今日の日記2021.3.14(ズワイガニのスパゲティ!) [日記]

朝昼兼用のご飯です!今日は、妻手作りのズワイガニのスパゲティです!他に手作りジャガイモコロッケ、野菜スープです。ズワイガニの身とカニ味噌が入っていて最高に美味い!これはスパゲティ屋さんができます!デザートはミカンとイチゴにアイスクリームでした\( ˆoˆ )/
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「親指のマリア」ミニ・レプリカの額装 [キリスト教と美術]

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今日で3日連続して「親指のマリア」の関連記事となりますが、今日はミニ・レプリカの額装のご紹介となります。「親指のマリア」の詳しいことは、このブログの3月12日の「親指のマリア(親指の聖母)のお話し」をご覧ください。一昨年の秋に、フランシスコ教皇が来日した際、合資会社 俵屋工房さんが記念品として作製・販売したものです。ミサ・レプリカですが、原画を忠実に写しています。
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新約聖書:ルカによる福音書・第15章・第1〜第7節 [聖書]

「さて、徴税人や罪人たちがみな話しを聞こうとして、イエスのもとに近寄ってきた。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを受け入れて、食事をともにしている」とつぶやいた。
そこで、イエスは彼らに次の喩えを語られた。
あなた方のうちに、百匹の羊を持っている者がいるとする。そのうちの一匹を見失ったら、九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで、跡をたどって行くのではないだろうか。そして見つけ出すと、喜んで自分の肩に乗せて、家に帰り、友人や近所の人々を呼び集めて言うだろう、『一緒に喜んでください。見失ったわたしの羊を見つけましたから』。あなた方に言っておく、このように、悔い改める一人の罪人のためには、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人のためよりも、もっと大きな喜びが天にある。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)ですが、まず「百匹の羊を持っている者」とは、神様=イエス・キリストのことで、「見失った一匹の羊」とは罪びとのことです。そして、「九十九匹」とは正しい人という意味です。この聖句は、「悔い改める一人の罪びとのためには、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人のためよりも、もっと大きな喜びが天にある。」という意味になります。
九十九匹を荒れ野に残すという大きな危険を冒してまでも、羊飼いは見失った一匹の羊のために探し出そうとするのですね。つまり、神様=イエス・キリストは、たった一人の罪びとであっても大切な存在なのだと説いているのです。そして、神の恩寵(おんちょう)の外に出て行った罪を犯した罪びとでも、悔い改めて恩寵の中に戻ってこれるように、神様=イエス・キリストは、救い出すのですね。

このイエス様のご絵は、とても神様への愛に深い敬虔な方からいただきました。罪びとの私にぴったりなご絵です………ということは、イエス様の肩に乗っているのは私ということですね(⌒-⌒; )
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このたとえ話しは、イエス・キリストが、徴税人や罪びとを招いて食事をしていることをファリサイ派の人たちが咎めたことに対する、イエス・キリストの反論から始まっています。この「ルカによる福音書」と同じ趣旨の内容が載っている「マタイによる福音書 (第18章・第10〜第14節)」では、イエス・キリストは弟子たちに向かって、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、天におられるあなた方の父(神様)のみ旨ではない。」と説いておられます。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第5章・第30~第32節
「ファリサイ派の人々やその他の律法学者たち、イエスの弟子たちに向かってつぶやいて言った。「どうして、あなた方は徴税人や罪人とともに食べたり飲んだりするのか」。そこで、イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
◯新約聖書:マタイによる福音書・第9章・第10〜第13節
「イエスが家で食卓に着いておられた時のことである。徴税人や罪人たちが大勢やって来て、イエスや弟子たちとらともに食卓に着いていた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに言った。「どうして、あなた方の先生は、徴税人や罪人と食事をともにすれるのか」。これを聞いて、イエスは仰せになった、「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。『わたしが望むのは犠牲(いけにえ)ではなく、憐れみである』ということが何を意味するか、学んできなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

解釈は、次のとおりです。
この部分で、「ファリサイ派の人々(やその他の律法学者)」という人たちが出てきますが、このファリサイ派・律法学者たちとは、自分達イスラエル人は、神に選ばれた唯一の民族で、神様との特別な契約を結んだ“神の民”であり、救いは“神の民”だけのものだと信じていました。ですから、イスラエル人でない異邦人は、神様の救いから除外されており、神様の教えをないがしろにして、自分たち人間の勝手な解釈によって形骸化している律法信奉している人たちです。自分たちの律法を守らない者は、血筋ではイスラエル人であっても、異邦人と同じように救いから除外される「罪びと」と考えられていました。

その後に「徴税人(ちょうぜいにん)」という人たちが出てきますが、この徴税人とは、当時のユダヤ地方(イスラエル辺り)を属州として支配していたローマ帝国(ローマ人)のために、税金の取り立てを請け負ったユダヤ人のことです。ローマ人(異邦人)支配者のために、同胞から税を取り立て、定められた額より多く取り立てるということで、同じユダヤ人から憎まれて「罪びと」として嫌われていました。

イエス・キリストは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである。」と説いておられます。「医者」とはイエス・キリストのことで、「健康な人」とは正しい人、そして、「病人」とは罪びとという喩(たとえ)えになっていますが、「罪びとを招いて悔い改めさせるためである。」ということです。つまり、健康な人なら医者はいらないのであって、医者が本当に必要なのは病人です。それと同じく正しい人であれば悔い改めはいらないのであって、罪びとは悔い改めが必要であり、イエス・キリストの救いを必要としているのです。
イエス・キリストは、罪人が悔い改めて救われることを望み、そのために宣教活動をされました。徴税人も他の人と同じ人間であり、徴税人としてのこれまでの行いは、これからの生き方によっては、それまでの悪い行いは赦され、新しい生き方が開けることをイエス・キリストは説いておられるのです。
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