今日の日記2020.3.11(ミサ中止続行!) [日記]

東京大司教区のタルチシオ菊地功大司教から、3月10日付けで次のとおり「新型コロナウイルス感染症に伴う3月15日以降の対応」としてお知らせが出ました。東京大司教区のホームページをご覧ください。https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/ またミサが遠のいてしまいました〜( ̄◇ ̄;) ますますお祈りに専念ですね!
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新約聖書:マタイによる福音書・第5章・第38〜第42節 [聖書]

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

このブログに5回目の登場となります。聖書の中でも有名な箇所ですね。この言葉をそのまま理解しょうとすると、「とにかく我慢をして逆らわないようにすること。」となり、「なんと神様は理不尽な方なのか!」ということになってしまいますね。でもそうではないのです。

私は、この部分を次のように解釈します。
「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」は、一般的に言って世間では右利きの人の方が多いのですが、自分の右の手で相手の右の頬を打つ場合、自分の右手の掌(てのひら)ではなく手の甲で打つことになります。この手の甲で打たれるということは、当時も今も非情に侮辱的な行為なのです。あえて右の頬を打つというところに侮辱されることが強調されています。それにも増して左の頬も差し出せというのですから、その徹底ぶりには凄いものがあります。
その後に続く「下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」や「一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」も同じことですね。これも徹底しています。これは、暴力に対して暴力で返してはならない。復讐してはならないという戒めですが、無抵抗でありなさいという意味ではなく、相手に卑屈になることなく、自分を卑下することもなく、正々堂々と相手に対して正面を向きなさいという意味があると解釈しています。
それだけに止まらず、この後に「敵を愛せ」と説きます。……ということは、その前に「赦しなさい」ということが伴うことになります。「なぜそこまでやるのか?」と思ってしまいますが、イエス・キリストは、人間が暴力を受けても、無理強いをされても自ら復讐などをして“罪”を犯すことのないように、相手を赦し、相手を愛することによって、この世に平和な世(共同体)を築かせるために説いているのです。そのような人間こそが神様に愛されると=神様の報いがある・報われるということです。「お互いに赦し合うこと」、「お互いに愛し合うこと」の2つは、イエス・キリストが一番に説いたことですね。

ちなみに、新約聖書:ローマの信徒への手紙・第12章・第17~第19節に次のことが書いてあります。
新約聖書:ローマの信徒への手紙・第12章・第19~第21節
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
「主」とは神様のこと。報復は神様が行うのです。報復は人間のすることではないのですね。これを信じることが信仰なのです。
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