今日の日記2021.3.1(大学図書館の玄関に掲げる言葉!) [日記]

私が勤務する国士舘大学世田谷キャンパス(法人本部校舎)の中央図書館玄関(入口)上に、ラテン語で次の言葉が掲げられています。ラテン語を掲げるなんて、さすが大学の図書館ですね。
「VERITAS NUNQUAM PERIT」
外国語をカタカナ読みするなど無謀でありますが、わかりやすくするためにあえてカタカナで書くと(読むと)「ウェーリタース ヌンクァム ペリト」となります。日本語訳は「真理は決して滅びない」です。この言葉は、ローマ帝国時代の政治家で哲学者のセネカの著書『カルタゴの女たち』から採られています。「VERITAS」を英語読みして「ヴェリタス」と読まないようにね!( ̄▽ ̄;)

国士舘大学中央図書館(図書館・メディアセンター棟)の正面入口です。
国士舘大学中央図書館.jpg
写真ではわかりにくいかもしれませんが、「VERITAS NUNQUAM PERIT」とあります。
国士舘大学中央図書館2.jpg
ちなみに、他大学も図書館などにラテン語で掲げています。
◯早稲田大学
「QUAE SIT SAPIENTIA DISCE LEGENDO」
知恵の何たるかを読むことによって学べ
◯慶應義塾大学旧図書館大時計
「TEMPUS FUGIT」
時は過ぎゆく
◯上智大学
「Lux Veritatis」
真理の光
◯日本女子大学
「VERITAS VIA VITAE」
真理は生命の道(真実は人生の道)
◯明治学院大学横浜図書館
「VERITAS LIBERABIT VOS」
真理はあなたがたを自由にする
◯首都大学東京(東京都立大学)
「VERITAS VOS LIBERABIT」
真理は君たちを自由にする
◯京都外国語大学
「PAX MUNDI LINGUAS」
言語を通して平和の世界を

ラテン語といえば、カトリック教会は、1962年から1965年までローマにあるバチカンで開催された「第二バチカン公会議」において、教会の現代化(アジョルナメント)をテーマに、多くの議論がなされ、以後の世界のカトリック教会の刷新の原動力となりました。
それまでのミサは、司式はすべてラテン語で行われていましたが、それが公会議後は、各国とも自国語でミサを行うことができるようになったのです。今もラテン語ミサを恋しく思う高齢者の方もいらっしゃいます(ラテン語ミサをやっている教会もあるそうですよ)。
私は、ラテン語ミサを経験したことがないのですが、ラテン語を勉強してミサに臨んでみたいものです。以前、このブログに掲載しましたが、せめて、「十字を切る祈り」、「主の祈り」、「使徒信条」と「アヴェ・マリアの祈り」は.ラテン語でお祈りしたいですね。
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新約聖書:ヤコブの手紙・第4章・第17節 [聖書]

「なすべき善いことを知っていながら行わないなら、それはその人にとって罪です。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

私にとっては非常にインパクトのある聖句(イエス・キリストの言葉、聖書の言葉)となっています。この「ヤコブの手紙」は、書いた人物は結論的には不明ですが、イエス様の弟子である12使徒の大ヤコブではないことはわかっているようです。3世紀の半ば以降、教父(きょうふ・初期キリスト教の教義の基礎を築いた人)達は、イエス様の兄弟(カトリック教会の解釈では従兄弟などの親類)で、「義人」と呼ばれたヤコブという人がこの書簡の著者であるとしてきました。

義人ヤコブが著者なら、書簡がかかれた場所は、義人ヤコブが62年の殉教まで暮らしていたエルサレムであろうと言われています。新約聖書の正典として取り上げられるまで時間がかかっていますが、それは、この書簡の内容が主にユダヤ人キリスト教徒に向けられたものということで、非ユダヤ人達があまり読まなかったためではないかと思われています。書簡の内容は、前段で神に対する間違った求め方が指摘され、中段でこの世との妥協が批判され、後段で悔い改めて神に立ち返るようにとの勧告がなされています。

この言葉ですが「人として、行わなければならない善い行い」を知っていながら、それを行わないのは罪になると説いています。知らないことを行わない=罪にならないということですが、場合によっては知らなくても罪になることもあります。しかし、知っていて行わないのは、なおさら罪になるということです。ヤコブの手紙は、このように「善い行い」を強調しているところに特徴のある書簡となっています。

この書簡の前段部分にある第2章・第14~第17節で、次のとおり書かれています。
「わたしの兄弟たちよ、たとえ、誰かが自分は信仰をもっていると言っても、行いが伴わないなら、何の役に立つでしょう。そのような信仰は、その人を救うことができるでしょうか。仮に兄弟か姉妹かが、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとしましょう。あなた方のうち、誰かが、その人に、「安心して行きなさい」「たくさん着なさい」「十分食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もまたこれと同じで、行いが伴わないなら、それ自身、死んだものです。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
………とあります。最後のところで「行いが伴わないなら、信仰だけでは死んだものである」と説いています。これは非常に大切なことで、信仰とは善い行いが伴って初めて信仰といえます。信じるだけでは信仰とはいえないのです。すべては「善い行い」が伴うのです。
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