教会日記2021.3.6(カトリック成城・聖タデオ教会「主日のミサ」土曜日) [教会日記]

今日は、土曜日の勤務免除で仕事はお休みでしたが、いろいろな諸用が終わってからカトリック成城・聖タデオ教会の16時からの「主日のミサ」に与りました。緊急事態宣言が再発出されてから、ミサ中に聖歌は歌わないことになり、日曜日の「主日のミサ」での聖歌隊の奉仕活動がなくなったため、土曜日の「主日のミサ」に与ることにしました。

ミサは、コロナ渦にあることから3蜜を避けるため、ソーシャルディスタンスで入堂制限があります。また、今までミサに与っていた回数を半減することやなるべく自宅でのお祈りを推奨しています。緊急事態宣言が延長されましたから、ミサに与るにはまだまだ制限が継続されます。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
とお祈りしました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、仕事の同僚と同じ病の私の親しいご婦人の二人の病気が癒されますようにお祈りしました。
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「神の声を聴く」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

私は「神の声を聴いた」という人に出会ったことはありませんが、人から聞いたことやSNSなんかで聴いたという書き込みを見たことはあります。旧約聖書を読むと、「神の声を聴いた」という神からの言葉(預言)を託された人(預言者)がたくさん登場しますが、聖書における何千年という歴史の中では、ごく少数の人でしかありません。

私も神の声を聴きたいと思いますが、信仰をしていても現実的ではないという思いが強いですね。それは、私のような人間に神様が語りかけてくれるくらいなら、その前にもっと敬虔な、信仰熱心な人に語りかけることでしょう。私は信仰に不熱心とは思いませんが、私のような程度の信仰心の人なら、この世にいくらでもいるのではないかと。

では、神の声はどのような時に、どのような人に聴こえるのか?ということですね。用もないのに神が人間に語りかけることはないと思いますし、神の声が何でもないと時に聴こえるとは思えないですね。きっと理由があるはずです。それは、神が語りかけるのは、<神がその人を必要としている時>だからだと思うのです………少し難しいかも。

しかし、神の声はすでに私たちすべての人間に語りかけられているのです。すでに私たちは聴いているのです。それはどういうことでしょうか?それは聖書です。聖書の聖句(聖書にある言葉)で、すでに私たちは神からの声を聴いているのです。聖書にある聖句は神の言葉です。直接的ではありませんが、私たちは間接的に聴いているのです。

聖書を通して間接的に聴いている聖句を神の言葉として受け入れることが「神の声を聴いた」ことになるのです。でも、それだけでは不十分です。その神の声を行うこと、行いが伴わないならば神の声を聴いたことにはなりません。神の言葉を実践することですね。とにかく聖書を読みましょう!よく読んで神の声を聴きましょう。聖書ならいつでも神の声を聴くことができるのです。でも、一度でいいですから直接お聴きしたいものです。もし、神の声が聴こえたら、「主よ、ここに私がおります。この私を遣わしてください。」と申し上げたいですね。
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