旧約聖書:詩編・第138編・第1〜第8節 [聖書]

「わたしは心を尽くしてあなたに感謝し、
み使いたちの前であなたをほめ歌う。
わたしは聖なる神殿に向かってひれ伏し、
慈しみとまことの故に、あなたの名に感謝します。

まことに、あなたはみ言葉によって、
あなたの名をすべてに勝るものとされました。
わたしがあなたに呼び求めたとき、あなたは答え、
わたしの魂の力を強くしてくださいました。

主よ、地上の王はみなあなたに感謝します。
彼らはあなたの言葉を耳にしました。
彼らは主の権威について歌います、
〈主の栄光は偉大〉

主は高くいますが、低い者を顧みられ、
高ぶる者には近づかれない。
わたしが苦難の中を歩いても、
あなたはわたしの命を守ってくださる。

あなたは手を伸ばしてわたしに仇する者の怒りを防ぎ、
あなたの右手はわたしを救ってくださる。
主はわたしのためにすべてを成し遂げてくださる。
主よ、あなたの慈しみは永遠。
あなたの手の業を見捨てないでください。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳註聖書」

この『詩編』は、神への賛美の詩です。イエス・キリストもこの詩編で父なる神にお祈りを捧げられていました(していたはずです!)。詩編にあるほとんどの詩は、教会でのミサなどに用いられた典礼の詩と神への感謝の詩ですね。聖書の中でも一番長編なのが150編もあるこの詩編なのです。
この第138編は、「心からの感謝」という副題が付いているのですが、一日の生活を終えた感謝の気持ちを込めて「晩の祈り」としてよく唱えられます。私もたまにではありますが、ベッドに入る前に晩の祈りでこの詩編でお祈りをする時があります。一日の終わりは、「今日も一日ありがとうございました。」と感謝の言葉で終わりたいものですね。
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教会日記2021.3.30(カトリック成城・聖タデオ教会「聖週間・受難の火曜日のミサ」火曜日) [教会日記]

今日は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会の7時からの「聖週間・受難の火曜日のミサ」に与りました。日中はかなり暖かくなってきました。朝もスーツ姿で通勤できるほどです。花粉症は、ピークを超えたようですが、まだ続きます( ̄◇ ̄;) 憂うつな日々が続いています。さて、今は「聖週間」中です。復活祭に向けていつもに増して祈りに専心しましょう!

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人の二人が癒されるようお祈りしました。最後に「主よ、わたしがここにおります。このわたしを遣わしてください。アーメン」とお祈りしました。
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『キリストにならう』第2巻・第3章(第2日目) [キリスト教と読書]

「まず、あなた自身のうちに平和を保ちなさい。
そうすれば、他人にも平和を分けることができる。
平和な人は、偉大な学者よりも他人のためになる。
感情的な人は善さえも悪に変え、また悪を信じやすい。
ところが、平和を愛する人は、すべてを善に変える。
心に平和を保っている人は、誰をも疑わないが、
不平を言い怒りっぽい人は、いろいろな疑いに苦しめられる。
その人は、自分も平和を知らず、また他人の平和をも乱す。
またそうした人は、しばしば言ってはならないことを言い、
自分のしなければならないことをおろそかにする。
彼は他人のすることに気つかい、彼は自分の務めは怠る。
だから、あなたはまず、自分の霊魂について熱心でありなさい。
そうすれば自然に、隣人のことにも熱心に注意することができるであろう。」

「キリストにならう」の詳細は、「『キリストにならう』第1巻・第16章『他人の欠点を耐え忍ぶ』(第1日目)2021.3.23」をご覧ください。
そうですね、感情的になっては、その人に平和(平安・安らぎ)は訪れないでしょうね。自分の心が平安でいられるかは、いかに”心を平静に保つことができるか”ということにつきると思います。怒りやすい、疑いやすいといった起伏の激しい人には平和(平安・安らぎ)は訪れませんね( ̄▽ ̄;)
他にも、一緒にいて心を煩わす人もダメですね。そのような人と一緒では、心は平安にはなりません。残念ですがやめた方がいいですね。性格、育った環境や生活状況の違いも大きな要素です。私のように、①信仰、②家庭、③仕事、④社会支援活動の4つについて、寝ている時間以外、ある意味常に行動している人間は、ごく普通の生活をしている多くの人達に”煩わしさ”というご迷惑をおかけしているのではないかと。反省しなければなりませんね。”時と場合”ということもあり、難しいものがあります。しかし、不思議と平安な人のまわりには、平安を求めて人がたくさん集まってくるものです(⌒-⌒;)
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新約聖書:マタイによる福音書・第11章・第28〜第30節 [聖書]

「労苦し、重荷を背負っている者はみな、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしの心は柔和で謙遜であるから、わたしの軛(くびき)を受け入れ、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた方は魂の安らぎを見出す。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
『原文校訂によるフランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

「労苦し、重荷を背負っている者はみな、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」この聖句(イエス・キリストの言葉)で、私は何度も癒やされて安らぎを得ることができ、表現が極端かもしれませんが“息をする”ことができました。私と同じように、この聖句で癒やされた人はたくさんいるのではないでしょうか。
この現代社会で、疲れていない人なんていないと思います。大人も子どもも、体も心も疲れ果てているのです。人付き合いが下手で人間関係がうまくいかない。勉強しても成績が上がらない。いわれのない悪口を噂された。常にトップを目指さなければならない…………などなど、これでは疲れないわけがありません( ̄▽ ̄;)

イエス・キリストは、そんな私達に対して「休ませてあげよう」とおっしゃられています。でも、現実問題として多くの人は休んでいられない状況にあるわけです。しかし、間題は、“私たちが何によって疲れ果てているか、何によって安らぎを得て、癒やしを得て、平安を得ようとしているのか”ということではないでしょうか。
よく言われる“心地よく疲れる”というのとでは訳が違うのです。そうではなく、仕事では緊張の連続であり、常に強いられ、もう心身共にくたくたになり、心が押しつぶされるように疲弊しているというのが、多くの人の「疲れ」の現状ではないでしょうか。自殺者の心境にはなれませんが、その心境に近いかもしれません。

イエス・キリストは、私たちが苦しむ様子を、農具を取り付けられて畑で働かされている家畜の姿として表現しています。「軛(くびき)を負い。」という言葉ですね。重い軛をつけられて疲れきっている私たちに、イエス・キリストは「私のもとに来なさい」とおっしゃられます。あなたがたが担いでいる軛を外しなさいと。
本当はものすごくありがたい言葉ですが、そうは簡単にはいかないですよね。どうしてか?私たちは、この軛をもって働き、生活し、生きてきたのですから。重たい軛に耐えて、うまく担いで上手に畑を耕すこと、効率よく働き、その能力にしたがって評価され、それが当たり前の社会だとして生きてきたわけですからね。

イエス・キリストは、“軽い軛を与える”とおっしゃられています。休ませるといっても、何もしなくてもいいのではありませんね。職場の休憩時間ではないわけです。そのような休み時間を約束したのではないのです。イエス・キリストが約束した「休み、安らぎ」とは、実は軛を付け替えることだったのですね。
私達を疲れさせているのは、軛の重さや仕事の量ではなく、質や強いられる犠牲の大きさでもなく、「本質的な意味や目的に共感できないことで疲れている。」のではないでしょうか。世間の波に飲み込まれ、世間の物差しで自分を測っている。”本当の自分らしさ”を見失っているからではないでしょうか。

「わたしの心は柔和で謙遜であるから」、イエス・キリストは真実で優しいお方です。それ以上に、イエス・キリストは、十字架の苦しみをご経験された方です。ですから人間の苦労や痛みを知っていらっしゃるのですね。軛を取り替えること、仕事の目的を変えること、それは自分の人生観、価値観を変えることに他ならないと確信します。安らぎと癒やしはそこに約束されるのです。疲れて二進も三進もいかない人は、役に立たないいらないプライドなど捨ててしまい、平安と癒しを得られるように、今までの既存の生活・仕事環境から思い切って方向転換しましょう。人生は一つだけではありません!

【軛(くびき)】
車の轅(ながえ)の先端につけて、車を引く牛馬の頸の後ろにかける横木。
【輈(ながえ)】
「長柄」のこと。馬車・牛車などの前方に長く突き出ている2本の棒。先端に軛(くびき)をつけて牛や馬にひかせる。
図の矢印が軛(くびき)、牛の両側の横棒が輈(ながえ)です。
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2頭立ての軛(くびき)です。とっても重そうですね。
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教会日記2021.3.28(カトリック成城・聖タデオ教会「受難の主日(枝の主日)のミサ」日曜日) [教会日記]

今日は、カトリック成城・聖タデオ教会の9時30分からの「受難の主日(枝の主日)」のミサに与りました。カトリック教会では、今日から4月4日の「復活祭」に向けて「聖週間」が始まりました。聖週間と今日の受難の主日(枝の主日)については、詳細をこのブログに掲載しましたのでお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2021-03-28

聖堂の祭壇横に、棕梠(シュロ)の枝が十字架と共にかかげられています。
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午後から雨が降るようですね。花粉症の私には神様のお恵みですが、それにしても風が強く肌寒いです。春一番でしょうか。緊急事態宣言は解除となりましたが、感染者が増えているようですね。気をつけないと第4波となって、またまた緊急事態宣言となりかねません( ̄◇ ̄;) 聖週間に入り、4月3日の復活の主日・聖なる徹夜祭と4日の復活の主日・日中のミサまでは、何事もないことをお祈りしています。

聖堂横の桜も見頃は今日が最後になりそうです。超満開です!
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ミサは、コロナ渦にあることから3蜜を避けるため、ソーシャルディスタンスで入堂制限があります。また、今までミサに与っていた回数を半減することやなるべく自宅でのお祈りを推奨しています。緊急事態宣言が延長されましたから、ミサに与るにはまだまだ制限が継続されます。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
とお祈りしました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、仕事の同僚と同じ病の私の親しいご婦人の二人の病気が癒されますようにお祈りしました。最後に、「主よ、ここにわたしがおります。このわたしを遣わしてください。アーメン」とお祈りしました。
さぁ、今から復活祭で歌う聖歌の練習です!
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「聖週間」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日3月28日(日)から、キリスト教会において「降誕祭(クリスマス)」と並んで最も重要な「復活祭(イースター)」前の「聖週間」が始まりました。4月4日(日)の「復活祭(復活の主日)」の前日までの一週間を「聖週間(せいしゅうかん)」といいます。また「受難週(じゅなんしゅう)」ともいいますが、この受難とは、イエス・キリストが十字架で磔刑(たっけい:十字架のはりつけの刑)されたことをいいます。
昨夜3月27日(土)から今日の3月28日(日)は「受難の主日=枝の主日(えだのしゅじつ)」で、月曜日からは次のようになります。
3月29日(月)は「受難の月曜日」
3月30日(火)は「受難の火曜日」
3月31日(水)は「受難の水曜日」
4月1日(木)は「聖木曜日(主の晩餐の夕べのミサ)」
4月2日(金)は「聖金曜日(主の受難の祭儀)」・「過ぎ越しの聖なる断食(大斎・小斎)」
4月3日(土)は「聖土曜日」・夜から「復活の主日(復活祭)・聖なる復活徹夜祭(ふっかつてつやさい)」です。通常はこの復活徹祭で「洗礼式」が行われます。1日(木)からは最も重要な「聖なる三日間」といいます。
4月4日(日)は「復活の主日(復活祭)・日中のミサ」です。

◇受難の主日=枝の主日(えだのしゅじつ:「棕梠(シュロ)の主日」ともいいます)
聖週間の初日となる「受難の主日=枝の主日」は、キリスト教カトリック教会では祝日で、復活祭の一週間前の日曜日に当たります。この祝日は、イエス・キリストが子ろばに乗り、エルサレムに入城した時を記念するものです。新約聖書の「ヨハネによる福音書」では、エルサレムに来たイエス・キリストを、イエス・キリストの通る道で棕梠(シュロ)の木の枝を振ったり道に敷きつめたりして、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」と叫び喜び迎えました。

このイエス・キリストがエルサレムに入城した時の、その群衆の様子をミサの中で思い起こすため、皆さんは聖歌を歌いながら、棕梠(シュロ)の枝(写真)をもって神父様から祝別(祝福)のため、聖水をかけてもらうのです。その日が今日でした。祝福(祝福)を受けた枝はもらって帰り、来年の「灰の水曜日」まで家の中に飾っておきます。
また、この日の典礼の最大の特徴は、司祭(神父様)と複数の朗読者、さらには会衆全員の参加による「イエスの受難の朗読」が行われることです。朗読は今年は典礼の聖書朗読配分がB年ですので、『マルコによる福音書:第15章・第1〜第39節又は14章・第1〜第15節』からとられています。通常はイエス・キリスト役は司祭(神父様)、ローマ帝国のシリア州総督であったポンティオ・ピラト役は信徒から1人、群集役は信徒全員、語り手は信徒から1人です。悲しくも感激のある朗読となります。

ピーテル・パウル・ルーベンス作の「キリストのエルサレム入城」です 1632年。フランス最古の美術館の一つである「ディジョン美術館」蔵です。
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〈入城の福音〉
今年のミサにおける聖書朗読配分が「B年」となっていますから、次の『マルコによる福音書』又は『ヨハネによる福音書』のどちらかが朗読されます。
◯新約聖書:マルコによる福音書・第1〜第10節
「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山に面したベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れてきなさい。もし、誰かが、「なぜ、そんなことをするのか」と言ったら、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばがつないであるのをみつけたので、それをほどいた。「すると、そこに居合わせた人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばをイエスのところに連れてきて、その上に自分の上着を掛けると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ
主の名によって来られる方に
祝福があるように。
我らの父ダビデの来たる国に
祝福があるように。
いと高きところにホサナ」
『聖書協会共同訳聖書』から
◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第12章・第12~第16節
「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、
祝福があるように、
イスラエルの王に。」
イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」弟子たちは最初これらのことがわからなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々はそのとおりにイエスにしたのだということを思い出した。」
『聖書協会共同訳聖書』から

◇聖木曜日「主の晩餐」(この日のミサは「主の晩餐の夕のミサ」と言います。)
聖木曜日(せいもくようび)は、復活祭前の週の木曜日のこと。「洗足木曜日(せんぞくもくようび)」とも呼ばれます。聖木曜日からの三日間は特に尊重され、「聖なる三日間」と呼びます。イエス・キリストと使徒たちの「最後の晩餐(さいごのばんさん)」を記念する日であり、その席でイエスが(へりくだりの行いとして)弟子たちの足を洗ったという記述が福音書に見られるため、「洗足木曜日」という呼称が生まれました。また、カトリック教会ではこの日を「司祭職の制定の日」としており、司教が司祭たちに聖香油を渡す慣習があります。
◯新約聖書:コリントの信徒への手紙一・第11章・第23〜第26節
「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』
食事の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
『聖書協会共同訳聖書』から
◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第13章・第1〜第15節 ※「洗足」
「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。イエスは、父がすべてをご自分の手に委ねられたこと、また、ご自分が神のもとに帰ろうとしていることを悟り、夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手拭いを取って腰に巻かれた。それから、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭いで拭き始められた。(中略)こうしてイエスは弟子たちの足を洗うと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。」
『聖書協会共同訳聖書』から

◇聖金曜日「主の受難」
聖金曜日(せいきんようび)は、復活祭前の週の金曜日のこと。「主の受難日」とも呼ばれます。『ヨハネによる福音書:第18章・第1〜第19節・42節』にあるの記述をもとにイエスの受難を思い起こす特別な典礼や祈りが行われます。カトリック教会では聖金曜日には断食を行う習慣があます。断食といっても完全な絶食ではありませんが、「大斎(たいさい)」と「小斎(しょうさい)」を行います。「大斎・小斎」の説明は、このブログの「灰の水曜日のお話し2021.2.17」
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2021-02-17-1をお読みください。 
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新約聖書:マタイによる福音書・第5章・第27〜第28節 [聖書]

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫してはならない』と命じられている。しかし、わたしはあなた方に言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、心の中ですでに姦淫の罪を犯したことになる。」
『原文校訂によるフランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)は、イエス・キリストが小高い丘に登られ、集まった大勢の群衆に語り教えられた内容を「山上の説教(さんじょうのせっきょう)」として記載しているところです。イエス・キリストがいろいろな機会にいろいろな場所で民衆に教えられた内容をまとめたものと思われます。そして、この第27節からは「姦淫」と副題がついています。

妻以外の女性を見て、心の中で“淫らな”思いを抱いたら“姦淫したこと(犯したこと)”になるとイエス・キリストは説いています( ̄▽ ̄;) これは素直にこの聖句のままに理解することですね。もちろん実行したら完全に罪になるのですが、その前に心の中で思っただけでも罪になるということです。これを厳しいと受け取るかどうかは、その人によって違うのでしょうが、イエス・キリストは、人間(特に男性)がいとも簡単に罪に陥りやすい“性的な罪の誘惑”について、誘惑に負けないように厳しく戒めているのですね。そういえば、モーセの『十戒(じっかい)』の第6戒に、「姦淫してはならない」とあります!ちなみに、第9戒には「隣人の妻を欲してはならない」とあります。全10戒の内、2つが性的な行為の戒めとなっています。

この聖句の後にある第29~第30節に、「それで、もし右の目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出し、投げ捨てなさい。全身が地獄に投げ入れられるよりは、体の一部を失うほうがましである。 もし右の手があなたをつまずかせるなら、それを投げ捨てなさい。全身が地獄に投げ入れられるよりは、体の一部を失うほうがましである。」と続きます。
これはもう“性的な罪の誘惑”に負けたら(つまずいたら)地獄行き!Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン となるのですから大変なことです(; ̄O ̄)右の目でせいで負けそうに(つまずきそうに)なったら、その前にえぐり出してしまいなさい!とのことです。右の手のせいで負けそうに(つまずきそうに)なったら、その前に切り取ってしまいなさい!とのことです。そうすれば地獄には落ちないと( ̄▽ ̄;)

殺人はもちろんですが、傷害、窃盗、詐欺や殺人なども大きな罪ですね。しかし、聖書を読んでいると、性的な罪は最も重いものがあるように感じます。これは人として守らなければならない倫理的な生活・生き方など、イエス・キリストは、人間社会に秩序を与えて罪を犯せず、平和を実現させるために説いているのだと私は解釈しています。世の中の男性諸君!これは要注意ですぞ!さもないと地獄行きになりますよ!

【姦淫(かんいん)】
不正な男女の交わり、不倫な情事のこと。
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教会日記2021.3.26(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」金曜日) [教会日記]

今日は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会の7時からの平日のミサに与りました。日中は20度近くになり暖かくなってきましたが、まだまだ朝は寒いですね。花粉症は、ピークを超えたようですが、まだ続きます( ̄◇ ̄;) 憂うつな日々は続きます。さて、今は「四旬節」中です。いつもに増して祈りに専心し、積極的に愛徳の業を行い、毎日の生活で節制するようにしなければなりません。4月4日の「復活祭」に向けて信仰生活を充実したものにしましょう!

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人の二人が癒されるようお祈りしました。最後に「主よ、わたしがここにおります。このわたしを遣わしてください。アーメン」とお祈りしました。
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旧約聖書:シラ書(集会の書)・第9章・第9節 [聖書]

「夫のある女と席を同じくし、彼女とともに、ぶどう酒を酌み交わして楽しむな。さもないと、お前の心は彼女に傾き、お前は血にまみれて破滅に陥るだろう。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

なんと!既婚女性が同席する呑み会はダメだということですね?Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン…………誠に残念であります!何時の時代も男性にとっては、美しい女性に気が引かれるものです( ̄▽ ̄;)………これはあくまでも一般論です。しかし、結婚している女性に心が奪われるとは、男としてはまったく修行が足りませんね~(⌒-⌒; )心が彼女に傾いて、血にまみれて破滅するのですぞ!(; ̄O ̄)これは理性の問題でもありますが、自らでなくても、女性の方からの誘惑はあり得るわけです。「誘惑」の2文字は、自分の信仰心が試される大問題ですね( ̄▽ ̄;)
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今日の日記2021.3.25(信仰生活近況) [日記]

2012年(平成24年)4月7日に、カトリック町田教会で洗礼を受けて9年となりますが、その前年に町田教会で入門講座を受講し、毎週ミサに与っていました。現在は、カトリック成城教会に転入し、成城教会の聖タデオ聖歌隊で教会の奉仕活動をしています。それと、信仰生活の一環として「山谷夜回りの会」のホームレス支援活動をしています。

カトリック教会の信徒として、信仰生活で得た一番大きなものは、なんといっても心の平安ですね。年を増すごとに安定しています。洗礼を受けるまでは、いつも多くの悩みを抱えており、いろいろな欲に凝り固まり、社会規範を逸脱しそうなこともあり、人の会話、顔色や世間体が気になり、いつも動揺し、心が休まることがありませんでした。

それが、一回でも多くミサに与り、毎日の日課として聖書を読んでお祈りに励んだ結果、心に平安を得ることができたのです。こうなると、今まで悩んでいたことが「なぜ、あのようなことで悩んでいただろうか。」と思えるようになり、次にいろいろな欲がなくなり、人の会話、顔色や世間体といったものに気を使うことがなくなったのでした。

しかも、相手の故意とわかっている悪意でさえも、赦せるようになりました。元々、悩み事があっても物事を長く引っ張らない、すぐ切り替えることができる性格なものですから、心の平安を得る下地はあったと思います。人間にとって生活の中に信仰があることは大切なことだと思います。信じるられること、信頼できること、すべてを委ねられること、それが心の平安を生むのですね。今日も一日感謝です。
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