支援活動日記2021.3.18(山谷夜回りの会活動) [支援活動日記]

今夜は、仕事が終わってからホームレス支援活動グループ「山谷夜回りの会」の活動に参加しました。東京都の緊急事態宣言は、期限の3月7日で解除される予定でしたが、その後延期されました。でも、21日には解除されるようです。ワクチンの接種は始まっていますが、まだまだ警戒することを忘れてはいけないですね。引き続き不要不急の行動は自粛しなければなりません。いつも申し上げておりますが、この山谷夜回りの会のホームレス支援活動は、いつものとおり《必要至急》の行動であることを再確認しておきます!

ここのところ、随分と暖かくなってきました。すでにコート、マフラーと手袋はオサラバしました。ただ、花粉症歴35年の私としては、暖かくなると花粉の飛散が拡大し、悲惨な状態となります!今日も鼻水は止まらず目は痒く、強い薬を3錠飲んで眠くなって仕事になりませんでした(⌒-⌒; ) とにかく季節な変わり目ですから体調に気をつけましょう!
「山谷夜回りの会」は、東京の寄せ場地域(日雇い労働者の町)である山谷地区で暮らす野宿者(ホームレス)の皆さんに、おにぎりやパンなどの食べ物、生活に必要な物資を夜回りしてお届けしている団体です。第一・第三木曜日の19時30分にJR南千住駅改札前に集合し、おにぎり、パンや日用品などをホームレスの皆さんにお配りしている団体です。誰でも参加できます!
「山谷夜回りの会」の詳細は、ホームページをご覧ください。
https://yomawari.yomibitoshirazu.com/

いつもながら、今宵も東京スカイツリーが透きとおって見えるほどキレイでした!
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毎回毎回このブログに書いていることですが、私は一人の人間として、また、キリスト者(クリスチャン)としても、人道のための支援活動を行うことが本望であり、若い時からの念願でもありました。働けなくて経済的に困窮し、路上生活を余儀なくされている人、家族に見放され精神時に不調をきたし、路上生活を余儀なくされている人、ホームレスになった人にはいろいろな理由があるのです。行政には限界があり、国や地方自治体ができないところを私たちが支援しなければなりません。旧約聖書の『イザヤ書』の第6章・第8節に「ここにわたしがおります。このわたしを遣わしてください。」とあります。遣わされる人、それが私たちのことです。イエス・キリストは、「隣人をあなた自身のように愛しなさい」と新約聖書の『マタイによる福音書』第22章・第39節で説いておられます。大切なことは「隣人への愛」とそのための「善き行い」です。今は「四旬節」です。特に愛徳の業に力を入れましょう!

今夜も台東区端の泪橋交差点から少し歩いた所にある、《いろは商店街(以前は実測350mほどのアーケード商店街でした)》に、ビニールシートのテントで寝ている方を含めて55人ほどのホームレスの皆さんが私達を待っていました。支援活動に集まった10人でホームレスの皆さんに、手作りおにぎり、マスク、タオル、軍手、石鹸、歯ブラシ、髭剃り、靴下、上下の下着類、ズボン、毛布、ホッカイロ、寝袋などをお配りしました。集まった皆さんは、私のような仕事帰りの社会人は少数派ですが、中心になるのは大学生や若い20歳代~30歳代の社会人で、若い人たちが使命感を持って支援活動に取り組んでいます。
だんだん気温が上がってくると思いますが、季節の変わり目ですから風邪をひかないように気を付けてもらいたいものです。ホームレスの皆さんは路上で寝る方も多く、底冷えする極めて悪い環境にありますから、体調には十分に気を付けていただきたいですね。活動が終了して反省会を行って20時50分ごろに解散し、今は既に帰りの電車の中です 。
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新約聖書:ヨハネの第一の手紙・第3章・第17〜第18節 [聖書]

「世の富を持ちながら、困っている兄弟を見ても、憐みの心を閉ざす人のうちに、どうして神の愛が留まりましょう。子たちよ、言葉や口先によってだけではなく、行いと真実をもって愛し合いましょう。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この「ヨハネの第一の手紙」は、新約聖書中の一書で「公同書簡」と呼ばれている書簡群の一つです。伝承では老齢にさしかかった福音記者ヨハネ(使徒ヨハネ)がエフェソスで書いたものだとされてきました。
この手紙を書いたとされるヨハネは、手紙の中で主イエス・キリストの聖句(言葉)である“お互いに愛し合いなさい”をたびたび記載しています。同情することも助けることも“お互いに愛し合う”ことだと説いています。そして、言葉だけ、口先だけで終わるのではなく、“行いと真実”をもって愛し合いなさい”と説きます。やはり、ここでも「行い」が問われています。“善い行い”ですね。キリスト教の信仰とは、“善い行い”が伴って初めて信仰といえるのです。

この「信仰には善い行いが伴う」ということが、はっきりと書かれているのが、新約聖書に収められている「ヤコブの手紙」です。この「ヤコブの手紙」には、「信仰とは、善い行いが伴わなけらばなりません。善い行いが伴わない信仰は死んだものです。」と書かれています。信仰するということは、善い行いが伴うということです。信じるだけでなく、善い行いが伴わなければ、それは信仰していることにならないということですね。本文は次のとおりです。
◯新約聖書:ヤコブの手紙・第2章・第14〜第17節、第24節
「わたしの兄弟たちよ、たとえ、誰かが自分は信仰を持っていると言っても、行いを伴わないなら、何の役に立つでしょう。そのような信仰は、その人を救うことができるのでしょうか。仮に兄弟か姉妹かが、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとしましょう。あなた方のうち、誰かが、その人に、「安心して行きなさい」「たくさん着なさい」「十分食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないとするなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じで、行いが伴わないなら、それ自身、死んだものです。」
第2章・第24節
「これで明らかなうように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるものではありません。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
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