教会日記2020.3.5(カトリック成城教会「ロザリオの祈り」木曜日) [教会日記]

今日は、仕事が終わってから帰り道を小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城教会で「ロザリオの祈り」一環を捧げてきました。本来であれば今日はホームレス支援活動ですが、疲れが溜まって体調が良くないことと、このご時世ということもあって大事を取ってお休みさせていただきました。
暗いお御堂ですが、これが落ち着きますね。
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お御堂では、お祈りの前半はパイプオルガンの練習がありましたが、終わってからは静寂に包まれ、一人で心静かにお祈りすることができました。聖母マリア様のご像の前でのお祈りは、なぜか安堵感で心が満たされます。ほとんど毎日のようにどこかの教会でミサに与ってご聖体を拝領していましたから、やはりミサのない日常はダメですね~。

新型コロナウィルスの拡大防止のため、カトリック東京大司教の菊地大司教から「新型コロナウイルス感染症に伴う公開のミサ中止について」の文書が発表され、3月14日まですべてのミサが中止となったのです。詳細は、このブログの2月6日の記事をお読みください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2020-02-26-3

仕事で忙しい毎日を過ごし、一端立ち止まって心を整理する余裕がないため、いつも気持ちが高ぶって落ち着かなかったのです。ても、やはりお祈りの力は絶大ですね。いつも実感していますが、お祈りの後の安堵感は半端じゃないのです。明日は、久しぶりに有給休暇をいただきました。午前中に諸用を済ませ、午後は身体の休養も大切ですが、お祈りと黙想で一日を過ごしたいと思います。
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新約聖書:マタイによる福音書・第20章・第1〜第16節 [聖書]

「天の国は、ある家の主人に似ている。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明とともに出かけて行った。彼は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場で立っている人々がいたので、『あなたがたもぶどう園に行きなさい。それなりの賃金を払うから』と言った。それで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろに出て行って、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と言った。彼らが、『だれも雇ってくれないのです』と答えたので、主人は、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていたが、一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは。』
主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
『聖書協会共同訳聖書』から

「ぶどう園の労働者のたとえ話」・『エヒテルナッハの黄金福音書』11世紀ごろ
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今日の聖書の箇所は、「ぶどう園の労働者」といわれる有名なところです。イエス様の聖句(イエス・キリストの言葉)ですね。物語のあらすじは簡単です。朝早くから雇われた者と夕方から1時間しか働かなかった者が同じ賃金を支払われた。それで朝早くから働いていた者が文句を言うと、ぶどう園の主人は「私は不当なことはしていない。」と言うわけです。労働時間に比例した賃金を払うという約束ではないわけですから、主人を不公平と非難するのは筋がとおりません。
しかし、現代の私達の社会では、一般的に言って昔も今も労働の報酬というのは、時間に比例するというシステムの中で生きていますから、このお話しを聴くと朝早くから働いた労働者と同じで奇異に感じるのは当然だと思うのです。
ところで、この労働の報酬は1デナリオンです。「デナリオン」という価値は、1日の賃金にあたるということです。この時代、1日の賃金というのはまさにその日を生きていくために必要なお金なのですね。この話は、その日雇ってもらわなければいけない人々ですから、定職があるわけではないのです。その日、その日を生きていくのが精いっぱいなわけです。つまり、1デナリオンというのはその人とその家族が、その日、あるいはその日を含めた数日を最低限生きていくために必要な金額なのです。

そこで、解釈に移りますが、いろいろと解釈されています。ある解釈では、①「イエス様は、洗礼を受けた時期とは関係なく、神様はどの人も天国に招いている。」ということです。具体的な解釈では、10時間働いた人=幼児洗礼を受けた人で、1時間しか働かなかった人=死ぬ間際になって洗礼を受けた人(これを「天国泥棒」といいます。)ということです。まぁ、これはこれで、こういう解釈もあるということです。でも、これでは、聖句の最後にある1時間の人が先に天国に入るということがわかりませんね。また、次の解釈もあります。それは、②「キリスト教徒の方が先に天国に入るが、ユダヤ教徒は後回しにはされるものの結局は天国に入れる。1時間の人が優先されるのはイエス・キリストを信じたからということ。」という解釈です。当時、ユダヤ教の社会においてイエス様が生まれ、その教えが福音書となりキリスト教徒となったわけですから、イエス様を迫害したユダヤ教徒は後回しになるということですね。しかし、いずれにしても私は①と②のどちらにも納得できないですね。

そこで、私は次のとおり解釈します。
まず「労働者」というのは私たち人間のことで、賃金を支払う「ぶどう園の主人」は「神様」のことです。すると「朝から一日中」、「一時間だけ」というのは、人間にとって最も大切なことの一つである“働くこと”=与えられた“労働の時間”、これを私は“善き行いをした人生の時間”と解釈します。そして「賃金」とは、人生への「報酬」=「神様の愛」です。
このように捉えると、元々神様の愛は「無限」ですから、それを「同じ」とか「多い少ない」とか比較すること自体意味をなしませんね。労働者たちが受け取った「同じ賃金(1デナリオン)」=「同じ神様の愛(憐れみ慈しみ)」とは、神様の愛が無限であることを指しています。ぶどう園での労働で、最後に来た者(1時間しか働かなかった者)が、最初に賃金を受け取ることが出来たのも、時間に関係なくすべての人が1日分の賃金を与えられたのも、すべては神様(ぶどう園の主人)の憐れみ慈しみによるのです。
「先にいる者が後になる」とは、“善き行いをした人生の時間”が長いにもかかわらず、神様の憐れみ慈しみを忘れていつしか傲慢になり、他の人と比較して不公平だとふてくされ、他の者が自分と同じ報酬を受けることを喜ばない人です。つまり神様の憐れみ慈しみを素直に喜ばない人です。そしてあたかも神様が不公平をしているかのように受け取っている人です。そういう人達は、天の国に入るのは後になるのです。
反対に、“善き行いをした人生の時間”が短いにもかかわらず、素直に謙虚に神様の憐れみ慈しみを喜ぶ人達は、先に天国に入れるのですね。私達は、今一度、神様の前に謙虚になり、他人と比較するのではなく、自分に与えられた“分際(ぶんざい)”に感謝し、今ここにいる幸せに心から感謝を捧げなければなりません。それをイエス・キリストは、このたとえ話で説いておられるのです。

【分際】
身分・地位の程度のこと。身のほど。分限。大した身分でもないのに、という軽蔑(けいべつ)の気持ちを込めて用いることが多いですね。例えば「学生の分際でぜいたくだ!」など。
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