9月26日、青函航路(青森・函館の間の航路)で台風第15号により起こった青函連絡船の海難事故です。死者と行方不明者は、両方を合わせて1,155人にも及び、日本海難史上最大最悪の惨事となりました。
事故の詳細は省きますが、この遭難した洞爺丸に、たまたま乗り合わせたアルフレッド・ラッセル・ストーン(カナダ:1902年~1954年9月26日・キリスト教プロテスタント・メソジスト派の宣教師)とデーン・リーパー(アメリカ:1920年~1954年9月26日・キリスト教プロテスタント・キリスト教青年会、通称YMCAの宣教師の2人の外国人宣教師が乗船していたのです。
2人の宣教師は、難破して徐々に沈み行く船上にあって、手品で子供を和ませたり、自分達に与えられた救命胴衣を子どもに着せてやり、自らの命を投げ出して2人の子どもの命を救い遭難死しました。2人の遺体は、5日後に浜辺にうち上げられたそうです。殉教です。翌日、助かった2人の子どもの親が新聞社に知らせたことにより事実が判明しました。新聞には「北海に散った神の使徒」という見出しで報道されました。なお、デーン・リーパーには幼い3人の子どもがいました。

台風による暴風雨の中、今にも船が沈むという生きるか死ぬかの極限状態、錯乱状態にある中で、怯える子ども達に手品をして見せて和ませたり、まして自分の救命胴衣を子どもに与えるなど、とても普通の人間にできることではありません。私自身に置き換えて考えると、ものすごく恥ずかしいことですが、自分が助かることだけで精一杯で、とても余裕などはなかったことでしょう。2人の宣教師は、本物の“神の使徒”だったのですね。
なお、亡くなった2人には、その後、日本政府が「勲五等双光旭日章」を贈ったそうですが、政府の愚かさに呆れ果ててしまいますね。外国人の方が自分の命を捨てて日本人の子どもの命を救った行為が「勲五等」ですか?腹が立つというか頭にくるというか、あまりの愚かさに日本国民として恥ずかしい限りです。叙勲する行為自体に賛否があると思いますが、叙勲するなら旭日大綬章?いや桐花大綬章?いやいや大勲位菊花大綬章です!それでも足らないくらいです!自己犠牲という尊い命を捧げたことにあたいするのが叙勲ですか?こんないい加減な叙勲などしないことです。
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