教会日記その二2019.9.7(カトリック府中教会「主日のミサ」土曜日) [教会日記]
今日は、カトリック大司教区カトリック府中墓地にある町田教会のお墓参りの帰りに、久しぶりにカトリック府中教会を訪れ、17時からの主日のミサに与りました。府中教会でのミサは、2014年8月11日以来となります。約5年振りくらいですね~随分とご無沙汰をしておりました(⌒-⌒; )
ミラノ外国宣教会の宣教師(司祭)が司牧している教会です。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。また、ミサの司式の途中で、「病者の塗油の秘跡」がありました。高齢者信徒のご健康をお祈りしました。
ミラノ外国宣教会の宣教師(司祭)が司牧している教会です。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。また、ミサの司式の途中で、「病者の塗油の秘跡」がありました。高齢者信徒のご健康をお祈りしました。
今日の日記2019.9.7(お昼ご飯!) [日記]
「カトリック府中墓地」お墓参り [教会日記]
府中市にあるカトリック東京大司教区の「カトリック府中墓地」です。案外広い墓地なんですよ〜!それにしても暑い!滝のような汗が出ます!久しぶりに真夏の暑さです!猛暑ですね。かなり体力を消耗しますね( ̄◇ ̄;)
今日は、2年ぶりに「カトリック府中墓地」を訪れ、私が尊敬する岩下壮一司祭(神父)様のお墓まいりと私が所属する町田教会の亡くなられた皆様の永遠の安息をお祈りしてきました。毎年恒例となっている個人的なお墓参りですが、昨年はお墓参りを残念してしまいました(;。;)
東京大教区司祭のお墓です。東京大司教区に所属する神父様たちのお墓です。
私が尊敬する岩下壮一神父様の名前があります(中央)。
明治時代の外国人宣教師のお墓です。
町田教会のお墓です。毎度のことですが、なぜかイカみたいな奇抜な形のお墓です!クリスマスツリーのようだとおっしゃる方もいるのですが、どうみてもイカです!私も入るお墓なんですが、なんでこんな奇抜なデザインにしたのでしょうか(; ̄O ̄)他の教会の墓石は、十字架だったします。いいですね~十字架!
お花を持ってきました。永遠の安息をお祈りいたしました。
ちなみに、町田教会のお墓の向かい側にある「ミラノ外国宣教会」のお墓です。十字架のお墓はいいですね〜!
お墓参りが終わってから、墓地内にある聖堂でお祈りを捧げてきました。
今日は、2年ぶりに「カトリック府中墓地」を訪れ、私が尊敬する岩下壮一司祭(神父)様のお墓まいりと私が所属する町田教会の亡くなられた皆様の永遠の安息をお祈りしてきました。毎年恒例となっている個人的なお墓参りですが、昨年はお墓参りを残念してしまいました(;。;)
東京大教区司祭のお墓です。東京大司教区に所属する神父様たちのお墓です。
私が尊敬する岩下壮一神父様の名前があります(中央)。
明治時代の外国人宣教師のお墓です。
町田教会のお墓です。毎度のことですが、なぜかイカみたいな奇抜な形のお墓です!クリスマスツリーのようだとおっしゃる方もいるのですが、どうみてもイカです!私も入るお墓なんですが、なんでこんな奇抜なデザインにしたのでしょうか(; ̄O ̄)他の教会の墓石は、十字架だったします。いいですね~十字架!
お花を持ってきました。永遠の安息をお祈りいたしました。
ちなみに、町田教会のお墓の向かい側にある「ミラノ外国宣教会」のお墓です。十字架のお墓はいいですね〜!
お墓参りが終わってから、墓地内にある聖堂でお祈りを捧げてきました。
教会日記2019.9.7(カトリック田園調布教会「平日のミサ」土曜日) [教会日記]
今日は、カトリック田園調布教会の7時からの平日のミサに与りました。田園調布教会での土曜日の早朝ミサは、8月17日(土)、24日(土)、31日(土)と今日で4週連続となります。意識していたわけではないのですが連続しちゃいましたね(⌒-⌒;)ただ、田園調布教会は、ミサの前に「聖務日課」のお祈りを行っており、私のような者にとっては大変勉強になりますので、今後も1週間に1回(土曜日)はお伺いしてお祈りさせていただきたいと思っています。田園調布教会と信徒の皆さんに感謝です。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
新約聖書:ルカによる福音書・第14章・第7〜第11節 [聖書]
今日の言葉は、ルカによる福音書の第14章の第7節から第11節のところに、「謙遜の勧め」という副題がついている箇所の聖句です。
「また、イエスは、招かれた客たちが上席を選んでいるのをご覧になって、彼らに喩えを語られた。「結婚披露宴に招かれた時には、上席についてはならない。あなたより身分の高い人が招かれているかもしれない。すると、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うことになる。そうすると、あなたは恥ずかしい思いをして、末席に着くことになる。招かれた時はには、むしろ末席に座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席に進んでください』と言う。その時、あなたは同席しているすべての人の前で、面目を施すことになる。誰でも自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる。」
この聖句は、イエス・キリストが生きていた時代のユダヤ社会における身近な出来事を喩え話しにして語られていますが、イエス・キリストが私たちに教えようとされるのは、単に常識、礼儀、作法や道徳などの教えではありませんね。イエス・キリストは、「神の国に招かれる人の根本的態度」について私たちに教えているのです。
イエスが喩え話しで語られる「上席に着く人」とは、自分はすでに神様から認められている、あるいは認められる資格があると思い込んでいる人のことです。「末席に着く」人とは、自分は罪びとであり、神様の憐れみがなければ救われないと正直に自覚している謙遜な人のことです。どちらが神の国に入れるか歴然としていますね。
神のみ前においては、謙遜な者こそが、神の恵みや憐れみを受けて神の国に入ることができるのです。同福音書:第18章・第14節にも「誰でも自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる。」と同じ言葉があります。日ごろの生活態度もそうですが、私たち信徒にとっては、信仰生活の如何が問われているのですね。
「また、イエスは、招かれた客たちが上席を選んでいるのをご覧になって、彼らに喩えを語られた。「結婚披露宴に招かれた時には、上席についてはならない。あなたより身分の高い人が招かれているかもしれない。すると、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うことになる。そうすると、あなたは恥ずかしい思いをして、末席に着くことになる。招かれた時はには、むしろ末席に座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席に進んでください』と言う。その時、あなたは同席しているすべての人の前で、面目を施すことになる。誰でも自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる。」
この聖句は、イエス・キリストが生きていた時代のユダヤ社会における身近な出来事を喩え話しにして語られていますが、イエス・キリストが私たちに教えようとされるのは、単に常識、礼儀、作法や道徳などの教えではありませんね。イエス・キリストは、「神の国に招かれる人の根本的態度」について私たちに教えているのです。
イエスが喩え話しで語られる「上席に着く人」とは、自分はすでに神様から認められている、あるいは認められる資格があると思い込んでいる人のことです。「末席に着く」人とは、自分は罪びとであり、神様の憐れみがなければ救われないと正直に自覚している謙遜な人のことです。どちらが神の国に入れるか歴然としていますね。
神のみ前においては、謙遜な者こそが、神の恵みや憐れみを受けて神の国に入ることができるのです。同福音書:第18章・第14節にも「誰でも自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる。」と同じ言葉があります。日ごろの生活態度もそうですが、私たち信徒にとっては、信仰生活の如何が問われているのですね。