今日の日記2019.9.24(エドウインのブラックジーンズ!) [日記]

株式会社エドウイン(EDWIN)は、ジーンズなどのデニム素材を中心とした日本のファッションブランドの会社です。「エドウィン」と読みますが、表記は「エドウイン」で、「イ」は小文字ではありません。
1950年代に常見米八(つねみ よねはち)商店の商号から発展し、中古ジーンズをアメリカから輸入し市場に提供していましたが、1960年代に入り、日本で初めて独自の製法によりジーンズを製造・販売するようになりました。一時的にアメリカ・イタリアにも工場を設け、MADE IN U.S.A.シリーズ及びMADE IN ITALYシリーズを生産していましたが、数年で中止されています。ちなみに「EDWIN」というブランド名は、デニム(DENIM)の「D」と「E」を逆転し、「NIM」を180度反転し「WIN」として命名されました。

エドウイン・ジーンズの特徴は、ペーパー・ブラシを用いてジーンズにヒゲを出したりく、シェービングを用いて全体的な色落ち加工を施したり、ほつれを出すなどのダメージ加工が挙げられます。デザインの特徴としては、ポケットの「W」のステッチや「EDWIN」のロゴを大きく配した皮ラベルなどが挙げられます。このデザインは1960年代のモデルから引き継がれているデザインですね。
私は、学生時代からエドウインのブラックジーンズ(ブラック・デニム)ばかりはいています。ブルージーンズは、今まで1本くらいしかはかなかったですね。61歳になった今でもブラックジーンズですが、しかし、なぜか?夏前にブルージーンズに目覚め、この夏のプライベートは、すべてブルージーンズで過ごしました。
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◯2012年、不正経理を繰り返して主要金融機関からの借入金690億円の返済が滞り、2014年、伊藤忠商事がエドウイン・ホールディングスの株式を100%取得してスポンサー契約を締結しました。これは子会社化したということですね。現在の社長は、伊藤忠商事の執行役員であった林史郎氏です。林氏は、伊藤忠商事では執行役員ファッションアパレル第一部門長でした。
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新約聖書:ヨハネによる福音書・第2章・第1〜第11節 [聖書]

「さて、三日目にガリラヤのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちもその婚礼に招かれていた。ぶどう酒がなくなりかけていたので、母はイエスに、「ぶどう酒がありません」と言った。すると、イエスは母にお答えになった。「婦人よ、それがわたしとあなたとにどんな関わりがあるのでしょうか。わたしの時はまだ来ていません。」。母は給仕たちに、「何でもこの人の言うとおりにしてください」と言った。
ところで、そこにはユダヤ人が清めに用いる石の水瓶が、六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスは給仕たちに、『水瓶に、水をいっぱい入れなさい』と仰せになった。彼らは水瓶の縁まで水でいっぱいにした。イエスが、「さあ、それをくんで、宴会の世話役の所に持って行きなさい」と仰せになると、彼らはそれを持って行った。
世話役は、ぶどう酒になった水を味わってみた。水をくんだ給仕たちはそのぶどう酒がどこから来たのか知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「誰でも初めに善いぶどう酒を出して、酔いの回ったころに、質の劣ったものを出すものですが、あなたは善いぶどう酒を今まで取っておいたのですね」。イエスは、最初の徴としてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。そして、弟子たちはイエスを信じた。」
以上は『原文校訂による口語訳 新約聖書 フランシスコ会聖書研究所訳注』から

このブログに3回目の掲載となります。一部加筆・修正して再掲載しました。この聖句は、イエス・キリストが初めて奇跡を行ったことを描写している聖句です。水がワインになるという奇跡ですが、イエス・キリストは、人々を信仰に招くために多くの奇蹟(=しるし)を行っていました。重い皮膚病(ハンセン病)の人の肌を綺麗にして治したり、耳の聴こえない人を聴こえるように、盲人の目を見えるように、歩けない人を歩けるように、喋れない人を喋れるように、死人を生き返らせたりしています。魔法ではなく奇跡です。

この場面では、水をワインに変えて使徒(弟子)達の信じる心を開かせるために行った最初のしるし(=奇蹟)ですね。水がワインになるという描写は、ファンタジー映画などによく使われています。元々は聖書の中にあるイエス・キリストが行った奇跡のことなのです。キリスト教世界では、一般的に「カナの婚礼」と言われる聖書の有名な箇所です。神学者や聖職者によっていろいろな解釈がなされていますが、私はこの物語でポイントとなるところは、次のマリア様とイエス・キリストの会話の部分にあると思うのです………。

「母はイエスに、『ぶどう酒がありません』と言った。イエスは母にお答えになった、『婦人よ、それがわたしとあなたとにどんな関わりがあるのでしょうか。わたしの時はまだ来ていません。』」(「婦人」と「母」とは、聖母マリア様のこと)」

イエスがキリストの答えは、一見とんちんかんなことを言っているように感じられますね。それに、自分の母親に対して「婦人よ」という言い方は、あまりに冷たい他人に対する言い方のような気がします。これは、イエス・キリストは母であるマリア様に要求されたから答えたのではなく、神の子イエス・キリストとして主体的に恵みを与えるということを発言されたのではないかと推察します。神の子であるイエス・キリストとして、「ぶどう酒」は、ミサにおいてご聖体拝領でいただくイエス・キリストの血を象徴しています。

イエス・キリストの復活とミサにおけるご聖体と御血(おんち)の拝領を念頭に置いてこの箇所を読むと、マリア様とイエス・キリストの会話は、まるで違った解釈ができるのではないかと思います。それは「私(イエス・キリスト)が死に、あなた方がその記念として聖体拝領を行い、私の血の杯を飲む時はまだ到来していない。」とおっしゃられているのではないかと解釈できるからです。イエス・キリストが「神の国の到来を告げ知らせ悔い改めを述べ伝える」宣教活動の最初のところで、最後のところが暗示されているわけです。
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