教会日記2021.3.21(カトリック成城・聖タデオ教会「主日のミサ」日曜日) [教会日記]

今日は、ミサが終わってから、復活祭に向けたカトリック成城教会の聖タデオ聖歌隊の練習があるため、久しぶりに日曜日の9時30分からのミサに与りました。雨が降って、花粉症の私には恵みの雨です。再発出された緊急事態宣言は本日解除となり、ミサの司式も少し通常のミサに戻りつつあります。ただ、ミサ中に聖歌は歌わないことは継続となります。4月3日の復活の主日・聖なる徹夜祭と4日の復活の主日・日中のミサだけ聖歌は復活します。

ミサは、コロナ渦にあることから3蜜を避けるため、ソーシャルディスタンスで入堂制限があります。また、今までミサに与っていた回数を半減することやなるべく自宅でのお祈りを推奨しています。緊急事態宣言が延長されましたから、ミサに与るにはまだまだ制限が継続されます。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
とお祈りしました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、仕事の同僚と同じ病の私の親しいご婦人の二人の病気が癒されますようにお祈りしました。最後に、「主よ、ここにわたしがおります。このわたしを遣わしてください。アーメン」とお祈りしました。
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復活祭:典礼聖歌集・第345番と第351番のお話し [聖歌日記]

4月3日(土)夜の「復活の主日・聖なる徹夜祭」と4日(日)の「復活祭の主日・日中のミサ」で、カトリック成城教会の聖タデオ聖歌隊(4人に限定)は、いくつかの典礼聖歌を歌いますが、私が担当する4日は3曲歌います。その中の1曲に第345番「わたしは復活し」があります。この聖歌について、成城教会の山本主任司祭(神父様)が、以前に東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会の主任司祭をお勤めの時に、関口教会のホームページに書かれた記事がありますので掲載いたします。

「復活節に歌われる典礼聖歌の一つに「わたしは復活し」がある。その歌詞は、復活の主日のミサの入祭唱からとられている(詩編139からのかなりの意訳である)。「わたしは復活し、あなたとともにいる。あなたはわたしの上に手をのべられた。あなたの知恵ははかりがたい。アレルヤ」(典礼聖歌345)
それでは、この歌詞の「わたし」とはだれのことだろうか。「あなた」とはだれのことだろうか。実は、「わたし」とは「復活のキリスト」、「あなた」とは「父なる神」であり、復活のキリストが父なる神をたたえている言葉なのである。今日のミサでも復活のキリストがわたしたちの真ん中におられ、父なる神をたたえて「わたしは復活し、あなたとともにいる。…」と歌っておられる。わたしたちもキリストのからだとしてキリストと一つになって、「あなたの知恵ははかりがたい。アレルヤ」と唱和するのである。
2015年04月18日 山本量太郎神父」

◯典礼聖歌集:第345番「わたしは復活し」
「わたしは復活し
あなたと共にいる
あなたはわたしの上に手をのべられた
あなたの知恵は測りがたい
アレルヤ
アレルヤ
アレルヤ」

復活祭でのもう1曲の重要な典礼聖歌を掲載いたします。それは、典礼聖歌集:第351番「復活の続唱(Victimae paschali laudes)」です。毎年のことですが、この続唱を静かなお御堂で気持ちを込めて歌っていると、「マリアよ、わたしたちに告げよ、あなたが道で見た事を、開かれたキリストの墓、よみがえられた主の栄光」のところから涙がにじんできて、最後の方は涙があふれ出て歌えなくなります………きちんと終わりまで歌ったことがありません。とても素晴らしい感動の聖歌です。それでは、まず、典礼聖歌集にある日本語の歌詞を掲載し、続いて原曲のラテン語歌詞を掲載いたします。

◯典礼聖歌集:第351番「復活の続唱」
(先唱)
キリストを信じるすべてのものよ
(会衆)
主の過越をたたえよう
こひつじはひつじをあがない
罪のないキリストは
罪の世にゆるしをもたらされた
死といのちとのたたかいで
死を身に受けたいのちの主は
いまや生きて治められる
マリアよ
わたしたちに告げよ
あなたが道で見た事を
開かれたキリストの墓
よみがえられた主の栄光
あかしする神の使いと残された主の衣服を
私の希望
キリストは復活し
ガリレアに行き待っておられる
ともにたたえ告げ知らせよう
主キリストは復活された
勝利の王キリストよ
いつくしみをわたしたちに
アーメン
アレルヤ」

この長い続唱は、原曲であるラテン語の正式名称は「ヴィクティマエ・パスカリ・ラウデス(Victimae Paschali Laudes)『復活のいけにえに』」というカトリック教会の聖歌の一つです。中世に多く書かれた続唱(セクエンツィア)の一つで、復活祭のミサのためのものです。ブルゴーニュ出身で神聖ローマ皇帝コンラート2世のシャプラン(宮廷付き聖歌隊長)であったヴィポ Wipo(活動 1020頃-1040頃)の作とされています。イタリアの作曲家オットリーノ・レスピーギによるグレゴリオ風協奏曲(1921年)2楽章冒頭のヴァイオリンソロ等に引用されています。
[A]
Victimae paschali laudes 過ぎ越しのいけにえに
Immolent Christiani. 賛美をささげよ、キリスト者たちよ。
[B]
Agnus redemit oves 子羊が羊を贖い。
Christus innocens Patri 罪のないキリストが父に
Reconciliavit 罪びとたちを
Peccatores. とりなされた。
Mors et vita duello 死と命とは戦い
Conflixere mirando, 驚くべき仕方でぶつかりあう。
Dux vitae mortuus 命の王は、死ぬことで
Regnat vivus. 生きて治められる。
[C]
Dic nobis Maria マリアよ、私たちに告げよ。
Quid vidisti in via? あなたが道で見たものを。
Sepulcrum Christi viventis 生きているキリストの墓を
Et gloriam vidi resurgentis. そして蘇られた方の栄光を、わたくしは見た。
Angelicos testes 証しする天の使と
Sudarium et vestes. 布と服を。
Surrexit Christus spes mea 私の希望、キリストは復活し
Praecedet suos in Galilaeam. ガリラヤに行き、待っておられる。
[D]
Credendum est magis soli 真を語るマリアを
Mariae veraci 信ぜよ
Quam Iudaeorum 嘘を語る
Turbae fallaci. ユダヤの群集ではなく。
Scimus Christum surrexisse 私たちは知っている。キリストが
A mortuis vere. 真に死から立ち上がられたことを。
Tu nobis victor Rex 勝利の王であるあなた、どうか私たちを
miserere. あわれみたまえ。
[E]
Amen, Alleluia. アーメン(かくあれ)
アレルヤ(神を讃えよ)
▲1570年以降、カトリック教会では[D]の前半の歌詞は歌いません。
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「派遣の祝福」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

このブログの記事で、たびたび「派遣の祝福」について触れています。つい先日も派遣に関係する記事を掲載したばかりです。今日は、この「派遣の祝福」について、さらに掘り下げて書きます。内容は、信徒を主対象にしていますで、一般の方はご興味があれば読んでください。それでは、まずミサの最後の方の式次第を見てみましょう。ミサの最後のところで、信徒全員がご聖体を拝領した後、「拝領祈願」が行われ、続いて「閉祭の儀」が行われます。次のとおりの次第になります。

ご聖体を拝領した後、閉祭の儀の初めからミサの終わりまでの次第です。
◯閉祭の儀
典礼係「立ちましょう。」※ 司祭による次の言葉をうけて。
<派遣の祝福>
司祭「主は皆さんとともに。」
会衆「また司祭とともに。」
司祭「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。」
※司祭は、祝福しながら会衆に十字架のしるしをします。
会衆「アーメン。」
<閉祭のあいさつ>
司祭「感謝の祭儀を終わります。
行きましょう、主の平和のうちに。」
会衆「神に感謝。」
<閉祭の歌>
聖歌を歌いながら退堂する司祭を見送ります。
聖歌が終わったら散会となります。
以上のとおりです。

拝領祈願が終わってから、教会運営担当の信徒から短いお知らせの後、司祭は「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。」と会衆に派遣の祝福を与え、会衆は「アーメン」と応えます。続いて司祭は、「行きましょう、主の平和のうちに。」という派遣の言葉をもってミサを閉祭します。
そこで、まずミサの説明から始めましょう。「ミサ」という名称は、式の最後のラテン語の言葉「Ite, missa est.」(ite = 行きなさい、missa est = 派遣である)というフレーズの中の語に由来し、missa(ミサ)は、ラテン語で「派遣」を意味する missio(ミッシオ)に由来すると言われています。 これは、ミサをとおしてミサに与る信徒達が聖化され、イエス・キリストの教えを宣教するために世界に派遣されるということです。ミサの最後のところで、司祭(神父様)が信徒たちに「派遣の祝福」をすることでも分かります。ミサの中で、御言葉(みことば)と命のパン(ご聖体)によってイエス・キリストと結ばれた私達は、この派遣の祝福によって、イエス・キリストによる“福音(救いの良き知らせ)”を人々にもたらすために、信徒各々の生活する場に派遣されていきます。

以上のとおり、このミサ自体が福音宣教に派遣するという意味をもっているからですが、この派遣とは、次のとおり新約聖書の4つの福音書に書いてあることが根拠となっています。
◯マタイによる福音書:第28章・第19~第20節
「あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい。」
◯マルコによる福音書:第16章・第15節
「全世界に行き、造られたすべてのものに福音を宣べ伝えなさい。」
◯ルカによる福音書:第24章・第47節
「罪の赦しへ導く悔い改めが、エルサレムから始まり、すべての民に宣べ伝えられる。あなたがたはこれらのことの証人である。」
◯ヨハネによる福音書:第20章・第21節
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」
以上、いずれも『原文校訂による口語訳フラシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

ですから、ミサに与った信徒たちは、ミサのたびに福音宣教のため、全世界に派遣されることになるのです。福音は「善き知らせ」という意味ですが、聖書に書かれイエス・キリストの教えを知ってもらい、善き行いに導くことが福音宣教なのです。派遣の祝福は、つまり神様の祝福です。ヨハネによる福音書の第20章・第21節に「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」とおっしゃられたイエス・キリストご自身が、私達人間の罪を贖い、私達が住むこの地上に神の国を建設するために御父から派遣されて来られたように、私達もイエス・キリストによって派遣されるのですね。
イエス・キリストは、天に上げられる前に、マタイによる福音書の第28章・第19~第20節にある「あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことをすべて守るように教えなさい。わたしは代の終わりまで、いつもあなたが方とともにいる。」とおっしゃられ、使徒(弟子)達にその使命を与えたのです。

洗礼を受け私達信徒は、イエス・キリストの教えを直接受けた使徒をはじめ、現代の司祭や修道士と同じように福音を述べ伝える使命(ミッション)を担っています。弱い立場にある人々、病に苦しむ人々、貧困にあえぐ人々に、キリスト者(クリスチャン)は、聖書にある福音書に書かれた聖句(イエス・キリストの福音)を告げ知らせることによって希望をもたらすことができるのです。
ルカによる福音書の第10章・第4節に「あたた方は財布も袋、また履き物も携えてはならない。」とおっしゃられ、使徒(弟子)達を派遣される際の主の御言葉は“神のみを頼りにしなさい”という派遣の原点となるものでした。私達は生活の場である家庭、生活の糧を得る職場において、あるいはボランティアなどの社会活動の場において、自分にできる言葉と善き行いをもって、イエス・キリストと共に、イエス・キリストの想いを伝えることが、何よりも立派な宣教となることを改めて認識しましょう。

とは言ってみたところで、それでは具体的にどうしたらいいのでしょうか?ということですね。ここが重要なところです。それは、上記に書いた「自分にできる言葉と善き行いをもって、イエス・キリストの想いを伝えること。」ということに尽きます。それが福音を述べ伝えることになるのです。しかし、突如として聖書の福音書に書かれているとおり「隣人を愛しましょう!人を赦しましょう!」と言ったところで、なかなか聞いてもらえないというか、ドン引きされるだけですね。変な人と思われるかもΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン ですね。話すだけなら簡単ですが、これを聞いて理解して実践してもらうには、話す機会を考えるとか、もっと優しい言葉に言い換えるとか、何かの話しに混ぜて話すなどの工夫も必要になりますね。

そして、善き行いを自ら実践してまわりに影響を与え、善き行いをする人を増やすことも大切ですね。ホームレスなど困っている人を助ける支援活動(ボランティア)に参加するとか、救済のための支援募金をするなど、日々実践することです。もっと簡単なことでは、高齢者が横断歩道を渡ろうとしていたら、手を差し伸べて一緒に渡るとか、階段で難儀をしている人の荷物を持ってあげるとか、ちょっとした親切(=愛)も福音につながるものがあるのではないでしょうか。ちなみに私の場合は、このブログに毎日新しい記事、特に聖書の聖句を掲載することが福音を述べ伝える宣教方法の一つとなっております。

また、人(=隣人)のために祈ることは福音に通じることです。人のために祈ることはイエス・キリストが説いておられる「隣人への愛」となります。これは大切なことですね。弛まず祈ることは私達信徒にとって当たり前の務めですが、自分のためでなく、困っている弱い立場の人々のために祈ることは、これも福音の述べ伝えることに通じるものがあります。
私は、毎日朝夕に。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしています。

最後に、絶対に間違ってはいけないのは、聖書の福音書に書かれている「福音(救いの良き知らせ)」を述べ伝えることが宣教(目的)であって、決して勧誘することではありません。これを間違う人がいるのですね。勧誘するために派遣されるのではありません。福音を聴いた人が自ら納得して洗礼を希望することは正解ですが、勧誘するために福音を述べ伝えるのではないのですから………勧誘ありきでは、どこぞの新興宗教団体と同じになってしまいますね( ̄▽ ̄;)
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