「派遣の祝福」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

このブログの記事で、たびたび「派遣の祝福」について触れています。つい先日も派遣に関係する記事を掲載したばかりです。今日は、この「派遣の祝福」について、さらに掘り下げて書きます。内容は、信徒を主対象にしていますで、一般の方はご興味があれば読んでください。それでは、まずミサの最後の方の式次第を見てみましょう。ミサの最後のところで、信徒全員がご聖体を拝領した後、「拝領祈願」が行われ、続いて「閉祭の儀」が行われます。次のとおりの次第になります。

ご聖体を拝領した後、閉祭の儀の初めからミサの終わりまでの次第です。
◯閉祭の儀
典礼係「立ちましょう。」※ 司祭による次の言葉をうけて。
<派遣の祝福>
司祭「主は皆さんとともに。」
会衆「また司祭とともに。」
司祭「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。」
※司祭は、祝福しながら会衆に十字架のしるしをします。
会衆「アーメン。」
<閉祭のあいさつ>
司祭「感謝の祭儀を終わります。
行きましょう、主の平和のうちに。」
会衆「神に感謝。」
<閉祭の歌>
聖歌を歌いながら退堂する司祭を見送ります。
聖歌が終わったら散会となります。
以上のとおりです。

拝領祈願が終わってから、教会運営担当の信徒から短いお知らせの後、司祭は「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。」と会衆に派遣の祝福を与え、会衆は「アーメン」と応えます。続いて司祭は、「行きましょう、主の平和のうちに。」という派遣の言葉をもってミサを閉祭します。
そこで、まずミサの説明から始めましょう。「ミサ」という名称は、式の最後のラテン語の言葉「Ite, missa est.」(ite = 行きなさい、missa est = 派遣である)というフレーズの中の語に由来し、missa(ミサ)は、ラテン語で「派遣」を意味する missio(ミッシオ)に由来すると言われています。 これは、ミサをとおしてミサに与る信徒達が聖化され、イエス・キリストの教えを宣教するために世界に派遣されるということです。ミサの最後のところで、司祭(神父様)が信徒たちに「派遣の祝福」をすることでも分かります。ミサの中で、御言葉(みことば)と命のパン(ご聖体)によってイエス・キリストと結ばれた私達は、この派遣の祝福によって、イエス・キリストによる“福音(救いの良き知らせ)”を人々にもたらすために、信徒各々の生活する場に派遣されていきます。

以上のとおり、このミサ自体が福音宣教に派遣するという意味をもっているからですが、この派遣とは、次のとおり新約聖書の4つの福音書に書いてあることが根拠となっています。
◯マタイによる福音書:第28章・第19~第20節
「あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい。」
◯マルコによる福音書:第16章・第15節
「全世界に行き、造られたすべてのものに福音を宣べ伝えなさい。」
◯ルカによる福音書:第24章・第47節
「罪の赦しへ導く悔い改めが、エルサレムから始まり、すべての民に宣べ伝えられる。あなたがたはこれらのことの証人である。」
◯ヨハネによる福音書:第20章・第21節
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」
以上、いずれも『原文校訂による口語訳フラシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

ですから、ミサに与った信徒たちは、ミサのたびに福音宣教のため、全世界に派遣されることになるのです。福音は「善き知らせ」という意味ですが、聖書に書かれイエス・キリストの教えを知ってもらい、善き行いに導くことが福音宣教なのです。派遣の祝福は、つまり神様の祝福です。ヨハネによる福音書の第20章・第21節に「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」とおっしゃられたイエス・キリストご自身が、私達人間の罪を贖い、私達が住むこの地上に神の国を建設するために御父から派遣されて来られたように、私達もイエス・キリストによって派遣されるのですね。
イエス・キリストは、天に上げられる前に、マタイによる福音書の第28章・第19~第20節にある「あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことをすべて守るように教えなさい。わたしは代の終わりまで、いつもあなたが方とともにいる。」とおっしゃられ、使徒(弟子)達にその使命を与えたのです。

洗礼を受け私達信徒は、イエス・キリストの教えを直接受けた使徒をはじめ、現代の司祭や修道士と同じように福音を述べ伝える使命(ミッション)を担っています。弱い立場にある人々、病に苦しむ人々、貧困にあえぐ人々に、キリスト者(クリスチャン)は、聖書にある福音書に書かれた聖句(イエス・キリストの福音)を告げ知らせることによって希望をもたらすことができるのです。
ルカによる福音書の第10章・第4節に「あたた方は財布も袋、また履き物も携えてはならない。」とおっしゃられ、使徒(弟子)達を派遣される際の主の御言葉は“神のみを頼りにしなさい”という派遣の原点となるものでした。私達は生活の場である家庭、生活の糧を得る職場において、あるいはボランティアなどの社会活動の場において、自分にできる言葉と善き行いをもって、イエス・キリストと共に、イエス・キリストの想いを伝えることが、何よりも立派な宣教となることを改めて認識しましょう。

とは言ってみたところで、それでは具体的にどうしたらいいのでしょうか?ということですね。ここが重要なところです。それは、上記に書いた「自分にできる言葉と善き行いをもって、イエス・キリストの想いを伝えること。」ということに尽きます。それが福音を述べ伝えることになるのです。しかし、突如として聖書の福音書に書かれているとおり「隣人を愛しましょう!人を赦しましょう!」と言ったところで、なかなか聞いてもらえないというか、ドン引きされるだけですね。変な人と思われるかもΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン ですね。話すだけなら簡単ですが、これを聞いて理解して実践してもらうには、話す機会を考えるとか、もっと優しい言葉に言い換えるとか、何かの話しに混ぜて話すなどの工夫も必要になりますね。

そして、善き行いを自ら実践してまわりに影響を与え、善き行いをする人を増やすことも大切ですね。ホームレスなど困っている人を助ける支援活動(ボランティア)に参加するとか、救済のための支援募金をするなど、日々実践することです。もっと簡単なことでは、高齢者が横断歩道を渡ろうとしていたら、手を差し伸べて一緒に渡るとか、階段で難儀をしている人の荷物を持ってあげるとか、ちょっとした親切(=愛)も福音につながるものがあるのではないでしょうか。ちなみに私の場合は、このブログに毎日新しい記事、特に聖書の聖句を掲載することが福音を述べ伝える宣教方法の一つとなっております。

また、人(=隣人)のために祈ることは福音に通じることです。人のために祈ることはイエス・キリストが説いておられる「隣人への愛」となります。これは大切なことですね。弛まず祈ることは私達信徒にとって当たり前の務めですが、自分のためでなく、困っている弱い立場の人々のために祈ることは、これも福音の述べ伝えることに通じるものがあります。
私は、毎日朝夕に。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしています。

最後に、絶対に間違ってはいけないのは、聖書の福音書に書かれている「福音(救いの良き知らせ)」を述べ伝えることが宣教(目的)であって、決して勧誘することではありません。これを間違う人がいるのですね。勧誘するために派遣されるのではありません。福音を聴いた人が自ら納得して洗礼を希望することは正解ですが、勧誘するために福音を述べ伝えるのではないのですから………勧誘ありきでは、どこぞの新興宗教団体と同じになってしまいますね( ̄▽ ̄;)
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