教会日記2020.3.14(カトリック麹町・聖イグナチオ教会「ロザリオの祈り」土曜日) [教会日記]

今日は、仕事は指定休でお休みです………が、午後から重要な会議がありましたので休みのままの身分で出勤し、終わってから祭壇用のローソクと書籍を買うために四ッ谷にあるサンパウロとドン・ボスコに行ってきました。帰りにカトリック麹町・聖イグナチオ教会に寄って「ロザリオの祈り」を一環を捧げてました。毎月何日かは平日のミサに与っているのですが、今月は初めて来ました。パイプオルガンの練習があったのですが、広々とした静寂なお御堂で心静かにお祈りすることができました。5人〜10人くらい方もお祈りにきていました。主(神)に新型コロナウィルスの感染拡大防止、感染者の皆さんの早の治癒、不安定となっている人心の安寧をお祈りいいたしました。都心はすごい降雪で大変なことになってます( ̄◇ ̄;)

ミサの中止は15日以降も継続されることになりました。とても残念です。東京大司教区のタルチシオ菊地功大司教から、3月10日付けで次のとおり「新型コロナウイルス感染症に伴う3月15日以降の対応」としてお知らせが出ましたので、東京大司教区のホームページをご覧ください。https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/ またミサが遠のいてしまいました〜( ̄◇ ̄;) ますますお祈りに専念ですね!
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アンデルセンのことば(第4日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「珍客も長居をすれば嫌がられる」

ハンス・クリスチャン・アンデルセンのことは、「アンデルセンのことば(第1日目)」2020.3.8をご欄下さい。
短くて単純な言葉ですが、難しい言葉ですね。「珍しい客」ということですから、懐かしい友人が久しぶりに訪ねてきたとか、思いがけない人が訪れたということですね。そういうお客様が長居をすると嫌がられるということです。久しぶりですから長居OK!と言いたいのですが、そうではない時もあるのですね。

あくまでも一般的な話しであり象徴的な話しとしてですが、故郷に孫を連れて帰省すると、お爺ちゃん、お婆ちゃんは「待ってました!」とばかりに、ものすごく喜んでくれるのですが、何日もいるとしだいに疲れて“うんざり”するようです。
また、京都では、「上がって“ぶぶ漬け(お茶漬け)”でも食べていかれまへんか~」という有名な言葉がありますが、皆さんも一度は聞いたことがあると思います。京都にいる友人に、そのところの説明をメールで求めてみたところ、次の回答がありました。(返信メール内容をそのまま掲載)

「……実際にはそのようなことを言う人も、「帰ってくれ」という意味でこう言うという決まりもありません。それは京都に住んでいる人の“言葉の裏の裏を読み合う会話の揶揄(やゆ)”として作られた話しであって、日常的に存在している言葉ではありません。
「上がって」というのは玄関先でのやりとりで、ちょっと通りかかったので「挨拶だけ」といって玄関先でお客様が話しを始めた時、「挨拶は終わったから、そろそろ切り上げて帰ってもらいたい」、「義理で顔を見せただけのわりには話しが長い」と思ったところで、「上がっていってください」と逆のことを言うわけです。
これでお客様は、自分が上がるほどの用で来たのではないことを互いに知っていながら、その家の主人のあえて「上がれ」と言う言葉で意味を悟るのです。「ぶぶ漬け(お茶漬け)でも」はそのダメ押しですね。その程度の用事なら、上がるまでもないでしょう?まして茶漬けをよばれるほど手間を掛けさせるつもりなんてないでしょう?……と、「ここまで言えばさすがに気づくだろう」ということです。

「帰ってくれ」というのは直接的な言い方ですが、ここで自分がこのまま話しを続けるのか?それとも帰るのか?その切掛けを作っている程度だと言ってもいいですね。なお、なぜ茶漬けなのかと言うと、これは謙遜であって、「何もありませんがどうぞ」という表現と同じだそうです。本気でもてなす時も「ぶぶ漬けくらいしかないですが」と言ってきちんとして食事が出てくる、これは京都に限らず日本的な謙遜的な表現だと思います。」ということでした。訪問先での“長さ加減”が難しいですね。訪問もスマートでありたいものです!

【揶揄】
冗談や皮肉を言って、軽く相手をからかうことの意
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