新約聖書:ルカによる福音書・第15章・第11〜第32節 [聖書]

今日は、新約聖書の中でも特に有名な「放蕩息子の帰還(帰郷)」又は「放蕩息子のたとえ話し」といわれている箇所のお話しを掲載いたします。少々長くなりますが、最後まで根気よく読んでくださいね。それから、このブログに「放蕩息子の期間・関西弁編」もあります!是非お読みください!関西弁は、落語調になっていますからとっても面白いですよ!
掲載は次のアドレス https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/archive/20140413 の掲載となります。

「イエスは仰せになった。「ある人に二人の息子があった。弟が父に向かって言った、『お父さん、わたしがもらうはずの財産の分け前をください』。そこで、父は資産を二人に分けてやった。いく日もたたないうちに、弟はすべてをまとめて、遠い国に旅立った。そこで放蕩に身を持ち崩し、財産を無駄使いしてしまった。すべてを使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こり、彼は食べる物にも困るようになった。そこで、その地方のある人のところに身を寄せたところ、その人は、彼を畑にやって豚を飼わせた。

彼は、豚の食べる蝗豆(いなごまめ)で、空腹を満たしたいほどであったが、食べ物を与えてくれる人は誰もいなかった。そこで、息子は本心に立ち返って言った、『父の所では、あんなに大勢の雇い人がいて、食べ物があり余っているのに、わたしはここで飢え死にしょうとしている。そうだ、父のもとに行こう。そうしてこう言おう、<お父さん、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません。どうか、あなたの雇い人の一人にしてください>』。そこで、彼は立って父のもとへ行った。

ところが、まだ遠く離れていたのに、父は息子を見つけ、憐れに思い、走り寄って首を抱き、口づけを浴びせた。息子は父に向かって言った。『お父さん、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。もうあなたの子と呼ばれる資格はありません』。しかし、父は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を出して、この子に着せなさい。手には指輪をはめ、足には履き物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を引き出して屠りなさい。食事をして祝おう。この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。やがて、祝宴が始まった。

さて、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。そこで僕の一人を呼ぶと、いったい何事かと尋ねた。すると、僕は答えた。『弟さんがお帰りになりました。無事に弟さんを迎えたので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです』。兄は怒って家に入ろうとしなかった。そこで、父が出て来て宥める(なだめる)と、兄は父に向かって言った、『わたしは長年お父さんに仕え、一度も言いつけに背いたことはありません。それなのに、わたしが友人と祝宴を開くために、子山羊一匹もくださいませんでした。
ところが、あなたのあの息子が娼婦どもにあなたの財産をつぎ込んで帰って来ると、彼のためには肥えた子牛を屠られます』。すると父は言った。『子よ、お前はいつもわたしとともにいる。わたしのものはすべてお前のものだ。しかし、お前の弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、祝宴を開いて、喜び合うのはあたり前ではないか』。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

聖書のこの箇所は、新約聖書「ルカの福音書」の第15章に登場するイエス様が語った喩(たとえ)話しです。父と2人の息子(兄弟)が登場するので、「2人の息子のたとえ」や他に「放蕩息子の帰還(帰郷)」などともいわれています。このたとえ話は、昔から有名で「完全なる小品、短編物語中の最高傑作、福音書の中の真珠」とも言われています。
簡単に要約しますと、「ある父親に2人の息子(兄弟)がありました。しかし、ある日、次男坊は父親から遺産の分け前(生前分与)を受け取って遠い国へと出ていってしています。そして、お金と自由を得た勢いで放蕩の限りを尽くし、とうとうすべてを失ってしまいました。墜ちるところまで墜ちたとき、彼は初めて自分の過ち(罪)に気づきます。そして、合わせる顔がないと思いつつも、謝罪の気持ちと救い(赦し)を求めて、かつて飛び出したお父さんの家に帰ってきたのでした。
彼はどんなに叱られても仕方がないと思っていたでしょう。しかし、父親は帰ってきた息子をしっかりと抱きしめて、「死んだ息子が生き返った」と喜んで、盛大な祝宴を開いてくれました。この譬え話で最も感動的な部分がここにあります。
ところが、それを聞いた長男は釈然としない気持ちにかられます。自分は何年もお父さんの言うとおりに忠実に働いてきたけれど、あんな風に祝宴を開いてもらったことは一度もないことを思うと、怒りのようなものさえこみ上げてきます。この長男の様子を聞いた父親はすぐにとんで行き、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と、長男を宥め、2人の息子がそれぞれに父の愛を受けていることを諭したというものです。」ということです。

この聖句(物語)は、放蕩息子の①帰還を待ちわび、②息子を赦し、③喜ぶ父親の物語となっています。ここでの父親とは「神様」のことですね。弟は放蕩息子で「罪びと」です=私達のことを指しています。兄とは当時の「神の教えに反して形式的で偽善的な律法しか教えないユダヤ教ファリサイ派(ユダヤ人)や律法の専門家の人々」のことを指しています=これも私達のことですね。ですから、この聖句(物語)に出てくる「父親」を「神様」と読み替え、「息子(弟)」を「私たち=罪びと」と読み替えると理解しやすくなります。
兄の訴えは正当な発言であるように感じられますが、兄は一つの大切なことを忘れています。父親はそのことを説明して兄に語りかけます。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と。この父親は今、弟と兄との間に立っています。兄弟としての関係を失ってしまった2人の間にです。父親は兄弟の和解のために、帰還した弟にではなく兄に語りかけます。「ところが、あなたのあの息子が」と、もはや弟だと思えないで憎悪をむき出しにする兄に向かって、父は「子よ」と語りかけます。

このたとえ話しの結論は、「悔い改めるのは、もちろん父親から離れて放蕩の限りをつくして散財した弟であるが、実はもっとも悔い改めを必要としているのは兄の方である。」というものです。イエス・キリストが説く悔い改めとは、弟のように、父親が額に汗水流して働いて蓄財した財産を、放蕩の限りをつくして散財した罪を悔い改めて父の家へと立ち返ることだけではありません。絶望と死の淵から命へと向かって立ち上がるのが、弟の悔い改めであったとすれば、兄が今必要としているのは、①弟との和解であり、②ねたみと憎悪を取り去ることであり、③弟への赦しです。そして、④父とともにあることの豊かさを再認識 = 感謝すること、これこそが兄のなすべき悔い改めなのです。つまり、日々神様の恩恵を受けている私達が、神様への感謝の気持ちを忘れている状態と同じなのです。私たちがなすべき回心のわざに他ならないということです。

神の愛は、何時いかなる時も分け隔てなく誰にでも(罪びとであっても)注がれているのであって、私達自身が嫉妬、貪欲、傲慢、激情、怠惰、色欲、貪食などの悪意で、自らそれを拒んでいるのですね。イエス・キリストは、この放蕩息子のたとえ話しで、私達人間に<神の際限のない愛と赦し>、そして、どのような罪を犯しても<悔い改めて神に立ち返ること>を説いているのです。

ちなみに、私の部屋にはレンブラント・ファン・レイン作の『放蕩息子の帰還写』の絵(写)が飾ってあります。左側の膝まずいてみすぼらしい姿をしているのが放蕩息子で、両手で抱えるようにしているのが父親です。そして、右側に立ってこの二人を見下しているのが兄です。
『放蕩息子の帰還』 レンブラント・ファン・レイン作 ・1666-1668年頃
エルミタージュ美術館蔵
800px-Rembrandt_Harmensz_van_Rijn_-_Return_of_the_Prodigal_Son_-_Google_Art_Project.jpg

◯関係書籍のご紹介
放蕩息子の物語に関係する書籍はたくさん出版さえていますが、中でもこの本は一番わかりやすい本です。お勧めいたします。是非お読みください!
書名:『放蕩息子の帰郷―父の家に立ち返る物語―』
著者:ヘンリ・ナウエン
訳者:片岡 伸光
出版社:「あめんどう」
刊行年:2003年
単行本:206ページ・A5版
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